発掘された松本2021② 「松本城跡本丸跡第4次」

 前回(発掘された松本2021① 「弘法山古墳第3次」)に続き、発掘された松本2021の調査結果を紹介していきます。今回は松本城跡本丸跡第4次調査です。

松本城跡本丸跡第4次調査

 調査地は、史跡松本城本丸内北西部に位置します。松本城の防災設備整備事業に伴い調査が行われました。
 調査の結果、整地面を確認することができました。整地面の下からは瓦片や漆喰が大量に出土しており、瓦や漆喰を廃棄した後に整備された整地土層であると考えられます。
 本丸内において大量の瓦・漆喰が廃棄される出来事として享保12(1727)年の松本城本丸御殿の焼失時、もしくは昭和25(1950)年から行われた松本城天守の解体修理の2つが考えられますが、今回出土した遺物からは時代の判断を行うことはできませんでした。

絵図で見る調査位置(クリックで拡大します)

絵図で見る調査位置(クリックで拡大します)

出土した戸田家家紋入りの瓦(白いものは漆喰)

出土した戸田家家紋入りの瓦(白いものは漆喰)

 

コラムクイズ

第二次大戦後、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)民間情報教育局の美術顧問が松本城を視察し、解体修理の必要を認め文部省に勧告しました。これが「昭和の大修理」ですが、明治時代にも松本城は大修理が行われています。この明治時代の大修理に尽力した人物は誰でしょう。

3つの中から選択してください

発掘された松本2021① 概要と「史跡弘法山古墳第3次」

令和3年発掘調査の概要

 令和3年の発掘調査では、松本城関連遺跡4カ所の調査が精力的に進められ、かつての松本城の姿や、中世から近世の松本の様子を紐解く資料となる発見がありました。史跡弘法山古墳や県町遺跡では昨年に続き調査が行われました。
 また、長野県が実施した発掘調査では、松本市波田地区で初めての古墳が発見されるなど、近年の歴史への関心の高まりとともに注目が集まりました。(真光寺遺跡については過去のコラムで紹介していますのでこちらご覧ください。→ 考古博物館ニュース⑥ 「新発見!波田地区で見つかった古墳」
 
 今回は弘法山第3次調査を紹介いたします。次回以降も数回にわたり、令和3年発掘調査の速報をお届けします。

史跡弘法山古墳第3次調査

 弘法山古墳の再整備に向けて、令和2年度より継続して調査が行われています。今年度は後方部2カ所と前方部1カ所の計3カ所にトレンチC・D・E(土の堆積の様子を観察するための溝)を設定し、発掘調査を実施しています。調査では、古墳の形や規模などを確認するために、土の違いを観察しながら、古墳が造られた後に堆積した土を取り除いています。

発掘調査位置図

発掘調査位置図(クリックで拡大します)

 Cトレンチの下半分では、長さ20cm程度の角張った石や丸みを帯びた石がまとまって確認されました。丸みを帯びた石は河川で見られるものであることから、河川から弘法山まで運ばれてきたことがわかります。しかし、葺石などの古墳に関わる石になるかは現段階でまだ判断ができていません。古墳の規模を確定するための墳裾部(古墳の端の部分)などを確認するため、次年度も引き続き調査が実施されます。

Cトレンチ 石の検出状況

Cトレンチ 石の検出状況

松本市内遺跡紹介⑨ 「島内地区の遺跡~北方遺跡~」

 島内地区は、松本市の中心市街地の北西部に位置し、西側に梓川、東側に北流する奈良井川に囲まれた水田地帯と平地部と、奈良井川右岸の城山山麓部に分けられます。
 梓川は、近代まで氾濫を繰り返していたため、島内地区の平地部には集落が発達せず、遺跡は存在しないのではと考えられてきましたが、昭和40年代以降のほ場整備や道路開発に伴う発掘調査によって、古墳時代以降の集落跡などが発見されました。
 集落跡の遺跡をみると、いずれも遺構の分布密度が低く、他地区の同時期の集落と比べると規模は大きくありません。これは、頻繁な梓川の氾濫の影響で、長期にわたり安定して人が住むことのできる場所が少なかったためだと考えられています。城山山麓部では、縄文時代の遺構や古墳群が見つかっています。

