まが玉カードを配布します(3月2日~)
長野県埋蔵文化財センターでは「まが玉カード」を作成し、令和6年3月2日(土)からカードの配布を開始いたします。
松本市立考古博物館もカード配布施設の一つとしてカードを配布いたします。
また、当館で配布するまが玉カードのまが玉は、普段展示していない資料のため
カードの配布に合わせて展示しております。
ぜひこの機会に当館へお越しいただき、カードを集めてみてはいかがでしょうか。
カード配布開始日:
令和6年(2024)3月2日から(なくなり次第終了)
カード対象まが玉:
県町遺跡出土のまが玉と管玉
展示期間:
令和6年3月1日から令和7年3月31日まで
(カードの配布状況により期間が変わる可能性もございます。)
展示の風景:
松本市内遺跡紹介㉚ 「中山地区の古墳~柏木古墳~」とお礼の挨拶
※柏木古墳については、過去のコラムでも触れている部分がありますが、改めて紹介いたします。
柏木古墳
柏木古墳は、中山地区にあった古墳です。大正時代に行われた幹線道路の拡幅工事の対象範囲に入っていたため破壊されることになりました。そこで、中山村(当時)の有力者が中心となり大正14(1925)年に発掘調査が行われました。
墳丘は直径約15mで、南に開口する片袖式の横穴式石室を内蔵する円墳です。盗掘された痕跡はなく、中山古墳群の中では内部構造、出土状態、副葬品の全内容が判明している数少ない古墳のひとつです。
副葬品は武器・馬具・装身具・土器で、後期古墳の典型的副葬品のセットと言えます。武器では5口の直刀があり、うち3口は平棟平造りの大刀で倒卵形鐔を具えています。その中には銀象嵌を施したものがあります。馬具では轡と辻金具、装身具は勾玉・管玉・切子玉などの玉類と18点の金環が出土しています。
出土遺物は中山村の関係者や村民の高い文化財保護意識により村外への流失を免れ、中山考古館で大切に保管されてきました。(→過去のコラム「考古博物館雑記③ 「中山地区に誕生した考古館」(No.59)」もご覧ください。)
柏木古墳の出土品は、昭和62(1987)年4月に松本市の重要文化財に指定されました。
中山地区には古墳がたくさん
みなさんご存じの通り、中山霊園を中心としたエリアには「中山古墳群」と呼ばれるほどの古墳が存在している他、中山地区全域で数多くの古墳が存在しています。
中山10号墳や15号墳、小丸山古墳などは現在もその姿を見ることができ、62号墳のように平面復元されている古墳もあります。また、柏木古墳のような破壊され記録でしか残っていない古墳も多くあります。
さらに、中山地区内には多くの古墳があるとされていますが、未調査や未発見の古墳も存在していると考えられています。農作用の土がこんもりしていると思っていたけど、実は古墳だったりということもあり、案外中山に住んでいる方も知らなかったりする古墳もあると思います。
ここにも古墳があります
21号は中山小学校の北側にあります。古墳の上に社があり、ぱっと見古墳とはわかりにくい外見となっています。
小山下古墳は埴原北の反柿公民館の北側にあります。枯れ木があり、こちらもぱっと見古墳とわかりにくい外見をしています。
この古墳は元々存在は知られていましたが、開成中学校のある仁能田山の松枯れによる伐採が進んだことでその姿が見やすくなりました。傾斜にこんもりとしていますが、見やすくなったとは言え、気づく人は少ないでしょうか。ちなみに仁能田山の頂上、開成中学校の敷地内や生妻池の周りにも古墳があります。
さいごに
みなさんご存じの通り、中山霊園を中心としたエリアには「中山古墳群」と呼ばれるほどの古墳が存在している他、中山地区全域で数多くの古墳が存在しています。
中山10号墳や15号墳、小丸山古墳などは現在もその姿を見ることができ、62号墳のように平面復元されている古墳もあります。また、柏木古墳のような破壊され記録でしか残っていない古墳も多くあります。
さらに、中山地区内には多くの古墳があると考えられていますが、その中には未調査や未発見の古墳も存在しています。農作用の土がこんもりしていると思っていたけど、実は古墳だったりということもあり、案外中山に住んでいる方も知らなかったりする古墳もあると思います。
