Vol.029 職人の心意気 (R4.8.5 文責:高木)
新博物館の展示の目玉の一つは初市の宝船です。この宝船は昭和初期まで松本の新春の行事、初市(飴市)で活躍していました。戦国時代、塩止めで苦しんでいた松本に、敵将上杉謙信が塩を送ったとされる「義塩伝説」にちなみ、塩が届いたことを祝う祭礼がいつしか塩市、飴市となって、現在でも連綿と続いています。その飴市の象徴ともいえる宝船の修復作業が真夏の木曽で始まりました。今回、船の漆塗り作業を担当してくれるのは、木曽の漆職人さんたちです。先日、「道の駅木曽ならかわ」内に設置された作業現場に解説パネルを設置し、その作業を見学してきました。
美しい漆塗りの船を復元するためには、まず、剥げたり欠けたりしている表面をすべて剥離しなければなりません。日本が世界に誇る漆塗りの加工技術は繊細でありながらもその強固さを誇っています。その強固な塗りを、施された彫刻などを壊すことなくすべて剥がす作業は想像以上に根気のいる作業です。職人さんたちは、およそ100年前にこの宝船を作った当時の職人の技術に感嘆しながら、自分たちもそれに劣らぬ仕事をしようと意気込んでいました。その作業場に溢れる汗と熱気に、これから復元されていく宝船の完成を予想して胸が熱くなりました。
文化財の修復には技術の継承という大事な役割がありますが、新しく生まれ変わる宝船が新博物館に展示されることによって継承されていくのは技術だけではない、職人さんの心意気もなんだと感じることができました。
この作業の様子は「道の駅ならかわ」で、8月1日から31日まで一般公開しています。ぜひ職人さんたちの仕事を見学していただき、そして復元された姿を新松本市立博物館に見にきてください。
「道の駅木曽ならかわ」では漆塗りの工程の展示や、実演も行っています。
Vol.028 空っぽの展示室 (R4.7.28 文責:千賀)
これまで仮囲いに覆われていた新博物館の建物ですが、ついにその姿を表しました。個人的には、松本らしく「新しいなかにどこか伝統的な匂いがする」落ち着いた雰囲気の建物だと感じています。ご覧になった皆さんはどうでしょうか。
今日は、新しい常設展示室を少しだけご紹介します。
天井は鉄板が複雑に折り重なった特殊な構造を採用しています。凸凹が連続する様子は、北アルプスの山並みにも見える大迫力の景観です。この構造は、常設展示室だけでなくエントランスの吹き抜けにも採用されていますので、お近くに来た際には、新博物館のガラス張りのエントランスを外側からのぞいてみてください。
展示室の壁は、場所によって白と黒に分かれています。その理由は…お楽しみに!白い壁の両側のくぼみは、展示ケースを設置する空間です。これから展示ケースや間仕切壁などの設置を進め、この広い展示室がどんどんにぎやかに埋まっていく予定です。
これまで松本のたくさんの“場所・もの・出来事”を松本の宝として調査し、展示の構想を進めてきました。空っぽの展示室はいわば「箱」です。そこに「松本の宝(=展示物)」を詰め込んで「宝箱」を完成させる作業が、いよいよ始まります。
松本てまりプロジェクト「松本てまりモビール仮組み」
前回のコラム(2022.4.19「てまり作家のてまり」)で、市民のみなさんに作っていただいたてまりに加え、てまり作家さんたちに作っていただいたてまりもすべてそろったことを報告しました。さて、今回はそれらのてまりが現在どうなっているかについてお伝えします。
4月後半に松本から東京の小松氏のアトリエにすべてのてまりが届けられました。アートプロデユースの土屋氏、小松氏ともに開封されたてまりの多様性に驚かれたと聞いています。そのひとつひとつに込められたてまりの美しさとエネルギーが二人の美術家の目と手によってどう変化していくのでしょう。作業としてはまず、それらのてまりを仕分けし、ナンバーをつけ、重さを測り、配置の構想を練ります。
そして、6月27日から29日にかけて、てまりモビールの仮組みが行われました。