北方遺跡

 昭和59・61年に発掘調査が行われました。その結果、平安時代中頃以降の竪穴住居址や中世の掘立柱建物址が見つかっており、平安時代~中世にかけての遺跡であることがわかっています。特に下記で触れる須恵器の大甕3点が出土のほか、墨書土器や刻書土器、黒色土器、緑釉陶器、灰釉陶器、鉄製品といったものも出土しています。
 墨書土器が出土していること、土器底部を利用した転用硯が多く出土していることから、公用・私用等記号の文字を書く・記録する人がいたと推測されます。

北方遺跡の墨書土器

北方遺跡の墨書土器

「大井」の文字が刻まれた灰釉陶器

「大井」の文字が刻まれた灰釉陶器

3つの大甕

 3つの須恵器の大甕が、三角形の位置関係で見つかりました。3つのうち2つの大甕は18号住居址内にあり、住居址埋没後に設置されたとされます。
大甕の埋設遺構は前例がなく、さらに3点セットでの発見は長野県内初めての事例となります。
 大甕は胴下半分を破壊することなくそのまま埋められていました。内部からは、大甕自体の破片や焼けた跡のある石、炭化物が見つかりました。そのうち1つの大甕は、上方の胴体部分が割れ、蓋状に覆いかぶさった状態で出土しました。
 用途としては、墓跡、染料の保存容器、水等の液体貯蔵器ではないかとする説、農産物の貯蔵容器とする説等考えられますが、特定はされていません。また、内部に残された焼けた石や炭化物などは火を用いた儀式の証ではないかとされ、集落の移転等の際に運搬ができず長く生活に活用された器に対し、丁重に供養を行ったとも考えられます。

発掘時の大甕(左:横から、右:上から)

発掘時の大甕(左:横から、右:上から)

 

コラムクイズ

北方遺跡の3つの大甕の中で一番大きい(写真の左)ものは、どのくらいの大きさでしょうか。ちなみに3つの中で一番小さいものは、約96cmです。

須恵器の大甕

3つの中から選択してください

速報展「発掘された松本2021」(2月11日~2月27日)

2021年の松本市の発掘成果をいち早くみなさまに‐‐‐

松本市では毎年、市内各地の発掘調査を行っています。
速報展は1年間の発掘調査の成果をいち早く市民のみなさまにお披露目している展覧会です。
さて、2021年はどのような発掘成果になったのでしょうか。ぜひご覧ください。

 

会  期:令和4年2月11日(金・祝)~2月27日(日)
会  場:松本市時計博物館(松本市中央1-21-15 36-0969)

       ※考古博物館ではないのでお間違えなく。
開館時間:午前9時~午後5時(入館は午後4時30分まで)
料  金:大人310円、小中学生150円
お問い合わせ:考古博物館(86-4710)

 

○関連事業「発掘された松本2021 報告会」について
今年度も新型コロナウイルスの感染拡大に伴い、報告会は中止となりました。
つきましては、昨年同様、発掘担当者による発掘調査報告の様子をYouTubeにて公開いたします。
資料は考古博物館・時計博物館(速報展会期中のみ)・文化財課にて配布するほか、松本市公式HPで掲載をいたします。
ご希望の方は上記施設へお越しいただくかHPよりダウンロードしてください。

配布資料はこちら → 発掘された松本2021報告会について(松本市公式ページ)
解説動画はこちら → 松本市公式チャンネル(2月下旬より公開予定)

報告会に関するお問合せ
松本市文化財課埋蔵文化財担当(85-7064)