ぜひ中山地区を散策しながら古墳を探してみてください。
※散策の際は交通マナーにお気をつけてください。また、私有地への侵入はおやめください。
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コロナ禍の2020年5月に始まった考古博情報局。約4年間更新してくることができましたが今回が最終回となります。多くの方に読んでいただけたのでしょうか。どこかの記事で1か所でも興味を持ってもらえたものがあったのなら幸いです。
最後までお読みいただきありがとうございました。職員一同感謝申し上げます。今後とも松本市立考古博物館をよろしくお願いいたします。
博物館まつりの日は勾玉作り体験ができます
令和6年3月17日(日)に博物館まつりが開催されます。
博物館まつりの開催に合わせて、考古博物館では「勾玉作り体験」を実施いたします。
当日、受付いただくことで当館で勾玉作りができます。
○勾玉作り体験
受付時間:9時~15時30分
料金:210円
体験時間:40分~60分
人数制限:なし
事前申込み:不要
博物館まつりの日は観覧料無料となるほか、常設展示に関するクイズ回答者へ記念品をお渡しをいたします。
また、火起こし体験や弓矢飛ばし体験も行えます。(天候により中止とする場合がございます。)
この機会にぜひお越しください。
松本市内遺跡紹介㉙ 「四賀地区の遺跡~殿村遺跡~」
殿村遺跡
殿村遺跡は四賀地区会田にある松本市を代表する中世の遺跡です。学校建設に伴う発掘調査が平成20(2008)年に行われ、室町時代(15~16世紀)の大規模な造成跡や15世紀に造られた高さ1.2m、延長30mにおよぶ古式の石垣(石積み)が発見されました。石垣を伴う造成面からは建物の礎石や柱穴、炉跡、石列なども見つかり、遺構からは室町時代の茶道具も出土しました。この茶道具は、瀬戸産や中国産の天目茶碗や上質な石で作られた茶臼など当時珍重された品でもあります。
大規模な造成跡や石垣、高級な茶道具の出土は、この遺跡が中世の城館跡や寺院に関連した遺跡の可能性が高いと考えられ、この地を治めていた会田氏との関係性が注目されます。平成21年には地元の住民をはじめとする市民の熱い思いが結実し、現地保存から決定し、平成22年度から平成29年度まで9回計19地点で調査が行われるようになりました。
平成22年度の第2次調査からは、第1次調査で見つかった造成面の広がりや構造を把握する調査が継続的に行われ、次第に殿村遺跡の性格が解明されていきました。出土遺物として、古瀬戸陶器や中国産の青磁・白磁、硯、銭貨などの他にも、祭祀道具と考えられる串状の木製品や形代といったものも見つかりました。さらに第5次調査からは、宗教施設との関連性を踏まえた調査となり、長安寺の本堂跡地や廣田寺近くでも調査が行われました。
宗教空間としての殿村遺跡
継続的に調査が行われた殿村遺跡では、調査の結果から造成跡や建物跡は寺院などの宗教施設に伴うものであった可能性が高いと考えられるようになりました。遺跡の周辺には、長安寺跡や補陀寺跡をはじめ、廣田寺、無量寺、岩井堂、岩屋神社など、虚空蔵山麓には多数の寺社があり、いずれも古代や中世までその起源が遡ります。古くからの信仰の山として人々の祈りを集めた虚空蔵山を頂点に、かつて会田にかけての一帯には信仰の空間が広がっていたと推察され、殿村遺跡はその一角にあったということになります。一方、中世の殿村には、会田盆地周辺を治めていた会田氏の館があったと伝わっており、近辺に館跡が存在することも十分に考えられます。
四賀地区の殿村遺跡以外に見つかった遺跡
上宿遺跡
平成21年に、松本市会田で市道の建設に先立ち試掘調査を行なったところ、新しく発見された遺跡です。その土地の地名から「上宿(かみじゅく)遺跡」と名付けられました。
調査面積が130㎡ほどの比較的小規模な調査であったため出土遺物も少量で須恵器や青磁の欠片、宋銭など合計10数点が出土しました。これらの出土遺物から平安時代から中世にかけての遺跡であると考えられます。
遺構も確認できましたが、人が住んでいた住居址は確認されませんでした。また、銭貨も出土しており、中世の墓である可能性もうかがえます。
殿村遺跡と近い位置にあり、関係を考える必要があるかもしれませんが、不明な部分の多い遺跡です。
