学芸員雑記 山辺学校と兎川寺(とせんじ)

 旧山辺学校校舎は県道67号を挟んで兎川寺(とせんじ)の南側に建っています。

前身は兎川学校(とせんがっこう)

兎川寺(とせんじ)本堂

兎川寺(とせんじ)本堂

 兎川寺は開基したのがいつなのか厳密にはわからないくらい古い歴史のあるお寺で、山辺学校の建つ場所もかつて兎川寺の境内でした。

 

 明治4(1871)年、仏教を棄てようという廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の動きにより、兎川寺は一時、廃寺となりました。この本堂を使って明治6年につくられたのが兎川学校(とせんがっこう)で、山辺学校の前身です。

明治21年製山辺学校位置図

明治21年製山辺学校位置図

兎川学校建築仕様(第1室に展示)

兎川学校建築仕様(第1室に展示)

 校舎建設前の仕様書にも「兎川学校」の文字が見えます。

 山辺地域にはほかにも海岸寺を利用した桐原学校、瑞光寺を利用した南橋学校などが同じく明治6年につくられています。

 明治17(1884)年、地元の人々の強い願いにより兎川寺は再興します。学校として利用されていた本堂は、当時の金額1,500円(現在の価値で3千万円以上)で兎川寺へと買い戻されました。
 この1,500円を使って里山辺村、入山辺村の2村は新しい校舎を建てる計画をたてます。明治18年、桐原学校など近隣の学校を統合することを条件に、大きな校舎が建てられました。このとき、兎川学校は山辺学校と名前を変え、いま長野県宝として残る山辺学校の校舎が誕生しました。建築費は最終的に1,500円でも不足し、追加で寄附を募ったそうです。

石川数正(いしかわ かずまさ)夫妻供養塔

石川数正(いしかわかずまさ)夫妻供養塔

石川数正(いしかわかずまさ)夫妻供養塔

 兎川寺の境内に「石川数正夫妻供養塔」があります。
 いつ誰が建てたのか、確実な記録は残っていないそうですが、住職さんに伺ったところ、おそらく数正の子、康長(やすなが)によるものではないかとのことです。

 遺物などは埋葬されていなため、「供養塔」とされています。

 松本で石川父子といえば、松本城の天守を建てた方々。数正は初代松本城主です。徳川家康の懐刀とも言われた三河(愛知県)の人ですが、出奔して豊臣秀吉についてしまい、家康をおおいに悩ませた人でもあります。秀吉から信濃の国を任され、天正18(1590)年、松本にやってきました。2年後の朝鮮出兵の際に病死していますが、お墓など詳細は判明していません。

 跡を継いだ康長ですが、数正の出奔によってこじれた徳川家との関係に配慮し、供養塔を堂々と建てることができなかったのではないか、と兎川寺の住職さん。

校舎の庭と、北の兎川寺。奥に鹿島槍ヶ岳を望む

校舎の庭と、北の兎川寺。奥に鹿島槍ヶ岳を望む

 供養塔は兎川寺境内の片隅(校舎の東側辺り)にひっそり建てられました。兎川寺は古くから、この辺りを治めていた領主の祈願寺でしたので、その縁もあったのではないかということです。

 昭和30年代、現在の場所(本堂の南西)へ移動されました。

(学芸員:岡野)

学芸員雑記

 山辺の歴史や旧山辺学校校舎でのイベントなどを、学芸員の目線から紹介します。

雑記インデックス

  15.山辺学校の歌「山辺の里」 令和6(2024)年3月18日

  14.山辺学校の植林教育      令和6(2024)年2月16日

  13.施設敷地内の石碑など   令和6(2024)年1月18日

  12.しめ縄作り教室      令和5(2023)年12月20日

  11.里山辺地区で行われていた天然氷の製氷業 令和5(2023)年11月18日

  10.山辺地域の道祖神     令和5(2023)年 10月18日 

 9.100年前の山辺学校    令和5(2023)年  9月18日

 8.戦争紙芝居上演      令和5(2023)年  8月17日

 7.第5室「農家の暮らし」と昔の道具     令和5(2023)年7月17日

 6.「昔の遊び道具作り教室」   令和5(2023)年  6月18日 

 5.須々岐水(すすきがわ)神社のお船祭り   令和5(2023)年  5月21日

 4.山辺地域の御柱祭       令和5(2023)年  4月18日

 3.ミュージアム・トーク!    令和5(2023)年  3月18日

 2.入山辺のコトヨウカ行事  令和5(2023)年  2月18日

 1.山辺学校と兎川寺     令和5(2023)年  1月18日

※終了しました※令和4年度 第2回探古会を開催します

第2回探古会(古文書読解講座)
武家文書を読む(6) -信長・秀吉・家康-

※終了しました。ご応募ありがとうございました。※

令和4(2022)年度第2回探古会(古文書読解講習会)を開催いたします。
「古文書を読んでみたい」、「古文書に興味がある」という方はふるってご参加ください。

  • 日 時  令和5年2月26日(日) 午前9時~正午
  • 講座内容 武家文書を読む(6) -信長・秀吉・家康-
  • 会 場  松本市教育文化センター3階 視聴覚ホール
  • 定 員  40名(要予約・先着順)
  • 料 金  500円(テキスト代として)
  • 持ち物  筆記用具、飲み物(必要な方)、ハサミ
  • 講 師  後藤芳孝氏/松本市文化財審議委員
  • 申し込み 2月11日(土)9時から
  • 問合わせ 旧山辺学校校舎(℡ 32-7602)
令和3年度の探古会のようす