土屋氏の考えで、松本てまりらしい伝統的な八重菊模様が一番目立つということで、その八重菊のてまりから配置を考えていったそうです。その後、重さや色のバランスなどを考慮しながら床に配置し、吹き抜けのアトリエの2階からバランスを見ます。
配置が終わり、吊り上げてみると、様々な検討事項が浮上しました。今回、てまりの出来上がりの重量を予想して設計していましたが、作り手や模様によって、使われる糸の分量が違うため、予定通りにバランスをとるのが大変難しかったのです。てまりがのった木工バーが平衡をとって浮遊するという繊細な作品の実現のため作家達のさらなる工夫が必要となりました。
「松本てまりモビール」は今回の仮組みで明らかになった課題をクリアし、さらにアート作品として洗練されていきます。新博物館の建設工事も終わり、設置される吹き抜け空間を外から確認することもできるようになりました。その空間に実際にモビールが吊るされるのは8月下旬から9月の初めの予定です。
Vol.027 七夕の助っ人「カータリ」 (R4.7.7 文責:高木)
七夕祭りは全国的に7月7日とされていますが、これは旧暦の日付で、松本ではひな祭り同様、月遅れの8月7日にお祝いします。現在の日本の8月7日は猛暑の真っただ中、七夕は夏の行事と認識されがちですが、暦の上ではもう立秋、俳句でも秋の季語、秋の行事になっています。そここに川辺があり、湿った土の上を歩いていた昔の日本の集落では、秋がくるのも早かったのでしょうか。風になびく笹の葉と満天の星空に浮かぶ天の川、在りし日の七夕祭りの美しさを想像すると、確かに秋の気配がします。
さて、松本市立博物館には国の重要有形民俗文化財に指定されている七夕人形コレクションがあります。その「七夕行事の変遷を究明する上で極めて重要な資料となる」45点のコレクションのなかに、「カータリ」という松本地域特有のとても変わった人形があるので紹介します。下の写真の一番左がカータリです。
松本では織姫と彦星の対の七夕人形を軒下に飾る風習がありますが、それと一緒に角材で作った男の人形もぶら下げます。このカータリ(川渡り)は、雨が降って天の川が増水してしまった時に織姫(または彦星)を背負って川を渡る大切な役目を担っています。年に一度しか会えない七夕様のため、着物の裾をしりっぱしょり(尻端折り)して長い足を出し、天の川のほとりで待機している人足です。この伝承の人物がどうして松本の七夕に登場するのかよくわかってはいませんが、作物のためには雨がほしい、でも、織姫と彦星が会えないのは可哀そうという、人々の複雑な願いを解決するカータリというキャラクターが松本の七夕には必要不可欠なのです。
松本市立博物館では数年前までこのカータリをストラップにして販売し、七夕の「恋のキューピット」としてとても人気がありました。現在は販売されていませんが、新博物館ではこのカータリストラップをワークショップとして復活させたいと思っています。胴体部には、石垣を壊すとして伐採された松本城の樹齢100年の欅(けやき)を使い、願いをこめながら結ぶ紐が手足となります。見る角度によって表情が変わる、カータリというキャラクターを生かしたかわいいストラップです。
新博物館の常設展示だけでなく、エントランスに設置される大型イラスト、こども体験ひろばのぬりえにもカータリが登場します。この、松本特有の頼もしい助っ人「カータリ」が、織姫・彦星だけでなく、新博物館と市民との橋渡しもしてくれそうです。
Vol.026 松本城模型―燻蒸に向けた解体から―(R4.6.20 文責:福沢)
松本市立博物館には明治44年(1911)に作られた松本城模型があります。この模型が制作された頃は、堀の一部が埋められ櫓が解体され、御殿焼失後の二の丸には長野県立松本中学校の校舎が建つなど、松本城周辺の景観は大きく変化していました。当時の開智学校の教員たちが幕末頃のお城周辺の様子を聞き取りながら制作し、完成直前には担当の授業を別の教員に代わってもらったり、深夜まで作業をしたりして制作したことが日誌に記されています。模型は児童たちが郷土の歴史を学ぶ教材としても使われ、博物館でも展示され続けてきました。