松本市内遺跡紹介㉘ 「弘法山古墳」
東日本最古級の前方後方墳 弘法山古墳
3世紀末の築造と推定される、全長66mの前方後方墳で、松本市を代表する古墳です。
弘法山古墳の発掘調査は昭和49(1974)年に行われました。それまでは、古墳の存在は知られていたものの、畑地になっていたことなどがあり、大半が破壊された古墳であると認識されていました。学校の運動場建設に先立って行われた発掘調査により、この古墳は単なる円墳ではなく“前方後円墳”ではないかと疑いが生じ、保存を前提として調査が継続されることになりました。この継続調査の結果、“前方後円墳”ではなく、“前方後方墳”であることが判明しました。調査当時では長野県唯一の前方後方墳であり、その後石室の調査も行われ、石室上から出土した多量の土器と完存していた副葬品のセットから長野県のみならず東日本最古の古墳であることが判明しました。
長野県では4世紀以降に善光寺平を中心に前方後円墳が築造されるようになりますが、3世紀の前方後方墳である弘法山古墳は、科野の国の情勢を知る貴重な存在です。
昭和51年に国史跡に登録され、同57年には史跡公園として整備され、今では桜の木々が植えられ、桜の名所として市民など多くの人に親しまれています。
弘法山古墳の埋葬施設と被葬者
古墳の後方部の中央、主軸とほぼ直交する位置に、長さ5.5m、幅1.32m、深さ93cmの竪穴式石室状の礫槨が見つかりました。河原石を用いたつくりで、天井石はありません。副葬品の出土状況から、被葬者は礫槨内のほぼ中央に安置されていたようです。
出土品などからは被葬者がどのような人物であったかわかっていませんが、出土した土器には東海地方の様式と共通する特徴がみられることから、東海地方とかかわりがあったことが推測されます。また、南松本駅周辺の出川西遺跡からも同様の特徴を持つ土器が多数出土していることから、弘法山古墳の築造にかかわる人々の集落ではないかと考えられています。
長野県宝指定の副葬品
○壷
弥生時代後期のパレス式と呼ばれる東海地方西部に特有の影響を受けた土器が礫槨の上に置かれていました。赤い着色と、口の形、櫛状の道具でつけられた文様が特徴です。
○手焙形土器
手を温める手焙に似た形をしている土器で、東海地方から中国地方にかけての弥生時代後期の遺跡で多く見つかります。
○鉄器類
剣、鏃などの武器や斧・ヤリガンナが出土しました。鏃や斧には木や布がわずかについていました。
○銅鏃
銅鏃はおもに4世紀の古墳から出土しています。先が丸く、実用的ではありません。呪術的な性格の強いものと考えられます。
○ガラス小玉
コバルトブルーと淡い緑色をしたガラス小玉は石室内の3ヵ所からまとまって出土しました。数や位置からガラス小玉は首飾りと腕飾りで、被葬者が身に着けていたと考えられます。
○銅鏡
半三角縁四獣文鏡という鏡です。「上方作竟自有□青□左白乕居右」の文字が刻まれ、上方(中国の官営工房)で作られて、日本にもたらされたことがわかります。
※ここでも紹介した出土遺物は考古博物館で常設展示しています。ぜひご来館ください。
弘法山古墳の再調査
松本市文化財課では弘法山古墳の再調査が令和元年から実施されています。この再調査では、古墳築造時の墳丘の規模などが調査され、前方部・後方部・裾部の発掘調査を経て当時の墳丘の規模が明らかになってきています。今後も継続した調査が行われていくことで、被葬者の謎を解く手がかりが見つかるかもしれません。
~弘法山古墳~
住所:松本市並柳2丁目1000番
松本ICから車で約20分
JR松本駅からタクシーで約10分
JR松本駅からバスで並柳団地線「弘法入口」まで約15分、下車徒歩約10分
駐車場あり(現在、発掘調査が行われており駐車スペースが縮小されています。)
松本市内遺跡紹介㉗ 「松本城二の丸御殿跡」
松本城は、本丸・二の丸・三の丸の3つの郭と、それぞれの郭を囲む内堀・外堀・総堀の3重の堀で構成される平城です。天正18(1590)年に石川数正が松本へ入封し、子の康長と二代にわたり、天守や太鼓門の築城や城下町の整備を行いました。後に松本へ入封した松平直政によって、月見櫓・辰巳附櫓が増築され現在の姿となりました。