令和3年度の探古会のようす

上條館長の山城案内 波多山城

波多山城(はたやまじょう)松本市上波田 

平成23年3月22日松本市特別史跡

さて今日は波多山城(はたやまじょう)です。波多山城は小笠原氏の影響を受けた山城と考えられます。もともと波多氏はこの地域の牧を支配していた豪族だったのですが、やがて没落し、のちに小笠原氏が直参を派遣し、支配していきました。飛騨や木曾とも通じるこの道も大切な道だったのです。

ちなみにこの地域は波多村として発足したのですが混乱した時期があり、「波多し」の地名がよくないと1933年波田村になったそうです。

 さて、道順ですが、まず、波多神社、田村堂を目指します。アルピコ電鉄 淵東駅の道を南に上っていく道もありますが、道がやや狭いので、波田の商店街を抜けていく道を紹介します。

波田小学校前交差点

波田小学校前交差点

まず、国道158号線を上高地方面に向かいます。そして波田庁舎、波田小の交差点を左折します。

郵便局前交差点

郵便局前交差点

踏切を越えてしばらく行くと郵便局があるので、その手前を右折します。

石張り道路

石張り道路

仁王門

仁王門

すると石張り道路が現れます。この道は車ではなく、歩いて散策するのがよさそうですが、この石張りの道を進むと正面に仁王門が見えてきます。その左の道を進み、若澤寺跡への道案内の通りに進みます。

若澤寺跡へ

若澤寺跡へ

看板が出てきます。ここを左折して進みます。

若澤寺まで1.5km

ここからは林道。右手は崖。ちょっとスリルがあります。ここから1.5kmと表示があり、何とか歩いてでも上ることはできます。車で登り口までいけます。

分岐点

分岐点

そしてまた、分岐点があります。ここは案内板の通り左に行くのが正解です。

最初に来たとき、右に上って行ってしまいました。行けども行けどもそれらしき案内はなく、軽トラとも何とかすれ違い進むと工事現場にでてしまいました。今、送電線の鉄塔建て替え工事をしているらしく、令和5年11月までの予定だそうです。慌てて引き返し、びびって最初の林道入口まで戻り、空き地に止めて登城することにしました。結構大きなトラックも上がっていったので気を付けてください。

第13丁目丁石

第13丁目丁石

さて、若澤寺跡方面に向かうと丁石というものが設置されています。1丁(109m)ごとに17か所あったそうです。今は4カ所残っています。

この林道は水沢山林道といいますが、石畳や粗いコンクリート舗装で落ち葉もあり、急坂で車も上りにくいだろうなとは思います。そして、突き当りが若澤寺跡です。林道はなお続きますが、立ち入り禁止です。

案内図

案内図

最初登り口がわからず、困ってしまいましたが、若澤寺跡を探索した後、ちょっと戻るとこんな看板がでていました。最初は気づかなかったのですが、波田山城跡(ここは田の字でした)の文字があるではありませんか。軽トラならまだ、進めそうですが、杉が育ち、倒木も多そうなのでこの辺りに車を止めて歩くのがいいと思います。300mほど歩きます。

 

登城口

登城口

そしてついに登城口につきました。迷っただけにようやく来たかという感じです。

止め山

止め山

地元の方によってきちんと整備され、とても上りやすく、ここからはあっという間です。こちらは搦手口でしょうか。それにしても止め山の表示が多い。よっぽど地主さんは気にしているんでしょうね。採っていく人がいるんでしょう。疑られないように秋は止めたほうがいいようにも思います。

秋葉城跡石碑

秋葉城跡石碑

少し上ると城跡の石碑が秋葉城と書いてあります。これは本城に秋葉神社の祠があったからそう呼ばれたそうです。

段曲輪、帯曲輪

段曲輪、帯曲輪

本城への登り口と堀切

本城への登り口と堀切

虎口

虎口

 

 

 

 

 

 

 

まず、左手の本城に進みます。段々畑のように段曲輪が並んでおり、広さも十分あります。大きな堀切沿いに進むとすぐに本城です。本城入り口には上り口が用意されていますが、帯曲輪をぐるっと回り、西側が虎口のような気がしました。

本城

本城

井戸跡

井戸跡

 

 

 

 

 

 

 

