館長雑記 里山辺地区で行われていた天然氷の製氷業

 里山辺地区では昭和30年代まで、製氷業として天然氷が作られていました。もともと里山辺の林地区では数軒の農家が冬の仕事として、家の周りで小規模な天然氷作りを行っていました。それが生業として採算が取れて儲かることが分かり、大正末頃に地元農家の有力者が会社を立ち上げて、松本地方では唯一本格的な天然氷の製氷業が始まりました。

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 旧山辺学校校舎第7室では、当時の製氷作業の写真や使用されていた道具を展示しています。写真には、林城山の北麓、薄川沿いに製氷のための人工池を設置し、天然氷を作っていた生産の全体像が写されています。製氷池に張り詰めた氷を切り出し、集めて引き上げ、荷馬車に積んで運んでいく一連の作業の様子が分かります。

【写真内説明】

①切り出し
②集め引き上げ
③荷馬車に載せ
④運び出し出荷
(地図の現在地は旧山辺学校校舎です)

 さて、その里山辺の製氷業は、地元の有力農家により会社経営として大規模に手掛けられる前から、数軒の農家が水田を改良して行う小規模なものとして行われていました。大正10年頃から製氷の規模を徐々に広げていき、大正14年頃から昭和元年にかけて本格的に会社経営に乗り出し、専門の製氷業の株式会社として創設されました。

 今回、会社を創設された家のお孫さんにあたる方に、当時の製氷業の様子についてお話をお聞きする機会を得ることができました。また、山辺歴史研究会からもご助言をいただきました。以下、聞き取った内容に沿って当時の製氷業の様子をご紹介します。

 

製氷池について

  初めの頃は田んぼにセメントを張り、水をためて凍らせ作っていた。砂やほこりが入るので布でふき取るなどして大変だったらしい。その後、利益を得るため規模大きくするにあたり、製氷池として林城山北麓の薄川沿いにコンクリート製の人工池を建設した。およそ30メートル四方、深さ1メートルくらいで、その池が三つ造られた。当時、薄川にかかる金華橋(きんかばし)からの土手道はなく、山沿いに下る道があり、そこから上流の方にかけて製氷池が三つあった。道は上流の橋のところで土手道に続いていた。
 当時、子ども達はその池で、冬はスケートをやったり、夏は水泳大会をやったりした。小学校のスケート大会では今でいうフィギュアスケートをやる人がいて、みんな珍しがって見ていた。
 水は薄川の水を引き込む水路を造り取り入れていた。取水口は2,3百メートル上流にあり、それは今でも残っている。当時は水をみんなで大切にしていたので、飲み水に使っていてきれいであった。井戸のある家もあったが無い家が多かったので、川の水で洗濯をして、顔を洗い口をゆすいでいて、住民の生活用水になっていた。

製氷作業について

 1つの池で1シーズン3~4回は作って取ることができた。それ以上は作っても倉庫に納まらない。今と違って気温が寒かったから、やるだけ取れる。気温を計ったことはないが、裏の畑でスケートをやっていたので当時はだいぶ寒かった。昼に気温が上がると溶けしまうが、池は日陰で日が当たらないから天然氷作りには最適だった。
 製氷作業には1回20人くらい周辺農家から手伝いに来て作業をした。当時は今と違って寒かったので、氷が成りすぎないように気を付けてやっていた。父親がしょっちゅう見に行っていた。切り出す氷は縦1m、横70から80cmくらい、厚さは15cmくらい。氷を張らせ過ぎてきつくなり過ぎてもいけない。

氷を切り出すための「鋸(のこぎり)」

氷を切り出すための「鋸(のこぎり)」

 

 氷をまず鋸で切って、池のふちに人が端から並んでいて、この切った氷を端から持っていく。

氷をつかむための「氷鋏(こおりばさみ)」

氷をつかむための「氷鋏(こおりばさみ)」

 

 切った氷を挟むもの(氷鋏)があり、引き上げていく。

氷を動かすための「手鉤(てかぎ)」

氷を動かすための「手鉤(てかぎ)」

 

 引き上げたあと手鉤というものがあり、手で細かく動かして池の傍に積み上げ、それをまた荷馬車に積んで運んだ。

 氷は山の際にある倉庫に保管した。大きな倉庫で外から見ると3階建て、15メートルくらいあった。中はがらんとして棚などはなく、氷を入れては「ぬか(木挽きぬか)」をかけて積んでいく。氷の間に木挽きぬかを置いてその上にまたのせて、溶けないように、くっつかないようにして積み上げていく。木挽きぬかは材木屋から持ってくるが、杉とか檜とか種類はあまり関係ない。高さは見上げるくらいだから、相当高く積んで入れてあった。その倉庫が山の際に3棟あった。
 その他に会社では、天然氷だけでなく機械氷もやっていた。お孫さんが中学生の頃、昭和10年代に機械を使って冷凍の氷も手掛け始めていたようだ。

天然氷の販売について

 氷はすべて冷やす氷ではなく、食べるための飲食用の氷として販売した。また昔は木製の冷蔵庫があり、そこに保存するとともに保冷の役目をしていた。時折、縄手通りで店をやっている人がいて、この天然氷を買っていって店でかき氷を提供していた。
 親戚の叔父がトラックを購入し、松本の街の販売する店まで運んだ。また、湯の原(美ケ原温泉)や浅間温泉の旅館へも出していた。昭和17,8年頃には松本駅から貨車に積んで東京へも出荷していた。
 当時、国家総動員法が制定されて企業統制になり、なるべく食料を作り贅沢品を作っていたところはみんなやめていってしまった。また、周囲の若い人がどんどん兵隊にとられていく中、製氷業も昭和19年にはやめることになった。
 戦後、株式会社としての製氷会社は解散しており、お孫さんの家もオーナーではなくなっていた。別の方が会社の施設を買い取ることになり、昭和30年代初め頃まで同施設において天然氷が作り続けられた。氷は昔の藍倉(あいぐら)の中に保存され、倉の中では石積みになった3m×5m、深さ1,5m~2mくらいの半地下の氷室があり、その中で夏まで備蓄をしていたようだ。

 その後、薄川の水も衛生上飲用には次第に適さなくなり、昭和34年には製氷池近くの金華橋(きんかばし)からの土手道が造られて人の通りも増え始め、そのあたりから需要の先細りとともにこの地での天然氷は次第に作られなくなったようだ。

大正15年(1926)頃か 製氷業の様子

大正15年(1926)頃か 製氷業の様子

 

 以上、地元の方への聞き取りによる里山辺地区の天然氷製氷業の成り立ち、製造の様子の概観です。インターネットの情報によると、現在、天然氷は全国で数か所ほど製造されているようでして、栃木県、埼玉県、山梨県ほか、長野県では1か所、軽井沢で製氷業が行われているようです。

 天然氷製造は温暖化の影響もあり希少価値として密かなブームを呼んでいるようですが、100年以上も前にこの里山辺の地で大規模な製氷業を行った先人たちに、改めて敬意を表したいと思います。

(館長:大池)