学芸員雑記 山辺学校の植林教育

第3室 植林に関する展示

第3室 植林に関する展示

 明治30(1897)年、山辺学校の児童が植林を始めました。この時は1,500本程度でしたが、吉田校長が赴任して「植林規定」を設けると、年20,000本以上の本格植林が始まります。植林の記録は昭和26(1951)年まで確認でき、太平洋戦争中も続けられていました。

植林教育とは

 第5代校長(在任は明治33年から大正4年)の吉田頼吉先生は学校財産の蓄積を目的として、植林を始めました。「植林規定」には次のように書かれています。(原文ではなく、意訳しています。)

一.植林は生徒に林業の実験的練習をさせ、かつ将来の学校財産の一部とすることを目的とする。
一.植林地は、村の共有山から便利な地を選び、組合管理長から共有山管理部長に交渉して借りるものとする。
一.植林方法は毎年春に高学年の生徒が行う。毎回、父兄に援助してもらう。
一.植林の種類は主に落葉松(からまつ)とする。ただし時価によって、管理長と校長が協議して他の樹を植えることもある。
一.苗数は毎年およそ2万本以上とし、予算編成の際にこれを決定する。
一.毎年秋に下草刈り、枝打ちをし、境焼をして野火を防ぐものとする。特に盗伐、野火等の予防は、植林地に最も近い民家に管理を委嘱する。この場合、管理長より相当の報酬を与えることとする。
一.伐採は、植林初年よりおよそ10年目に間伐、20年目に全伐する。ただし、管理長と校長が協議して、さらに延長もしくは短縮することとする。
一.学務委員から植林委員を2名あげ、管理長と校長の植林に関する事務を助ける。

  この規定が発行されたのがいつか厳密には分かりませんが、明治38年に入山辺(いりやまべ)尋常小学校が開校した年には、秋に里山辺(さとやまべ)小学校、入山辺小学校が合同で25,000本の植林をしていますので、この年前後かと思います。

吉田校長の思惑

  昭和33(1958)年9月に、植林記念碑が建立され、序幕式で吉田先生がご挨拶されています。

吉田校長祝辞 書き下し

吉田校長祝辞 書き下し

 それによると、吉田校長が着任した頃は周辺の山には木が生えておらず、荒廃していたようです。山に木が育てば、村の中央を流れる薄川(すすぎがわ)の大水や、旱ばつにも耐えられるのではないかとも考えました。大根やゴボウを作ればその年にすぐ収穫できるのに、あえて十数年かかる木を植えたのは、ただただ学校の財産形成のためだけでなく、大きな意味で山辺の村と人を守る目的がありました。

子どもたちの植林作業

 植林には小学3年生から高等小学校の4年生(今の中学2年生)の男子が当たりました。たいていは4月か5月に植えますが、年によっては11月にも作業するときがありました。
 明治38年の山辺高等小学校の日誌によると、11月22日に里山辺高等小学校、里山辺尋常小学校、入山辺尋常小学校(この年に開校したばかり)の合同で、25,000本の落葉松(からまつ)を植えています。分担を見ると、児童が15,000本、各区からの大人の手伝い人が10,000本でした。

明治38年 山辺高等小学校日誌

明治38年 山辺高等小学校日誌

11月22日  水曜日

本校(里山辺高等小学校を指す)男生徒及び里山辺尋常小学校三四学年男生徒(空欄)名
入山辺村一ノ沢へ植林をなす
落葉松25,000本 その分担次のごとし

10,000本 各区より4名づつの手伝い人
2,000本 入山辺分教場及び入山辺尋常小学校分担
     高等児童1名およそ60本 尋常およそ30本


高等小学校 1人分担
 4年 120本 合計およそ3,500本
 3年 100本 合計およそ2,500本
 2年  75本 合計およそ3,000本
 1年  50本 合計およそ2,000本
尋常小学校 1人分担
 4年  30本 合計およそ1,200本
 3年  20本 合計およそ 800本

天候晴 穏やか 午後二時 業を終りて帰校す

  「植林規定」のとおり、10年後の大正3(1914)年には間伐の記録があります。

植林地維持のご苦労

 学有林は管理が大変でした。盗伐する輩が居たのです。
 大正元(1912)年、吉田校長は植林の大切さと協力のお願いを書いて印刷し、村中に配りました。「里山辺小学校誌(昭和47年発行)」から一部抜粋して紹介します。

 山林の収穫ほど安全で物価の変動を受けず、又矢鱈に人手に渡したり、災難を受けたりすることがなく保管するも極めて容易なものはない。従って基本財産としては最も適当しておる。日本でも広島あたりでは、毎年毎年山の木を売って村中の統ての納税をすましてをる所がある。佐久にも村税の半分以上を山林より支払ってをる所がある。我両山辺あたりでもそう出来るのである。(中略)勝手に山をあらすものがある。充分成長せざる内より盗筏をする。のみならず、セッカク学校生徒が汗水垂らして植えた所ですら、野火をつける者がある。(中略)可愛らしい子どもが一本植えては家のため、二本植えては村のため、三本植えては国のためといって植えたのだ。それをマア何という非道の強欲だろうか。(中略)一年に一度位は是非共植林地を見廻ってもらいたい。里山辺村七百戸の人が番代りに見廻って下さるとすれば、ざっと一日に二人づつ山番ができる訳だ。そうすれば野火の恐れもなし、盗筏の憂もなし(中略)要するに子どもの植えた樹を完全に養成して貰いたいのである。

 全文はとても長く、吉田校長の盗伐に対する怒りがにじみ出る文章です。村民の協力が必須であり、校長も必死だったのでしょう。
 先生方は他にも、植林地の借地契約をしたり、苗木を用意したりと毎年のお仕事がありました。

植林記念品

植林十周年記念絵はがき

植林十周年記念絵はがき

 植林十周年記念絵はがき

 明治39年、植林10周年を記念して絵はがきが作られました。はがきには、落葉松の林で大人も子どもも休憩しているらしい様子の写真が入っています。
 植林作業の写真が残っていませんので、当時の様子を知る貴重な一枚です。

 蝶ネクタイをして座っている男性が、吉田頼吉校長と思われます。消印のようなデザインには、38-12-25の日付がありますが、このときの日誌には終業式の記録があるだけで、特に式典等を行ったわけではないようです。

植林記念碑建立記念の杯

植林記念碑建立記念の杯

 植林記念碑建立記念杯

 昭和33年の記念碑建立の際には、記念の杯が作られました。杯にはひょうたんが描かれていますが、縁起物であり、植林教育とは直接関係のない絵かと思います。記念碑の除幕式には多くの人が集まったので、出席者に配布したのではないでしょうか。

 このときの記念碑は、現在、松本市立山辺中学校の敷地内にあります。

植林地はどこにあったか

植林地のあった場所(推定)

植林地のあった場所(推定)

 植林地は入山辺村の山にありました。里山辺村の財産区、入山辺村の財産区を借用していました。日誌に具体的に上がっている地名は里山辺財産区では「一ノ沢」「熊ノ平」「詫沢」、入山辺財産区では「菖蒲沢」「寺社平」などです。どちらも山辺学校から5キロメートル以上ありますし、標高差も450 mほどあります。小さい子には大変な作業だったでしょう。

 

  この植林によって得た収入はどうしたのか?具体的には分かっていません。村が伐採し、村費として計上したのかもしれません。吉田校長の植林記念碑序幕式祝辞や里山辺小学校誌によると、校舎(おそらく中学校の)新築、増築の際の材や費用に使われたようです。

(学芸員:岡野)