主郭には井戸跡やお社があります。土塁が周りを取り囲んでいます。小笠原の城のように石積みは見当たりません。

南城

南城

南城から本城

南城から本城

 

 

 

 

 

 

 

虎口を降りると馬出らしきものがあり、左に折れて南城にいくとここにも大きな堀切。竪堀といってもいいかもしれません。大きく分断しています。広さもあり下を見るといくつも段曲輪があります。

北城から本城

北城から本城

ぐるっと本城の帯曲輪を通って北城に向かい、堀切を越えるとこちらも広く、下にいくつもの段曲輪が見えます。本城を中心に大きく羽を広げた形にも見えてきます。大手道と思われる北西方面に重きを置いた縄張りのように思います。

みはらし台

みはらし台

その後、東尾根を行き、見晴らし台に向かいました。今は木々が茂って景色はよくありませんが、松本の街並みも見え、木々の伐採が進んだら素晴らしい展望台になりそうな気がしました。

 

波多山城は林道を車であがれば、全然、疲れない良い山城です。歩いて登ってもいい運動になります。ぜひ足を運んでください。若澤寺跡もすごいですよ。石積みや礎石がきちんと残っていて、山城のようです。こんな大きなお寺がこんなところにあったとは、しかも本来はまだ奥の山にあったといいます。人間の信仰心のすごさを感じます。

※終了しました※令和4(2022)年度 第1回探古会を開催します

第1回探古会(古文書読解講座)
江戸時代の手紙文を読む-仕事上の手紙・女性の手紙・年始状・礼状-

※終了しました。ご応募ありがとうございました。※

令和4(2022)年度第1回探古会(古文書読解講習会)を開催いたします。
「古文書を読んでみたい」、「古文書に興味がある」という方はふるってご参加ください。

今回のテーマは「江戸時代の手紙文を読む」。筑摩郡百瀬陣屋に残っている色々な種類の手紙を読んで学びます。

  • 日 時  令和4年11月23日(水・祝) 午前9時~正午
  • 講座内容 「江戸時代の手紙文を読む」-仕事上の手紙・女性の手紙・年始状・礼状-
  • 会 場  松本市教育文化センター3階 視聴覚ホール
  • 定 員  40名(要予約・先着順)
  • 料 金  500円(テキスト代として)
  • 持ち物  筆記用具、飲み物(必要な方)
  • 講 師  青木教司氏/元松本城管理事務所研究専門員
           現NHKカルチャー「古文書読解入門講座」講師
  • 申し込み 11月6日(日)9時から
  • 問合わせ 旧山辺学校校舎(℡ 32-7602)

※終了しました※令和4年度 バス見学会「山辺の里の道祖神・文化財めぐり」

※終了しました。ご参加ありがとうございました。※

昔から、私たちは路傍の道祖神に祈りを捧げたり、お寺や神社へ深い信仰心をもち、時にはその境内に子どもたちを遊ばせてきました。
松本市山辺地区にはこれらの古くからの道祖神・文化財がたくさんあり、山辺の人びとの信仰に触れることができます。
本年度の「山辺の里の道祖神・文化財めぐり」を、下記のように計画しました。

  • 日 時  令和4(2022)年10月1日(土) 午前8時30分から午後4時
  • 集合場所 松本市教育文化センター南側入口付近(松本市里山辺2930-1)
  • 定 員  20名(先着順)
  • 講 師  出井東亜雄氏(山辺歴史研究会顧問)
  • 交通手段 松本市のマイクロバス利用
  • 持 ち 物  昼食、水筒、筆記用具、カメラ等 マスクを持参してください。
  • 受 講 料 500円(資料代・拝観料)
  • 申し込み 旧山辺学校校舎 ℡0263-32-7602
           9月17日(土)~ 午前9時から午後5時まで

皆様のご参加をお待ちしております。

前回(令和2年度)のようす

R2bustour2

R2bustour1

松本の二宮金次郎像

松本に残る二宮金次郎像

旧山辺学校校舎   開智小学校    源池小学校    筑摩小学校
旭町小学校    田川小学校    鎌田小学校    清水小学校
島立小学校    芝沢小学校    本郷小学校

 

白板 八幡神社

はじめに

 日本全国の小学校には二宮金次郎(尊徳)像が多く残されています。旧山辺学校校舎にも像が現存しています。
 この金次郎像はもともと山辺学校にあったものではなく、寄贈されたものです。

 子どもの頃の記憶の中には学校にあったような気がしますし、何か所かの学校で金次郎さんを見た覚えもあるので、松本には金次郎像が今、どこに残っているのか、調査してみたいと考えました。
 ここでは、松本市の小学校に残っている金次郎像や市内に残る金次郎像についてまとめていきたいと思います。