松本市内遺跡紹介⑧ 「入山辺地区の古墳~南方古墳~」

 入山辺地区は、松本市街の東方に位置し、薄川の最上流域にあたります。薄川が扇状地形を作る付近から傾斜はあるものの平坦地が広がり、集落も山麓や段丘上に展開し、里山辺地区へつづきます。山の谷間に位置していることから狩猟・漁撈・植物採集といった面で恵まれていますが大きな遺跡は見つかっていません。
 この谷間は諏訪地域や小県地域との交通路にもあたるため、人々の往来があったことを示す遺跡が点在しています。交通路のためか中世には中入城や桐原城など多くの山城が構築されています。

南方古墳

 南方古墳は入山辺南方集落西側の薄川左岸の段丘上に位置しています。ほ場整備中に偶然発見された古墳です。
 石室の西側側壁の大半は重機により破壊されてしまいましたが、残存している奥壁、東側側壁、西側側壁と羨道の一部や土層の様子から、自然地形(段丘)を利用した横穴式石室と考えられ、おそらく胴張りの片袖式石室だったと推測されます。また、周溝のごく一部が確認され、形状から考えると径24mの円墳と考えられます。
 玄室の最大幅は2mほどとみられます。奥壁には最大幅約0.9m、長さ1.2m以上の円礫・角礫が、側壁や床面には河原石が使われていました。

発掘時の南方古墳

発掘時の南方古墳

豊富な副葬品

 南方古墳はその存在が知られていないこともあり未盗掘で多くの副葬品が見つかりました。その豊富な副葬品は、市内の他の古墳と比較しても圧倒的に多く、特に金環や勾玉の玉類を中心とした装身具は700点を超えます。他にも県内でも珍しい壺鐙を含む馬具類、直刀や刀子の武器、須恵器や銅鋺、承盤といった喪葬用の器が出土しています。土師器1点・須恵器5点は完形で、奥壁脇に横一線に置かれた状態で見つかっています。
 また、圭頭柄頭(けいとうつかがしら)や倒卵形鐔(とうらんけいつば)など金銅製の儀刀は、被葬者を知る資料として重要なものです。

出土品(馬具)

出土品(馬具)

出土品(左:圭頭柄頭、右:倒卵形鐔)

出土品(左:圭頭柄頭、右:倒卵形鐔)

 

コラムクイズ

松本地域では2月8日を「こと始め」の日と呼び、山辺地区では藁で作った馬や蛇などを集落の外へ神送りし、焼き払うといった行事が行われます。これはなんという行事でしょう。

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松本市内遺跡紹介⑦ 「岡田地区の遺跡~岡田町遺跡~」

 岡田地区は、縄文時代から中世(鎌倉・室町時代)にかけて多くの遺跡が分布しており、中でも縄文時代と平安時代の遺跡が多数見つかっています。
 縄文時代では、早期から晩期までの遺構・遺物が発見され、長い年月にわたって集落が営まれていたことがうかがえます。また、平安時代には田溝池周辺に須恵器を生産した窯跡・北部古窯址群(ほくぶこようしぐん)が広がり、県下最大級の須恵器生産地帯でした。そして、土師器焼成坑(はじきしょうせいこう)や粘土貯蔵用土坑の存在から、地区内には土師器を生産していた集落もあったと考えられ、岡田地区の奈良・平安時代は北部古窯址群の須恵器生産とともに集落が変遷していったと推定されます。

岡田町遺跡

 岡田町遺跡は、善光寺街道・岡田宿の西側に位置します。遺跡の近くには女鳥羽川が流れ、本遺跡が生活の舞台であったころから生活に密接にかかわっていたとされます。
 調査の結果、竪穴住居址が110軒(古墳時代4軒、奈良~平安時代99軒、時代不明7軒)見つかり、9世紀以降とみられる掘立柱建物址が21棟、平安時代の土師器焼成坑2個なども見つかっています。さらに中世以降の火葬墓が6個、珍しい形の硯・堤瓶形硯や円面硯、瓦といった特殊遺物の出土も確認されています。
 奈良・平安時代以前からも人々が生活していた様子がうかがえますが、以上のことからも本遺跡が全盛期を迎えていたのは奈良・平安時代とされるでしょう。

