学芸員雑記 山辺学校の歌「山辺の里」

 山辺学校には児童が住んでいた里山辺(さとやまべ)村、入山辺(いりやまべ)村をうたった歌として「山辺の里」があります。全38番からなる大作で、通して歌うと20分以上かかります。

唱歌「山辺の里」

 「山辺の里」はいつ作られたのか明記した資料が見つかりませんが、「山辺の里」の歌詞をまとめた「しおり」が明治37(1904)年に発行されています。発行者は第5代校長の吉田頼吉先生。このときに作られたと考えられます。吉田校長は植林教育を本格化した人でもあります。

「里山辺学校誌」より

「里山辺学校誌」より

  しおりによると「山辺の里」は
 一.地域の地理、歴史を学ぶ参考として編纂したもの
 一.児童に常に歌わせ、愛郷の思想を養うもの
 一.歌詞は華族女学校 坂正臣先生の校閲、
  楽譜は東京音楽学校 渡辺森蔵先生の作曲

 歌詞は「校閲」とありますので、坂正臣さんが作詞したものではありません。
 誰が書いたのか明記されていませんが、山辺の方によると「山辺文芸会」が作ったのではないか?とのことです。

 山辺文芸会は明治31年4月に発足しました。のちの大正4(1915)年に短歌集「潮音」の主幹となる太田水穂(貞一)が山辺学校に着任したのがこの年であり、学校の先生を中心に文化活動熱が高まっていた時期です。

「山辺の里」しおり(復刻版)複製・転用禁止

「山辺の里」しおり(復刻版)複製・転用禁止

  会の指導者は歌人、画家、須々岐水(すすきがわ)神社の宮司でもあり山辺学校の教師であった上條善守。しおりの表紙には上條先生直筆のぶどうの絵が載せられました。

 しおりには楽譜も載せられていたため、現在もどのような曲であったかが分かります。

山辺地域をぜんぶ歌う!

 長野県には「信濃の国」という県歌があります。浅井冽が明治33年に、長野県師範学校附属小学校の唱歌として長野県の特長を盛り込んで作詞したものですが、よく「オレん地域が歌われてない」なんて不満を耳にすることがあります。そんな苦情をいっさい言わせない「山辺の里」、全地区が盛り込まれています。そのために38番という大作になりました。

「里山辺学校誌」より

「里山辺学校誌」より

  1番ではまず、山辺の地域の説明です。
 山辺の里は松本の一里東にへだたりて
 人口八千有余人 家数は一千三百戸
 田畑は広く地味肥えて 暑さ寒さも強からず

 入山辺村は山辺谷にあります。特に谷の北側では日当たりも良く強風も吹かず、現在ではぶどう栽培が盛んです。「寒さも強くない」というのは、そうした気候をうたったものでしょう。

 18番には「大滝」が出てきますが、この滝は現在、無くなっているように思います。発電所が作られた際に水の流れが変わったと考えられます。また38番に出てくる「仙液山」は、どこを指しているのか分かっていません。このように現在では確かめられない場所もあります。

 

山辺小学校30周年記念CDのジャケット

山辺小学校30周年記念CDのジャケット

 平成15(2003)年、山辺小学校開校30周年の際、「山辺の里」を38番まで通して歌った音源が記念CDに収められました。この音源が、20分以上となっています。

山辺学校は3番

 3番には山辺学校が歌われています。 昭和58(1983)年、山辺小学校の子どもたちが歌った「山辺の里」音源があります。3番だけ切り出しましたので、聴いてみてください。

五層の楼の白壁は 往来(ゆきき)の人の目を照(てら)す
窓より洩るオルガンの 調べに耳をかたむけて
やさしき歌の声聞くは 学べる子等の親ならん

 山辺学校が5層? 2階建てでしょ?と思われますが、八角塔の内部に3フロアあります。フロアというよりも、階段の踊り場のようなものです。

旧山辺学校校舎の3階 外からは、塔の途中の窓、最上階にベランダが見えます。屋根のために窓が作られなかったフロアがあるため、外からは4階建てに見えます。6階建てなのに5階に見える松本城のようですね。

「山辺の里」しおり復刻

 「山辺の里」しおりは、山辺歴史研究会、須々岐水神社宮司の上條さん(上條善守さんのご子孫)により2003年に復刻されました。「山辺の里」を知る貴重な資料として残されています。

 「山辺の里」全歌詞

 「山辺の里」全歌詞

 「里山辺学校誌(昭和47(1972)年発行)」に、面白いエピコードが記されています。

 南方(みなみかた)をうたった文句に「家まばらなり…」とある(15番)のを南方の生徒たちが「俺の方は家がまばらじゃあない」というと、学校の先生が「おおそうか、それじゃあ(家豊かなり)と訂正してやるぞ。」といって笑っていた。

(学芸員:岡野)