 金次郎像がなぜ、設営されたかというと、働きながら読書に勤しむ金次郎の姿は当時の国政にとって、いい宣伝材料になったのではないかということです。金次郎の勤勉さと尊徳が後に藩の財政の立て直しに尽力し、私欲を越えて藩政や農民のために尽くした彼の業績や報徳精神、これこそ献身する気持ちや奉仕の心を国民に育成するためにも必要と考え、意図的に利用されたものと考えられます。
 また、石材業者や鋳物業者の後押しを受けて普及し、そして各地の篤志家にとっても学校へ寄付することが地域への恩返しや子どもたちへのメッセージを伝えられるとともに、実は自分自身の大きなステータスの向上にもつながったものと考えられます。
 太平洋戦争前は青銅製のものが多かったのですが、戦時中、金属供出によって取り壊され、のちに石像が建てられた場所もあるそうです。松本地方は石像が多かったので、残っているものと思われます。
 近年、下校途中の「ながら歩行」を気にして撤去されることもあるといいますが、それは何かおかしな話で、そんな理由でなくなっていってしまうのは惜しいように思います。

 学校の七不思議のひとつに「走る金次郎像」がありますが、きっと、たぶん、この金次郎像は走らないと思います。

(旧山辺学校校舎 館長 上條直利)

旧山辺学校校舎

旧山辺学校校舎 全身像

旧山辺学校校舎 全身

旧山辺学校校舎 顔拡大

旧山辺学校校舎 顔拡大

寄贈者  大蔦良七
寄贈年  昭和8年8月17日
設置場所 正面入り口
西向き
像    114cm
わらぞうり
薪の数  約 29本

 

 

 

 

これが旧山辺学校校舎に残る像です。

この像は昭和8年8月に開智小学校に寄贈されたものです。

寄贈されたのは 中町のつたや呉服店の大蔦良七氏です。松本市旧市内に残る金次郎像はほとんどが大蔦さんによる寄贈となります。当時の開智部の学校日誌には「二宮金次郎石像スヘツケ 右ハ仲町呉服店葛(蔦の間違いか?)屋主人、煙草ヲヤメ ソノ貯金ニテ購入セルモノヲ寄付サル」と書かれています。

 昭和38年に開智小と田町小が統合された際、新開智小には田町小の金次郎像が設置されました。開智小の金次郎像が廃棄されるのは悲しいと感じた大蔦さんは城山の自宅に持っていかれたそうです。その後、松本市から寄贈の申し入れがあり、設置場所として旧山辺学校が選ばれたようです。

開智小学校

開智小学校 全身像

開智小学校 全身

開智小学校 顔拡大

開智小学校 顔拡大

寄贈者   大蔦良七
寄贈年   昭和14年8月
設置場所  東前庭
西向き
わらじ
身長    121cm
薪の数   約 28本

田町小学校に設置されていたものと考えられます。  
S14.9.16 田町小学校除幕式

源池小学校

源池小学校 全身像

源池小学校全身

源池小学校 顔拡大

源池小学校 顔拡大

寄贈者 大蔦良七
寄贈年 昭和14年8月
設置場所 北門入り口昇降口前
東向き
127cm
わらじ
薪の数  約20本

昭和14年9月16日
除幕式 「午前11時15分より3年以上参列、全校に飴菓1づつ寄贈を受く」 学校日誌より

筑摩小学校

筑摩小学校 全身像

筑摩小学校 全身

筑摩小学校 顔拡大

筑摩小学校 顔拡大

寄贈者  大蔦良七
寄贈年  昭和14年9月
設置場所 校門横
東向き
身長  127cm
わらじ
薪の数 31本

昭和14年9月2日 除幕式

旭町小学校

旭町小学校 全身像

旭町小学校 全身

旭町小学校 顔拡大

旭町小学校 顔拡大

寄贈者  大蔦良七
寄贈年  昭和14年8月
設置場所 校庭東
西向き
身長   130cm
わらじ
薪の数  26本

昭和14年9月16日 除幕式

午前八時来賓、教育課長、大蔦氏 大蔦氏より児童へ記念に鉛筆一本宛寄贈(学校日誌より)