二の丸は、内堀と外堀の間の土地で、現在は平面復元された二の丸御殿跡や太鼓門、旧松本市立博物館(古山寺御殿跡)がありますが、昔は松本中学校、博物館、博物館附属のロックガーデン、小動物園、児童遊園地、噴水のある公園などなど様々活用されてきた場所でもあります。
二の丸御殿とは
二の丸御殿は、文禄3(1594)年頃に竣工した松本城天守に続いて、本丸御殿とともに建てられたと考えられていますが、「河辺文書」の寛永10(1633)年の記事に「二之丸江御殿立・・・」とあり、二の丸御殿の建造に、城主松平直政が関わっていたとも考えられています。
二の丸御殿の敷地は約1,900坪(6,270㎡)、建坪は約600坪(1,980㎡)で、本丸御殿があったときは、副政庁として機能していました。享保12(1727)年に本丸御殿は失火により焼失し、江戸屋敷も火災にあったことも重なり、財政面から本丸御殿の再建が困難となり、二の丸御殿は政庁として使用されるようになりました。
明治維新を迎え、明治5(1872)年に二の丸御殿は筑摩県庁として使われていましたが、同9年6月に火災のため全焼してしまいました。この火災を機に筑摩県は長野県に合併され、二の丸御殿の跡地に長野地方裁判所松本支部庁舎が建てられます。昭和53(1978)年に裁判所松本支部庁舎が松本市歴史の里へ移築され、その翌年から発掘調査と公園整備が行われました。現在の二の丸御殿跡は「信濃国松本二の丸御殿之図」を元に復元が行われました。
二の丸跡発掘調査の成果
公園整備で実施された発掘調査では、筑摩県庁の火災とみられる焼け焦げた柱や畳、その下からは、陶磁器・瓦・魚貝類などの生活の様子を知る痕跡、御殿の礎石群が確認することができました。この礎石群をもとに復元された部屋割りは、戸田氏時代に描かれた「信濃国松本二の丸御殿之図」とほとんど同一であり、この古絵図がかなり忠実に描かれていたことが判明しました。
Pick up 遺構
○上台所跡:上台所は城主の食事を賄った場所で、土でできた二連の大かまど跡や五連のかまど跡、囲炉裏跡が発見され、板石が使われるなど丁寧なつくりであったことがわかりました。
○木管の埋樋:地蔵清水から二の丸御殿まで水が引かれ、溜め井戸から埋樋で台所などへ配水されていました。使用済みの水は割石などで組んだ水路で堀に捨てられていました。
Pick up遺物
○陶磁器類:多量の茶碗やこね鉢が出土しました。二の丸の西南部では肥前系・伊万里系の薄手の上物が多く、台所周辺では厚手粗製のものが多く見つかりました。こね鉢が多かったことからそばやうどんなどの粉食が多かったのかも知れません。
○骨:シカ・イノシシ・マダイ・ブリ・ハマグリ・サザエといった食事に関する遺物も出土しています。特に魚貝類は高級なものが多く、上級武士の食生活の様子をうかがい知ることができます。
コラムクイズ
松本城二の丸には現在のアルプス公園内にある小鳥と小動物の森の前身でもある小動物園が、昭和28年から昭和41年まで設置されていました。この動物園で人気だった動物はなんでしょう。
松本市内遺跡紹介㉖ 「寿地区の遺跡~石行遺跡~」
寿地区は松本市の南東部に位置し、縄文時代~平安時代にかけて多くの遺跡が見つかっています。
南北に細長い地区の北部~中部は弥生時代の遺跡が多く、弥生時代を代表する“百瀬式土器”が見つかった百瀬遺跡もその一つです。南部は、塩尻市域に突き出した赤木山には赤城山遺跡群と総称される十数か所の遺跡があり、縄文時代から中世にかけていたるところで集落が営まれていました。また、赤木山の北東に広がる緩斜面は、鉢伏山から流れる塩沢川によって形成された扇状地が広がり、縄文時代に集落が営まれ、平安時代から中世にかけても大きなムラがあったことが調査の結果わかりました。
石行遺跡
石行(いしご)遺跡は寿地区の南にある赤木山丘陵の中央やや北寄りの西斜面に位置する遺跡です。