堤瓶形硯

堤瓶形硯

材質の異なる軒丸瓦

 岡田町遺跡から須恵質の軒丸瓦が出土しています。この瓦には単弁8葉蓮華文が飾られていて、同じ模様で土師質の瓦が同地区“宮の前遺跡”から出土しています。須恵質と土師質と製造方法が違いますが、同じ模様が出ていることから同じ型を用いて作ったと考えられます。
 これらの軒丸瓦は、サイズが小さいことも特徴です。松本市内で瓦が大量に出土した大村遺跡の軒丸瓦と比べると2/3ほどの大きさで、そのサイズ感から寺院や役所の屋根に葺くのに使用されたとは考えにくく、どのような用途で使用されたのかわかっていません。

軒丸瓦(左:岡田町遺跡出土、右:宮の前遺跡出土)

軒丸瓦(左:岡田町遺跡出土、右:宮の前遺跡出土)

報告書No.99 P146より

報告書No.99 P146より

 

コラムクイズ

岡田地区には岡田宿があり宿場町でした。塩尻市洗馬から始まり、岡田宿から刈谷原(かりやはら)峠を越えてつながる街道はどれでしょう。

3つの中から選択してください

考古博物館ニュース⑩ 学芸員のおすすめ資料

土の中からこんにちは!松本出土の土偶たち

 土偶は、縄文時代に祈りや願いを捧げるために作られた素焼きの土人形です。女性を模した形が多く、出産の無事・子孫繁栄や病気の治癒、食料の確保などを祈願するための道具ではないかと言われています。また、土偶が完全な形で発見されることは極めて少なく、バラバラの状態で見つかることが多いので、病気やケガをした人の身代わりとして、人為的に破壊されたのではと考えられ、なんらかの儀式に使用されていたとも推測されます。
 そんな土偶ですが、人を模しているだけあり、表情がとても豊かなことが特徴です。出土地によっても顔が違い、笑っていたり困っていたりと様々な表情を見ることができます。何万年も昔に暮らしていた人々はこのような顔をしていたのでしょうか。
 今回は土偶の顔をピックアップして紹介します。松本で出土した個性豊かな土偶たちの表情をご覧ください。
※ ★がついているものは現在展示中の土偶です。

出土:山影遺跡(松本市中山)

出土:山影遺跡(松本市中山)★

出土:山影遺跡(松本市中山)

出土:山影遺跡(松本市中山)

出土:坪ノ内遺跡(松本市中山)

出土:坪ノ内遺跡(松本市中山)

出土:坪ノ内遺跡(松本市中山)

出土:坪ノ内遺跡(松本市中山)★

出土:塚田遺跡(松本市大村)

出土:塚田遺跡(松本市大村)

出土:牛の川遺跡(松本市笹賀)

出土:牛の川遺跡(松本市笹賀)★

出土:小池遺跡(松本市寿)

出土:小池遺跡(松本市寿)★

出土:小池遺跡(松本市寿)

出土:小池遺跡(松本市寿)

出土:エリ穴遺跡(松本市内田)

出土:エリ穴遺跡(松本市内田)★

出土:エリ穴遺跡(松本市内田)

出土:エリ穴遺跡(松本市内田)★

出土:石行遺跡(松本市寿)

出土:石行遺跡(松本市寿)★

出土:石行遺跡(松本市寿)

出土:石行遺跡(松本市寿)

 

コラムクイズ

松本市内田・エリ穴遺跡では、遮光器土偶をまねた土偶が出土しています。遮光器土偶といえば、東北地域の文化圏が本場の土偶で、亀ヶ岡遺跡から出土したものは国重要文化財に指定されています。亀ヶ岡遺跡は何県にある遺跡でしょう?