田川小学校

田川小学校 全身像

田川小学校 全身

田川小学校 顔拡大

田川小学校 顔拡大

寄贈者 大蔦良七
寄贈年 昭和14年8月
校舎東側元正門前か
南向き
身長 122cm
わらじ
薪の数  23本

昭和14年9月16日 除幕式

鎌田小学校

鎌田小学校 全身像

鎌田小学校 全身

鎌田小学校 顔拡大

鎌田小学校 顔拡大

設置者 大蔦良七
設置年 昭和14年9月
校庭北側
南向き
身長 122cm
わらじ
薪の数  28本

昭和14年9月16日 除幕式

清水小学校

清水小学校 全身像

清水小学校 全身

清水小学校 顔拡大

清水小学校 顔拡大

寄贈者  大蔦良七
寄贈年  昭和14年8月
設置場所 校庭北
南向き
123cm
わらじ
薪の数 約23本

島立小学校

島立小学校 全身像

島立小学校 全身

島立小学校 顔拡大

島立小学校 顔拡大

寄贈者 大蔦良七
寄贈年 昭和14年8月
設置場所 正面前庭
西向き
身長   125cm
わらじ
薪の数  約19本

昭和14年8月3日 建立
9月2日 除幕式

芝沢小学校

芝沢小学校 全身像

芝沢小学校 全身

芝沢小学校 顔拡大

芝沢小学校 顔拡大

寄贈者
寄贈年  昭和13年11月 
設置場所  昇降口前庭
西向き
わらじ
身長   85cm
薪の数  約12本

昭和13年11月5日 建立
昭和49年9月4日 新村部校より移設

本郷小学校

本郷小学校 全身像

本郷小学校 全身

本郷小学校 顔拡大

本郷小学校 顔拡大

寄贈者 
寄贈年 昭和11年2月
設置場所 正面入り口横庭
南向き
141cm
わらじ
薪の数 約30本

昭和11年2月4日 除幕式
昭和18年4月4日本郷の森に据え付け
平成14年  現在地に移設

 

白板 八幡神社

白板八幡神社 全身

白板八幡神社 全身

白板八幡神社顔

白板八幡神社 顔

 

寄贈者   白板南区町会          身長   110cm

設立年   昭和44年9月         わらじ

設置場所  神社内東北           薪の数    20本

向き    南

 

松本市内の二宮金次郎像の情報がございましたら、当館まで、ご連絡いただければ幸いです。

   電話 0263-32-7602

   メール kyu-yamabe@city.matsumoto.lg.jp

   

上條館長の山城案内 稲倉城

稲倉城(しなぐらじょう)(松本市稲倉)  

昭和57年12月20日に松本市特別史跡に指定 

さて、今日は稲倉城(しなぐらじょう)です。かつて、松本平から善光寺や小県、江戸、東京に抜ける街道は、刈谷原(かりやはら)峠、馬飼(うまかい)峠そして稲倉峠を抜ける道が普通でした。現在も稲倉峠を越えて四賀に車で抜けることができます。三才山峠を越える道も含め、ここは交通の要所です。そんな場所に城は築かれてきました。この城は伊那から小笠原氏とともにやってきた赤沢氏が築城したといいます。赤沢氏は小笠原一門であり、伊豆赤沢を本拠地としていたのですが、早い時期に信濃に移り住み、小笠原氏と共に数々の戦に臨んでいます。最初、現在の本郷小学校あたりに屋敷を構え、伊深城の後庁氏を攻め北部地方を掌握しました。

洞交差点

洞交差点

 

さて、道順ですが、伊深城と同じ洞の信号機を右折します。

 

 

 

 

 

国道より

国道より

 

すると100mほど先に左に入る道がありますので、そちらに進みます。

 

 

 

 

稲倉峠入口

稲倉峠入口

やや道は狭いですが、車で3,4分走ると左手に稲倉峠への道が見えてきます。

 

 

 

 

 

稲倉城主御屋敷跡

稲倉城主御屋敷跡

 

しばらくいくと右手に稲倉御屋敷跡の看板があります。

 

 

 

 

 

車用鳥獣除けフェンス

車用鳥獣除けフェンス

 

そこを過ぎるといつもの鳥獣除けフェンスにぶつかります。ここは車が通れるフェンスです。桐原城と一緒です。フェンスを開けて入っていきます。もちろん、きちんと閉めておいてください。

 

 

 

 

登城口

登城口

 

道なりに進むと看板があり、そこに広いスペースがあります。ここに止めて登城です。

 

 

 

 

最初に行ったときは左手の本郭を目指す道を行ったのですが、どこかで間違え、かなり山の上にでてしまい、あやうく熱中症になるところでした。宮坂本では東の竹の入の沢からが大手と提示されています。お屋敷が西にあるのにそんな大回りをするのかやや疑問ですが、西側から急斜面を登るよりいいのかもしれません。

三の郭へ

三の郭へ

 

 2回目は右手の三の郭を目指す道を登りました。登り口からすぐに右に折れます。

 

 

 

 

三の郭へ続くロープの道案内

三の郭へ続くロープの道案内

 

すると、すぐに杭とロープが見えてきます。これは助かります。かなりの急斜面ですが、ロープや鎖につかまりながらのぼると楽ちんです。また、道を間違えることが全くないので安心です。それでもフーフー言いながら三の郭につきました。

 郭の前には石積みがあり、簡単な門でもあったのでしょうか。何段かの平場と堀らしきものがあり、やや狭い三の郭です。大手道だと推測される竹の入の沢からの道はここに続いていると思われます。 

三の郭虎口

三の郭虎口

三の郭

三の郭

 

 

 

 

 

 

 

ここから二の郭へ続く道がこの城の見どころ、かなりの段差があり、今は鎖が垂らされています。二の郭がこんなに低くなっているのはあまり見かけない特徴的なつくりといえます。

堀底から見た三の郭への鎖

堀底から見た三の郭への鎖

三の郭空堀

三の郭空堀

 