先日、新博物館へ移設するために必要な燻蒸作業のため、模型の解体を行いました。後の時代に作られたガラスのカバーや展示台を取り外し、模型は6つのパーツに分割し、分割ライン上にある建物や塀は場所を記録して一時的に取り外しました。
燻蒸についてはこちらの「休館通信 ~新博物館への道~」もご覧ください。
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取り外した建物などを観察すると、厚紙製と木板製があり、模型全体を見ても窓の表現や外壁の塗装色が異なるものがあり、何回も補修があったことがわかります。もちろん、昭和30年(1955)に架けられた埋橋も後の補修で付け足されたものです。武家住宅などの建物は当初は厚紙で作られていたようで、土塁上の塀は木板で作られているものが多く、当初からのものかどうか検討が必要です。取り外した建物の内側にはメモ書きがされているものもあり、新しめの木板製の住居には「昭和己酉後補 花岡」と書かれており、己酉(つちのと とり)から昭和44年(1969)に補修されたものだとわかります。前年の昭和43年に日本民俗資料館として新築開館していますので、関連して修復されたのでしょうか。
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城郭の門にも補修された時代の差がよく表れています。制作当初のものは、門が開閉できるような細工がされており、後で補修されたものは木の板に扉を描いただけのものもあります。
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今回の解体で間近に見ることで細かい作り込みも発見することができました。現在制作を進めている松本城下町ジオラマのように最新の研究成果が反映されておらず、制作当時も学術的な調査や根拠が不足していたかもしれませんが、細かい作り込みには教員たちのこだわりや熱意が表れており、また何回も補修された痕跡や、後に作り直されたガラスケースや展示台には、模型を大切にしてきた人々の想いが詰まっているようです。
今回は一部の建物を取り外しただけでしたが、細かく観察すると面白いことがたくさんわかります。110年も模型を大切に受け継いできた人々の想いを感じながら、新博物館でもご覧いただけたらと思います。
Vol.025 まち歩きは楽しい! (R4.5.26 文責:千賀)
信州の厳しい寒さが過ぎ暖かな日が多くなるにつれ、皆さんをご案内して城下町のまち歩きをする機会が増えてきました。
展示室を作っている立場で言ってよいものかと思いますが、やっぱり現地に出て実際に歩いて見て回るのが一番楽しいですね。古地図を片手に歩くと、松本城の堀の痕跡、現存する水路、不自然に曲がる道路など、江戸時代の城下町と今自分が立っている場所や見ている風景がつながり、わくわくします。歴史だけでなく地質などの分野でも、現地で本物を見ることに勝るものはないでしょう。
でも、これって、古地図という歴史資料や地質の知識があるからこそ、楽しいのではないでしょうか。
博物館の展示や学芸員の役割は、ここにあるのだと思います。このコラムのVol001でも書きましたが、松本には、豊かな自然・歴史・文化が現地に残され、市域全体が「屋根のない博物館」です。だから、ぜひ現地に足を運んで見てもらいたい。そのために、博物館の展示や学芸員の解説を、現地をより楽しむためのガイドとして使ってもらえれば、きっと現地見学が素晴らしいものになるはずです。
展示製作もいよいよ大詰めを迎えてきました。雪にも夏の暑さにも原稿の締め切りにも負けない、そういう学芸員に私はなりたい。
Vol.024 てまり作家のてまり (R4.4.19 文責:高木)