縄文時代の土壙・ピット群・焼土面、古墳時代の竪穴住居址・土壙、平安時代のおよび以降の竪穴住居址、火葬墓、墓址といった遺構が発見され、縄文時代~平安時代以降にかけて集落があったとされます。また、出土遺物は、縄文時代晩期の土器・石器・土製品・石製品、古墳時代の土器、平安時代の土器・鉄器・銭貨が発見され、特に縄文時代晩期の土器は多量で、土器集中区(廃棄場とみられるもの含む)が7か所発見されました。縄文土器は整理用コンテナ100箱近くになるほど多量で、浮線網状文のものや体部に沈線による大柄の渦文のあるもの、貝殻条痕のもの、東海系胎土の特徴を持つものなど多種多様な発見となりました。また、土器に混じって石鏃250本、打製石斧500本余りも出土しています。
古墳時代の竪穴住居址から出土した土器は古墳時代前期のものとみられ、発掘当時の松本平ではこの時期の資料はわずかしかなく貴重な発見となりました。
特殊な装飾のある土偶
石行遺跡から出土した縄文時代晩期の土器・石器が多種多様で、松本平の縄文時代から弥生時代への変化を探る上で大いに注目される資料となります。中でも特殊な文様・装飾のある土偶を紹介します。
①刺突文(しとつもん)
画像の土偶の頭部は無数の穴で埋め尽くされています。刺突文と呼ばれる文様で、この土偶の他にも、胴部肩に刺突文のある土偶が出土しています。また、この遺跡だけではなく、内田地区のエリ穴遺跡でも刺突文のある土偶が出土しています。刺突文は縄文時代晩期の土偶に見られる文様です。
②黥面(げいめん)
顔(ほほや目の下)に沈線の装飾が施された土偶です。当時の人々は入れ墨や化粧などこのような装飾をしていたのでしょうか。儀式時の装いとも考えられています。
石行遺跡出土のこれらの文様と同じ文様が施された土偶が群馬県の「万木沢B遺跡」で出土しており、石行遺跡となんらかの関係があったのではないかと考えられます。遠く離れた地から伝わってきたのか何かしらの交流があったことがうかがえます。
コラムクイズ
群馬県東吾妻町で見つかった国の重要文化財に指定されている土偶はどれでしょう。
松本市内遺跡紹介㉕ 「松本城三の丸跡~第3次調査から~」
松本城は、本丸・二の丸・三の丸の3つの郭と、それぞれの郭を囲む内堀・外堀・総堀の3重の堀で構成される平城です。天正18(1590)年に石川数正が松本へ入封し、子の康長と二代にわたり、天守や太鼓門の築城や城下町の整備を行いました。後に松本へ入封した松平直政によって、月見櫓・辰巳附櫓が増築され現在の姿となりました。
三の丸は、家老をはじめとする役職についている家臣の屋敷が建ち並ぶエリアです。現在の大名町通りや市役所は三の丸内に位置しています。江戸時代には三の丸から内側は許可された人以外は自由に通行することができませんでしたが、明治3(1870)年になって、大手橋(現在の千歳橋)を通って三の丸(大名町)へ自由に入ることができるようになりました。
三の丸跡第3次調査(新博物館建設地)
第3次調査の調査地は、大名町通り西側の南端部に位置します。ここは今月開館する松本市立博物館が建っている場所です。この発掘調査は、新博物館建設にあたり既存の市営駐車場が解体されたことにより令和元年に行われました。
調査の結果、地表面から10~50cm程の深さで明治時代前半の生活面(第1面)が見つかり、またその下には江戸時代の生活面(第2面)や戦国時代末頃(16世紀末~17世紀初頭)の生活面(第3面)も確認できました。
~第1面 明治時代前半~
明治9(1876)年、この場所には「本願寺松本別院」が置かれ、本堂・庫裏・表門などが建てられました。しかし、明治21年に南深志の大半が焼失したとされる松本町最大の大火「極楽寺の大火」によって焼け落ちてしまいます。発掘調査では、大量の瓦や赤く焼けた土が見つかりました。本願寺松本別院はその後同じ場所に再建されたものの、昭和30(1955)年頃に蟻ケ崎へ移転しました。
~第2面 江戸時代~
この第2面からは、水道遺構や大きな池や畑の跡が見つかったほか、可愛らしい土人形やミニチュアの建物が出土しました。
冒頭や過去のコラムにも記載をしていますが、松本城三の丸には松本藩に勤めていた家臣らが居を構えていました。最近では、松本城南・西外堀復元や内環状北線の整備に伴い土居尻を中心に三の丸の発掘調査が進んでいます。その調査結果から、屋敷自体の痕跡や屋敷の境となる溝や塀の跡、水道遺構の発見により、絵図でしかわからなかった屋敷の実態、また陶磁器や箸、下駄といった出土遺物から当時の生活の様子を知ることができました。
令和5年10月7日、ついに開館!新松本市立博物館!