 

 

 

 

 

 

二の郭

二の郭

二の郭東端

二の郭東端

松本市街地方面

松本市街地方面

 

 

 

 

 

 

 二の郭は平たんな部分が多く、西側、峠道方面にいくつもの平曲輪が築かれています。兵はかなりの数、駐屯できたと思われます。ここが最初の主郭だったのかもしれません。

二の郭の東端の曲輪からは松本平や三才山峠への道がよく見えます。

大空堀標柱

大空堀標柱

 

この二の郭と一の郭の間にも深い堀が築かれています。大空堀と呼ばれていたのでしょうか、標柱が朽ちて倒れていました。

一の郭も広いスペースがあります。ここは後郭のようにも思えます。後からできた居住スペース的なものがあったのかもしれません。

主郭

                   主郭       

主郭への道

主郭への道

 

一の郭には東と西に下っていく道らしきものがみえます。今回は西の峠道、駐車場方面に下りていきます。途中までは道はあるのですが、消えてしまいます。写真にある矢印が登り口です。そこを目指していきましょう。少し薄暗い杉木立の中に入ったら、右手を見ながら進んでみてください。

 

 

水の手?

水の手?

 

沢を下りてくると、もしかするとここが水の手?という窪みもありました。

 

 

 

 

こちらの道は、冬には上から続く竪堀跡が見えるかもしれないのですが、道らしき道はよくわかりません。緑がなくなるころには何とか進めるかもしれませんが、本郭への登りはお勧めできません・・。

 

 

稲倉城は三の郭への登城道が整備されていますので、そちらから登ってみるといいと思います。30分かかりません。三の郭が高く築かれている特徴を持ち、鎖で降りることができるのは探検のようで楽しいと思いますよ。

上條館長の山城案内 平瀬城

平瀬城 ひらせじょう(松本市島内下平瀬)

平成26年3月5日に松本市特別史跡に指定

 さて、今日は平瀬城です。犬甘氏の一族の平瀬氏が築いたといわれています。のちに小笠原氏の配下となります。天文19年の武田晴信の小笠原氏攻めにおいて、小笠原の属城5城が自落した際、小笠原長時は平瀬氏を頼り、平瀬城にいったん落ちのびますが、やがて、坂城の村上氏を頼って逃げていきます、ところが、武田氏の「戸石崩れ」に乗じて、村上氏とともに再度平瀬城に戻ります。しかし、武田氏が小県に侵攻するという噂が流れ、村上氏は戻っていってしまいます。武田氏は府中攻めを再び行い、長時は中塔城に逃げます。武田氏は天文20年、平瀬城を攻撃し、平瀬氏以下204名が討ち死にしました。その後、武田氏が改修し、やがて廃城となります。                                               

川合鶴宮八幡社

川合鶴宮八幡社

 

 歴史の中に出てくる平瀬城は笹本先生の論文の通り、平瀬氏館の方だろうなと思います。山城に大勢が駐留し、北を目指す前線基地とするには機動力がおちます。

 きっと、川合鶴宮八幡社のあたりに砦を築いたと思われます。場所は平瀬口交差点の南西辺りにあります。

 

平瀬口入り口

平瀬城入り口

 道順ですが、国道19号線を長野方面へ。平瀬口の交差点をまだ、北上し、ラーメン大学下田店から100mほど行った道を右折します。看板がありますが、見過ごしてしまうこともありそうです。

駐車場

駐車場

 そこをいくと駐車場が整備されています。そこに車を止めて、

登城口

登城口

 さらに北に進むと登山口に着きます。登山道は整備されています。この日も草刈りをやってくださっていました。

北支城と南支城の分かれ道

北支城と南支城の分かれ道

 しばらく登ると、看板がでてきます。南支城入り口と書いてはありますが、後ほど記述します。

 まずは北支城へ。6月は木々の緑と風と鳥の鳴き声、なんともすがすがしい。道は犀乗沢(さいのりさわ)から北沢沿いを進んでいきます。この犀乗沢は松谷みよ子さんの絵本「たつのこたろう」のモデルになった「泉小太郎伝説」にでてきます。生き別れになった母、犀竜に再会した場所だそうです。

 登山道は丸太で橋がかけられたり、きれいに整地され、地元の方々に愛されている城だということを感じます。

帯曲輪への入り口

帯曲輪への入り口

 あたりが開けてきたところから城内に入ります。

 ここから左右に平場がありますが、ちょっと高台にあったり、遠かったりとすぐには確認できません。縄張り図と照らし合わせるとはっきりします。ここからは少しきつくなりますが、道はしっかりしているので大丈夫。そして10分ほどで曲輪1に到着です。