松本てまりプロジェクトでは、てまりモビールに使用する150個のてまりのうち約100個を市内のてまり作家さんに作ってもらいます。先日、そのてまりが納品され全てがそろいました。てまりモビール用ということで、発泡スチロール芯を使い、木製バーに固定するための軸を挿入する穴を設定してもらうなど多くの制約があり、作り手さんは大変苦労したようです。けれども今回納品された個性豊かなてまりを見て、改めててまりの素晴らしさ、一針一針に込められた、てまりを作る人のエネルギーの強さに圧倒された思いです。
まずは松本てまり保存会の海老澤さんの作品を紹介します。海老沢さんは松本市立博物館の収蔵品をもとに復活した伝統的なてまりの作り方をしっかりと守ってくださっています。てまりワークショップDコースの講師も務めていただきました。松本てまりといえばこれという、白地に八重菊のてまりは、華やかさ、文様のつくるリズムなど伝統工芸品として完成された美しさです。その他に様々なオリジナルてまりも作っています。
創業明治11年、松本城近くに店を構える「土産処たかぎ」も、昭和30年代に松本てまりを復活させ、土産物として売り出していました。今でも多くのてまりを販売し、体験教室も開いています。伝統的な模様ですが、地まりの色を黒くするなどモダンな雰囲気が特徴的です。
次に紹介するのは、てまりワークショップCコースの講師も務めていただいた、鈴木さん、森下さんに作っていただいたてまりです。8㎝から25㎝までの様々な模様のてまりで、色づかいに作り手のエネルギーを感じます。
最後に中町の「手仕事商會すぐり」が主催するてまりワークショップで研鑽する方々の作品です。15名の作り手がそれぞれ精魂込めて作ってくださいました。すぐりてまりの特徴はその使われる糸で、すべてオリジナルの草木染の木綿糸を使用しています。
今回、「てまりプロジェクト」を通して最も感じているのは、同じ糸、同じ模様でも作り手によって全く違うてまり=世界、ができあがるということでした。また、幼い子どもの手で作られたいびつなてまりも、職人の精緻な技法で作られたてまりも同様に完成されていると感じます。それはてまりが球体という完全な形であるということ、糸が繰り返し繰り返し巻かれていく時に必然的に成立する祈りのような時間が込められるということと関係するかもしれません。
伝統的な松本てまりを含め、松本市民の作り手によって個性豊かなてまりがそろいました。あとは、アートプロデュースの土屋氏・小松氏にゆだね、作り手の思いをのせて浮遊する、てまりモビールの完成を待つばかりです。
Vol.023 取材を通して―みすず細工― (R4.3.25 文責:福沢)
新博物館の展示製作には多くの方にご協力いただき、さまざまなことを教えていただいています。今回は伝統工芸品のみすず細工を、松本みすず細工の会の取材を通して感じたことと併せてご紹介します。
みすず細工はザルやカゴ、弁当行李などのさまざまな種類の日常品が作られ、軽く丈夫なため、明治・大正時代には海外にまで輸出された松本のブランドとして盛んに生産されていました。時代の変化とともに、安価な大量生産品やプラスチック製品などが流通し、徐々に製作者が減っていきました。最後の職人が亡くなり製作技術が途絶えましたが、市民により復活プロジェクトが立ち上がり、プロジェクト終了後の今でも製作が続けられ、技術が継承されています。
みすず細工製作は、材料のスズ竹の採取から始まります。現在では長く真っ直ぐな竹を入手するのがとても難しくなってきているそうです。産業の衰退には、需要の減少だけでなく、材料の調達が困難になることも大きく影響しているとの話を実感しました。
竹を採ってくると乾燥する前に竹割りをし、内側を剥いで薄くし、削って幅を揃えてひごを作ります。過酷で地味な作業ですが、繊細なみすず細工を編むためには竹採りと竹割りがとても重要です。
編み方も、設計図や解説本として残されている訳ではないので、復活プロジェクトの際には博物館収蔵資料を観察し、昔の壊れかけた製品を分解したり、他地方の竹細工の技術を学んだりして、「松本の」みすず細工の技術を復元しました。会の皆さんのお話によると、熟練した職人の編むスピードはかなり早く、1日にザルを何枚も編み上げ、竹ひごの本数を数えたり確認することなく、身体が覚えているようにどんどんと編んでいたそうです。会の皆さんは現状に満足せず、自分たちの技術を高めていく向上心を持って日々作業をされていました。生まれ変わってもみすず細工をやりたいという話がとても印象的でした。