遮光器土偶(エリ穴遺跡)

3つの中から選択してください

考古博物館ニュース⑨ 考古博物館の体験学習(勾玉作り編)

考古博物館の体験学習

 考古博物館では、いくつか体験を用意しています。
 勾玉作りや火起こし、弓矢飛ばしといった古代体験のほか館内にも土器パズルなどのミニコーナーを設けています。
 今回は、勾玉作りについて紹介します。勾玉作成キットの販売もしていますので、お家でも作ってみてください。

古代人のアクセサリー

 勾玉は縄文時代~古墳時代の装身具(アクセサリー)です。古墳から出土することが多く、副葬品として埋葬者の装飾にも使われていたとされます。
 勾玉の多くは石を加工して作られました。当館の体験講座では“滑石(かっせき)”という加工のしやすい柔らかい石を使いますが、古代の人々は“翡翠(ひすい)”“瑪瑙(めのう)”“水晶(すいしょう)”といった石の中でも特に硬いものを使い勾玉を作っていました。加工のしにくい石を使うため作るのに相当な労力と時間がかかったと思われます。特に翡翠は日本の国石になっている石で、日本一の翡翠の産地である糸魚川産のものは質が高いとされます。糸魚川産の翡翠から作られた装飾品は全国各地で見つかっており、縄文時代~古墳時代のおよそ3,000年流通していたことがわかっています。
 勾玉は、権力の象徴として身につけられていたとされ、その人の地位の高さ・力の強さを示していたとされます。権力者は質が高く美しい勾玉を求めたのでしょうか。

常設展示中の勾玉

常設展示中の勾玉

勾玉の形はなんの形?

 勾玉は、Cの字を逆にした形をしていますが、その形の由来は諸説あり、はっきりとわかっていません。
 当館で勾玉作り体験時に説明する3つの説を紹介します。
 
動物の牙や爪・・・勾玉は動物(イノシシやクマ)の牙や爪の形が似ています。縄文時代早期には牙や爪に穴を空けて装身具としていたことが発掘調査からわかっています。動物への感謝や自分の力の誇示として身に着けていたのでしょうか。
胎児の形・・・生まれたばかりの赤ちゃんや動物を解体した際に発見されたとされる胎仔などから生命の神秘を感じ取り、その形を表したのでしょうか。特に生と死の距離が近かった時代に出産の無事や子孫繁栄なども願ったのでしょうか。
月の形・・・空に浮かぶ月(三日月)を模した形にも似ています。時間の進みや季節の移り変わりと密接な関係を天体から感じ取ったのではないでしょうか。
 
 当時の人々がどのようなことを想いながら勾玉を作り、また身に着けていたのか考えながら勾玉作りを体験してみるのもいいかもしれませんね。

考古博で使用している教材

考古博で使用している教材

 

コラムクイズ

天皇の即位の儀式を行う際に耳にする「三種の神器」の中には勾玉が含まれています。三種の神器は、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)と八咫鏡(やたのかがみ)とあと何でしょう。

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松本市内遺跡紹介⑥ 「寿地区の遺跡~前田木下遺跡~」

 寿地区は松本市の南東部に位置し、縄文時代~平安時代にかけて多くの遺跡が見つかっています。
 南北に細長い地区の北部~中部は弥生時代の遺跡が多く、弥生時代を代表する“百瀬式土器”が見つかった百瀬遺跡もその一つです。南部は、塩尻市域に突き出した赤木山の山中から縄文時代中期の遺物が多く見つかり、縄文時代から中世にかけていたるところで集落が営まれていました。赤木山の北東に広がる緩斜面は、鉢伏山から流れる塩沢川によって形成された扇状地が広がり、縄文時代に集落が営まれ、平安時代から中世にかけても大きなムラがあったことが調査の結果わかりました。

前田木下遺跡

 前田木下遺跡は赤木山の丘陵の西南端に位置する遺跡です。遺物の時期は縄文時代中期を主体とし、縄文時代前期から後・晩期、弥生時代中期、古墳時代、平安時代の各時代にわたります。特に縄文時代中期の土器と石器が多量に出土している点が注目されます。また、住居址間で遺物の出土量に著しい差が見られたことも特徴の一つです。
 出土遺物は縄文時代中期のもの以外にも弥生土器や土師器、須恵器、陶器類、古銭が出土しており、遺物に伴って弥生時代・平安時代の住居址も発見されています。
 また、住居址の中には柱穴のないものや炉の推定地に焼土が伴わないものも確認されました。これは遺構確認面が極めて砂性の強い土のため埋没や崩落の痕跡が検出し難く、焼土も残りにくかったためと推測されます。
 これらのことから縄文時代中期の集落址を主体として、奈良平安時代の居住跡、中世のものと推定される方形の土壙がそれらに重複して存在するという様相で捉えられます。