曲輪3

曲輪3

 ここは以前のネットにあげてくださった方々の写真を見ると松林や草藪のようですが、今はきれいに刈り取られ草原のようになっています。

 西側に曲輪2、曲輪3と続き、曲輪3からの眺めが素晴らしい。

常念方面

常念方面

曲輪3からの白馬方面

曲輪3からの白馬方面

 ここは千国街道がすっかり見え、動向を探るのには適地であったようにも思えます。

 曲輪1の東側には標柱と陣没者の碑があります。きっと地元の方が建てたものと考えられます。

曲輪1標柱

曲輪1標柱

曲輪1標柱

陣没者慰霊碑

 

 そして、曲輪1の東側から降りていく道も轍がはっきりしています。ここを下りると小笠原城郭の特徴の連続竪堀が見られます。

背後の竪堀

背後の竪堀

山麓まで続く竪堀

山麓まで続く竪堀

 ここからは倒木が多く、曲輪4と曲輪5はなかなか確認できませんでしたが、痕跡はあります。曲輪4には何やら宗教団体の石碑もあります。

曲輪5

曲輪5

 曲輪5の方が少しわかりやすい感じはします。

 

 この2つの曲輪は何のために作られたのか不明です。もしかすると武田氏滅亡後に後詰として築いたか、東方からの侵入を恐れたか、どちらかだとは思いますが、やや見る影がありません。

ここで、城内は終わりのはずですが、道を登っていくとゴルフボール?そうです、豊科カントリークラブに出てしまいました。

ゴルフボールが・・

ゴルフボールが・・

豊科カントリークラブ

豊科カントリークラブ

 カントリークラブに続くこの道沿いに平瀬城入り口の看板がでています。こちらからだと楽に曲輪1に行けそうです。元青年の家から山田方面に抜けるとここに着きます。田沢方面からも行けます。

平瀬城山田口

平瀬城山田口

 

 さて、今度は南支城に向かいます。

南支城へのロープ

南支城へのロープ

 先ほどの看板の場所から右をのぞくと沢とロープ

 まさか・そうです。この沢を下り、ロープにしがみつき、急坂を登ります。登ろうと決めたので仕方ありませんが、この道がとんでもありません。見える木や草をつかみ、慎重に慎重にはいつくばって登らざるをえません。帰りのことを考えると不安ですが、とにかく前進。ピンクのビニールテープの目印だけが頼りです。写真など取ってる暇はありません。そのうち、それらしき場所に来ましたが、倒木と笹と草藪。もうやめようとは思いましたが、いくだけいってみろと、すると

南支城曲輪1

南支城曲輪1

南支城曲輪2

南支城曲輪2

 たぶんここが南曲輪の1と2だと思われます。その背後にはお約束通りの竪堀。結構、連続して、深いようでした。

深い竪堀犀川方面に

深い竪堀犀川方面に

背後の竪堀群

背後の竪堀群

 帰りはもうひやひやもの、ピンクのテープが希望の光です。この山城は戦う城ではなく、道おさえ、偵察の城として小笠原貞慶のころに改修されたものではないでしょうか。平瀬氏館の方が重要な場所だと思われます。地元の方がしっかり守ってくださっています。道も整備されています。絶景を見るためにもご登城ください。

上條館長の山城案内 伊深城

伊深城 いぶかじょう(松本市岡田)

昭和42年2月1日松本市特別史跡に指定

 さて、今日は伊深城です。刈谷原峠(かりやはらとうげ)を越える善光寺街道、三才山峠(みさやまとうげ)への道、安曇野方面に抜ける道などが交差する交通の要所に作られています。伊深城は岡田親義(おかだちかよし)によって築城されたという伝承があるそうです。実際は後世でしょうが、この岡田親義、「以仁王(もちひとおう)の令旨」によって挙兵した木曽義仲(きそよしなか)軍の大将格として奮戦し、倶利伽羅峠(くりからとうげ)で戦死したそうです。
 この土地は後庁(ごちょう)氏が支配していましたが、赤沢氏に滅ぼされ、その後、小笠原氏の支城になっていきました。天文19年の武田氏が勝鬨(かちどき)をあげた「イヌイの城」の落城の際、林大城・深志(松本城)・岡田(伊深城)・桐原山家の五城が自落した中の岡田の城がここのことだと考えられます。きっと、その後に小笠原貞慶(おがさわらさだよし)によって、改修されていったと思われます。

あ:洞の交差点を左折

あ:洞の交差点を左折

 さて、道順ですが、岡田宿を越え、女鳥羽川(めとばがわ)沿いの道を北上し、洞(ほら)の信号機を左折します。

 

 500m先を右折すると(写真えといっしょのところ)山すそにお宮が見えます。そこが若宮八幡宮です。そこを目指します。

 

い:六助池の信号を右折

い:六助池の信号を右折

 また、信州大学の西横の田沢方面に抜ける143号線、岡田新道を北上すると六助池(ろくすけのいけ)の信号を右折します。

う:矢作の信号を右折

う:矢作の信号を右折

 矢作(やはぎ)の信号を右折します。

え:ここを側道へ左折

え:ここを側道へ左折

 200mほどで側道に入り

お:交差点を左折

お:交差点を左折

 次の交差点を左折します。(若宮八幡社下)