人から人へ受け継がれてきた技術は、職人が亡くなると、そこで技術が途絶えてしまいます。技術を継承するためには記録を残したり人に教えたり、日頃から技術を伝え残していく活動が必要です。取材を続けているなかで、新たにみすず細工を学び始めた方もいらっしゃいました。多くの人に知られ興味を持ってもらえれば、製作品を購入するだけではなく、学びたい、作りたいと思う人もいると思います。まずは、伝統工芸品のみすず細工の魅力を多くの人に知ってもらうことが第一歩です。
ここ2年は、クラフトフェアや商業施設の伝統工芸品展といったイベントの中止で、伝統工芸品を知ってもらう機会が減り、職人としても作品や技術を披露する機会が減っています。そんななか、伝統技術をつなげるために新しい博物館でできること、やるべきことをやっていきたいと思います。
Vol.022 なぜワラウマを展示するのか(後編) (R4.3.1 文責:千賀)
実は、博物館にはすでにワラウマがありました。1998年に寄贈され長年にわたり展示されたものですが、製作から24年が経過し状態が悪く、これ以上の展示には耐えられない状態でした。
そのことは、入山辺厩所集落の皆さんもご存じで、新しいワラウマの製作に向けて「今博物館にあるワラウマを返してほしい」とのお話がありました。24年前のワラウマは、現在製作される皆さんの親世代が作ったものです。自分の親たちが作ったワラウマをじっくりと見てみたいということでした。
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こうして迎えた2月8日のコトヨウカの日、事前に博物館から古いワラウマを持ち込み、それを皆さんで観察しながら考察が始まります。「今よりワラの量が多い」「ジジ・ババに指がある」「昔の人は丁寧だ」などと言いながら、結論は「博物館用に気合を入れて作ったのだろう(笑)」でした。
よく見ると、目や顔の作り方は現在と違います。それでも、古いワラウマをマネするでもなく、いつも通りどんどんワラウマを作っていきます。そもそも設計図はないので、その年ごとに姿が違うのもワラウマの特徴です。ちなみに今年のワラウマは、コロナ禍で家でテレビをよく見た影響か、競走馬のようになったとのことです。そして、24年前の親世代と同様に、博物館での展示用に例年より2倍近い時間をかけて作っていただきました(笑)。
今年は、新旧2体のワラウマの周りで念仏を唱え、博物館にあった古いワラウマを河原で燃やしてもらいました。これで、24年間しっかり依り付いた博物館の貧乏神ともお別れです。
行事が終わり、新しいワラウマを新博物館へ運び出す際、「今回はワラウマを作れたが25年後にはできるだろうか」とのお話をいただきました。厩所集落では子どもが数人しかおらず、行事の継続に不安があるようです。松本市全体でも、近年では人手不足などで中止される民俗行事が多くあり、コロナ禍によりその数は増える一方です。
外部の人間が簡単に「続けてください」とは言えません。しかし、博物館での展示を通して、この行事の価値を広くお知らせすることで、誇りを持ちこれからも続けてもらえればと思います。仮に続けられなくなった場合でも、博物館でワラウマを保管すればこれをもとに復活することも可能です。
博物館は、“地域の記憶装置”と言われます。それは、古いものを大切に保管することだけではありません。今の暮らしを伝え100年後の歴史や伝統にする役割も表しています。今、消えそうになっている民俗行事や伝統はたくさんあります。地域の皆さんの力だけでは継承できないものを博物館が保管し、その価値を伝える努力をしなければなりません。こうして博物館で蓄積される歴史や伝統が、“松本らしさ”を生み出し、さらには、都市としてのブランドイメージやアイデンティティを創出することになります。