前田木下遺跡出土の土器実測図

前田木下遺跡出土の土器実測図(クリックで拡大します)

縄文時代中期の土器

 縄文時代中期はそれまでの土器のデザインから装飾的となり立体的かつ複雑な文様がつけられるようになった時期です。新潟県を起源とし、千曲川流域でも作られた火焔型土器や八ヶ岳山麗の水煙文土器が誕生した時期でもあります。
 前田木下遺跡からは、複雑なデザインの土器の全盛期が終わる頃の土器が出土しています。口縁部が大きく広がりくの字状に内弯した大木8b式古段階新相の深鉢や曽利Ib式の深鉢、梨久保B式の褶曲文土器が確認されています。褶曲文土器は中山地区や内田地区の遺跡でも見つかっている他、県内でも中信域を中心に広がったとみられます。
 火焔型土器をはじめとした複雑なデザインの土器の全盛期は80年ほどで終わってしまいますが、その後、土器の文様は植物文様に変化し「唐草文系土器」が誕生するきっかけになったのでしょう。
(褶曲文:弧線を何本か平行に引いてつくる文様)

前田木下遺跡出土土器

前田木下遺跡出土土器

 

コラムクイズ

火焔土器が初めて出土したのは新潟県の「馬高遺跡」という遺跡です。「馬高遺跡」は何市にある遺跡でしょう。

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考古博物館ニュース⑧ 「縄文土器作り講座を開催しました」

 考古博物館では、年に1回縄文土器作り講座を開催しています。
 今年も10月に野焼き用の粘土を使用して形を作り、自然乾燥を経て、11月13日に野焼きを行いました。晴天に恵まれ絶好の土器焼き日和でした。

縄文土器のはなし

 縄文時代の土器作りは、粘土を作るところから始まります。この粘土は、地面を掘ればどこからでも出てくるものではなく、また場所によって質が変わり、最終的な土器の仕上がりにも影響してきます。採取してきた粘土は、乾燥した際収縮して亀裂が生じないために砂を混ぜよく練り込み、数日置くことでようやく土器を作るための粘土になります。粘土を作った次は、土器の成形→乾燥→焼くという工程があり、土器が完成するまでに長い期間がかかります。
 縄文土器の存在が人々の生活に大きな変化をもたらしました。土器によって、食料の調理や貯蔵が可能になったのもその内の一つです。それまで生で食べていたか、食べることができなかったものを調理をすることで食事の幅が広がりました。また、水や食料を蓄えることで食料を求めて移動することが少なくなり、長い期間その場に留めることができるようになりました。
 それまでの移動しながらの生活から特定の場所に定住して生活するスタイルへと変化していった要因の一つに縄文土器が影響していたと考えられます。

縄文土器(考古博常設展示)

縄文土器(考古博常設展示)

縄文土器作り講座を通じて

 今回は若干乾燥の度合いが気になる点ではありましたが、野焼き時に割れてしまう土器が少なく安心をしました。ただどうしても輪積みが甘く接合が弱いものや乾燥の不十分なものは焼いている途中で割れてしまいました。このことをその都度反省し、今年こそはと実施していますがなかなか解消できません。
 参加者のみなさまには、土器を作ることの難しさを体験した上で、土器が出来上がってよかったという思いと同時に、縄文時代を生きた人々の技術の高さや文様の美しさを実感してもらえればと思います。そして、今後もいろいろな博物館施設で土器を見学する際に形や文様、地域による“違い”を見てもらえればより一層楽しめると思います。

野焼きの様子

野焼きの様子

 

コラムクイズ

縄文土器は野焼きで土器を焼きますが、どのくらいまで温度が上がっているしょうか。

3つの中から選択してください