か:若宮八幡宮

か:若宮八幡宮

 すると急坂の向こうに若宮八幡宮が見えてきます。

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き:駐車場

駐車場

 鳥居の左手に大きな駐車場があります。石段を登ってもいいですし、右手に車道がありますので、そちらからでも大丈夫。車道の行き止まりが登り口です。

 ここから九十九折の登山道が整備されています。見上げるとかなりの急坂です。

道標

道標

 10回ぐらいの折れで道標が見えてきます。ここからが城内だと思われます。

 まっすぐ進むと曲輪(くるわ)4になります。主郭(しゅかく)は左に曲がったところです。

曲輪4

曲輪4

 曲輪4には登り土塁(のぼりどるい)らしきものがあります。きっと、いざという時、兵が出てきて追撃するものと思われます。

登り土塁

登り土塁

 主郭への道を進むと笹が目立ってきますが、ここが段曲輪(だんくるわ)群だと思われます。笹を切り払うと見えてくるので整備していただけるとありがたい。

段曲輪群

段曲輪群

 そこを抜けるとまっすぐな登城道(とじょうみち)が見えてきます。

登城道

登城道

 しばらく行くと堀切(ほりきり)が見えてきます。小笠原城郭群(おがさわらじょうかくぐん)の特徴として長大な堀切があります。ここも堀切が集まり、麓まで続いています。ここを下っていくのも面白そうなので、おすすめします。

 堀切を過ぎるといよいよ、城内です。まずは曲輪3.ここには石積みが少し残っています。

曲輪3の石垣

曲輪3の石垣

 そして曲輪2と二段になった曲輪2‘が主郭の南と西を取り囲んでいます。きれいに削平されていています。桜の古木50本ほどが植えてあり、落ち着く場所です。

曲輪2から主郭へ

曲輪2から主郭へ

 曲輪2’の北側から主郭に入っていきます。虎口(こぐち)がはっきりわかり、主郭は2段の構造です。奥には土塁が築かれています。

主郭虎口

主郭虎口

北側より見た主郭

北側より見た主郭

 この主郭からは南側の市街地、木曽方面やアルプスを望みながら下の道も見ることができます。

主郭より南方面を望む

主郭より南方面を望む

遠くアルプスを望む

遠くアルプスを望む

曲輪4から三才山峠への道を見下ろす

曲輪4から三才山峠への道を見下ろす

 また、曲輪4からは三才山へ抜けていく道もよくわかります。とてもいい場所に建てられたと感心します。

 主郭周辺には石積みも見られます。

主郭の石垣

主郭の石垣

 主郭を下りて西側の小曲輪から背後の堀切を見に行くことができます。宮坂本の東側の道は倒木もありはっきりしませんでした。

 堀切から見た主郭は15mほど高さを感じます。

背後の堀切より主郭

背後の堀切より主郭

 そこから背後に続く堀切はこれでもかというばかりに続きます。比較的緩斜面が続く北側からの侵入を恐れたものと思われます。小笠原の山城の特徴です。

二重堀切

二重堀切

深く長い背後の竪堀(たてぼり)

深く長い背後の竪堀(たてぼり)

竪堀群

竪堀群

 帰りは曲輪4の横を通り、慶弘寺(けいこうじ)公園方面に下りていきました。よく整備されています。見上げれば急坂の斜面ですが、こちらからの方が楽に登れるかもしれません。慶弘寺公園もきれいに整備されています。

慶弘寺公園

慶弘寺公園

伊深城と慶弘寺看板

伊深城と慶弘寺看板

慶弘寺公園側からの城跡入口

慶弘寺公園側からの城跡入口

 10日後、山頂の桜の様子も見たくて最登城。今回は慶弘寺公園より。

慶弘寺公園に向かう

慶弘寺公園に向かう

  慶光寺公園は写真お:若宮八幡社下の交差点から20mほど東へ行った道祖神がある交差点を左折します。

 ここから右折、左折をし、山手に向かうと公園が見えてきます。駐車場もあります。伊深館(いぶかやかた)はこちらの方面にあったので、こちらが大手道なのかもしれません。

 そこに車を止めて登ります。やはり、急坂ですのでやや疲れますが、すぐに曲輪4に着きました。

 帰りは堀切を下りようと歩を進めました。曲輪2‘の下に下りていくと、かなり深い堀切ケとコがあります。ここをすべるように下りました。もっと木々が茂ってくると難しいでしょうが、面白かったです。ちょうど、お宮の上におりてくることができます。

曲輪2’を下ったところに石垣

曲輪2’を下ったところに石積み

堀切ケとコの合流点

堀切ケとコの合流点

堀切イが下りてくる

堀切イが下りてくる

堀切アが下りてくる

堀切アが下りてくる

 地元の方々の整備がよく見え、登りやすい城です。小笠原城跡群、北の砦です。ぜひご登城を。