博物館の資料は、精巧な工芸品や教科書に掲載される資料など集客力のあるものばかりに目が行きがちです。ワラウマは、それらに比べるととても地味で人を呼べるものではありません。でも、松本市立博物館にとっては、とても意味のある大切な資料なのです。
なぜワラウマを展示するのか、2年前に遡って2回に分けてお伝えしました。新博物館の展示室でワラウマをご覧になる際には、展示に至るまでのこうした経緯を少しでも感じていただけると幸いです。
この想いを、どうやってワラウマに添える解説文に表現するか、私の苦悩は続きます。
Vol.021 なぜワラウマを展示するのか(前編) (R4.2.24 文責:千賀)
2月8日に、入山辺厩所集落で行われるコトヨウカの「貧乏神送り」に行ってきました。目的は、新博物館で展示するワラウマを作ってもらうことです。
この企画のスタートは2年前に遡ります。そこから語りだすと非常に長くなるので、今回のテーマは前編と後編の2回に分けてお届けします。
前編は、「ワラウマ製作を依頼するまで」です。
博物館の常設展示室で展示する資料は、基本的には、博物館で収蔵するコレクションのなかから選びます。それは、所蔵資料を詳しく調査して、その成果を展示でお伝えするためです。 しかし、「屋根のない博物館 松本」をぎゅっと詰め込んだ常設展示にするためには、博物館の収蔵資料だけでは足りず、現地で今まさに使用しているものを展示して、現地で感じる肌感覚のようなものを伝えたいと考えました。
今回のワラウマの展示は、2年前に民俗分野の展示構成を考える際に、実際に「貧乏神送り」の行事にお邪魔したのが始まりでした。
「貧乏神送り」は、コトヨウカと呼ばれる2月8日に入山辺厩所集落で行われる行事です。住民がワラを持ち寄って公民館に集まり、ジジ・ババとよばれる人形を乗せたワラの馬を作ります。そのワラウマを中心に住民が輪になって座り、大きな数珠を回しながら念仏を唱え、「貧乏神追い出せ」と言いながらワラウマを抱えて河原まで運び出し、燃やします。集落を練り歩きながらジジ・ババに貧乏神を依り付かせ、それを燃やすことで無病息災を願う行事です。
私自身、民俗行事には「伝統を守る」という儀式的な堅苦しいイメージを持っていました。しかし、実際に拝見してみると、集落の皆さんが楽しそうにワラウマを作っている様子がとても印象的でした。ワラウマの設計図はなく感覚で作っているので、同じものは2度と作れず、そもそも、完成後すぐに燃やしてしまうので細かいことは気にしないとのことです。「どうだったかや?」とか言いながら、笑い声の絶えない中であっという間にワラウマを作っていました。そして、河原で燃やした後に公民館で開かれる酒宴では、「今年のウマの出来は…」など皆さんで講評して盛り上がっていました。
私は、この行事では、ワラウマを作ることとともに、集落全員で共同作業をして無病息災という同じ願いを共有し、そして一緒に酒を飲むことで、集落の絆を深めることが重要なんだと感じました。ワラウマ作りは、その手段に過ぎないのです。伝統的な民俗行事は、ひょっとしたら娯楽の少ない時代の「遊び」だったのかもしれません。みんなで集まって酒を飲むための口実だったと考えると、急に身近に感じられました。
しかし、その「遊び」の先には「集落の絆を維持する」という重要な目的があります。民俗行事に楽しみを共有することで集落を維持する機能があるとすると、そこから、高齢化や人口減少という今日的な課題に対して解決のヒントが得られるかもしれません。
実際に現地で使われるものを展示できないかという目的で調査に伺ったところ、思いがけず「集落の維持」という大きなテーマに思いをはせることになりました。そして、このワラウマは、現地の姿だけでなく、民俗行事への関心を高め、集落の現状と未来を考える資料になると考えました。
そこで、行事の終了後に、集落の皆さんに新博物館でのワラウマ展示とそれに向けた製作を依頼し、快諾いただきました。
続きは、後編へ。