松本市立博物館は、松本尋常高等小学校(開智学校)内にできた『明治三十七、八年戦役紀念館』にはじまり、名称や所在地が変わりながらも現在まで多くの収蔵資料を保管し、松本の歴史や民俗を伝えてきました。ちなみに長野県内の登録第一号博物館で、県内の博物館施設を見ても開館年が古く歴史のある博物館です。
旧市立博物館は、過去から現代へと時代順に展開する「通史展示」の方法を用いて常設展示が構成されていましたが、新松本市立博物館では「テーマ展示」とし、「お城のあるまち」、「にぎわう商都」、「ともにある山」など8つのテーマを基に展示が構成されます。市民や市外から来る方にも松本という地を知ってもらえるような展示になっているので、ぜひ見学してみてください。
新博物館のホームページ
コラムクイズ
令和5年10月時点で松本まるごと博物館は全部で何施設あるでしょう。
松本市内遺跡紹介㉔ 「入山辺地区の遺跡~海岸寺遺跡~」
入山辺地区は、松本市街の東方に位置し、薄川の最上流域にあたります。薄川が扇状地形を作る付近から傾斜はあるものの平坦地が広がり、集落も山麓や段丘上に展開し、里山辺地区へつづきます。山の谷間に位置していることから狩猟・漁撈・植物採集といった面で恵まれていますが大きな遺跡は見つかっていません。
この谷間は諏訪地域や小県地域との交通路にもあたるため、古くから人々の往来があったことを示す小さな遺跡が点在しています。中世には中入城や桐原城など多くの山城が構築されています。
海岸寺遺跡
海岸寺遺跡は入山辺地区東桐原に位置する遺跡です。砂防堰堤事業が計画され、平成24(2012)年に松本市教育委員会による大規模な試掘調査が行われ、その後長野県埋蔵文化財センターにより発掘調査が行われました。
松本市によって行われた試掘調査は、市道の工事予定地と平坦地で行われ、古代から中世の人工的な池と考えられる遺構と、大規模な雛壇状の造成地が確認されました。造成地には石列があり、建物の基礎と推測できます。当時の寺院には、基礎に石列が用いられたことが知られていることから何らかの建物が存在していたと考えられます。出土遺物としては、陶磁器や土師器、須恵器、砥石が発見されました。
長野県埋蔵文化財センターの調査は平成25~27年にかけて行われ、縄文・弥生・古墳時代の遺物の出土や、平安時代中期頃の住居跡、中世の焚火跡や火葬施設跡なども発見されました。また、大きな特徴として階段状の平坦地が連続し、各平坦地に石垣が伴っている点が挙げられます。
旧海岸寺
旧海岸寺は、明治時代の廃仏毀釈により廃寺となりましたが、創始のころは二十四坊を持つ真言宗の大きな寺で、古くは海岸寺沢を遡った弘法平と呼ばれる場所にあったと伝えられています。創始の時期、開基・開山は明らかではありません。長野県宝に指定されている本尊の千手観音立像は現存し、旧寺地に造られた観音堂に安置されています。
海岸寺遺跡の発掘調査地北東の尾根上には旧海岸寺経塚があり、経筒・刀子・白磁の合子などが出土しています。こうした、本遺跡一帯の強い宗教色、沢と遺跡の名称、地域に残る伝承に加え、今回の調査成果により、観音堂から経塚に至る約1kmの谷が旧海岸寺に関わる宗教空間であったと推測されます。
さらに、海岸寺沢を隔てた対岸には、信濃守護小笠原氏に関わる戦国時代の山城・桐原城跡がありますが、この城は旧海岸寺の存在を背景にして成立した可能性があります。
桐原城については以下もご覧ください。
・小笠原氏城跡(松本市ホームページ)
・上條館長の山城案内 桐原城(旧山辺学校校舎)
コラムクイズ
山辺地域の特産となっている果物はなんでしょう。