松本市内遺跡紹介⑳ 「本郷地区の遺跡~大村遺跡~」

 本郷地区は、松本市の北東、女鳥羽川流域に位置します。昭和49(1974)年に松本市と合併しました。合併前の本郷村は9か村からなる大きな村だったため地区の範囲も広く、地区内には古代~中世にかけて多くの遺跡も確認されています。また、平安時代の遺物や廃寺跡が発見されていることから国府所在地として推定されている場所でもあります。
 地区内の浅間温泉は、江戸時代には城主も利用していたといわれ、明治期以後は温泉宿も増加し松本の奥座敷とも言われるようになりました。

大村遺跡

 大村遺跡は松本市野球場の南側に位置し、現在の行政区画では大字大村、浅間温泉にかけて存在する遺跡です。この辺りは縄文時代の遺跡があり、隣接する柳田遺跡は縄文中期~晩後期の著名な遺跡です。古墳も桜ヶ丘古墳をはじめ、妙義山古墳や御母家古墳が浅間温泉から里山辺御母家にかけての尾根上に確認されています。
 大村遺跡では過去6度の調査が行われていますが、調査以前から古瓦の出土があり、古代寺院の存在が指摘されていました。
 1・2次調査は昭和61~62(1987~1988)年に市営庭球場周辺で実施され、竪穴住居址3軒、掘立柱建物址4棟の検出、土器・陶磁器の他、古瓦・銙帯(かたい)といった特殊遺物が出土しました。3・4次調査は昭和63~平成元(1988~1989)年に実施され、竪穴住居址46軒、掘立柱建物址1棟と古瓦も多く出土と大きな成果となりました。5次調査は平成元年に実施され、市営野球場の改築に伴う調査でしたが、遺構密度は低く、大村遺跡の北限ではないかと推測される調査結果が得られました。
 6次調査は平成15(2003)年に実施され、竪穴住居址36軒、土坑62基、集石遺構15か所、石列5本、溝址4条、流路址5条や人為的に土を盛り上げたとされる台状地形2か所、焼土範囲9か所が検出されました。住居址は古墳時代から奈良・平安時代に属するものがみられます。遺物については、縄文時代から奈良・平安時代、中世にかけての遺物が出土しています。土師器や黒色土器、須恵器、灰釉陶器の他青磁や白磁といった輸入陶磁器、渥美産蓮弁文壷、古瀬戸産碗が出土しました。また、瓦の出土も多く、軒丸瓦は瓦面が確認できる破片が14点で四葉複弁蓮花文、六葉素弁蓮花文が確認できました。他に軒平瓦13点、隅平瓦3点、丸瓦353点、平瓦952点が出土しています。さらに、鴟尾の一部とみられる破片3点が出土しました。3点は大きさ、胎土、形状等から1対の鴟尾の破片と考えられます。全体の大きさは形状等から高さ90cm前後とみられます。

鴟尾の出土状況

鴟尾の出土状況

大村遺跡に古代寺院があったのか

 大村遺跡で注目されているのが、“信濃国府”と“大村廃寺”です。奈良時代末あるいは平安時代初期に小県郡から移転したとみられる信濃国府は、時期・位置ともに諸説ありますが、惣社、大村といった大村遺跡周辺はその推定地の一つになっています。(惣社周辺等で推定信濃国府確認調査が実施されましたが位置の特定をすることはできませんでした。)
 また、大村遺跡の南西の大輔原(たいほうばら)遺跡にて銙帯、円面硯が、北西の柳田遺跡で大型の掘立柱建物の検出が相次いでいたこと、調査以前から古瓦が出土することが知られていたこと、周囲の小字名との関係性から古代寺院が存在していたのではないかと考えられていましたが、過去に行われた発掘調査では寺院に関する有力な遺構は確認されませんでした。
 昭和10年代頃に、競馬場が廃止となり農地化する際に、地元の方が石製地蔵頭(個人蔵)や礎石ではないかとみられる石を発見しています。地名が、寺田等の小字名等として伝承されている点や台状地形の存在も勘案すると、中世以降にも仏教(寺院)関連の何らかの動きがあったのではないかと推測される遺跡です。

展示中の鴟尾

展示中の鴟尾

出土した瓦(一部)

出土した瓦(一部)

 

コラムクイズ

瓦葺屋根の大棟の両端につけられる飾りの一種でもある“鴟尾”。どのような意味合いで屋根につけられていたのでしょうか。

3つの中から選択してください

速報展「発掘された松本2022」(2月11日~2月26日)

2022年の松本市の発掘成果をいち早くみなさまに‐‐‐

松本市では毎年、市内各地の発掘調査を行っています。
速報展は1年間の発掘調査の成果をいち早く市民のみなさまにお披露目している展覧会です。
さて、2022年はどのような発掘成果になったのでしょうか。ぜひご覧ください。

 

会  期:令和5年2月11日(土)~2月26日(日)
会  場:松本市時計博物館(松本市中央1-21-15 36-0969)

       ※考古博物館ではないのでお間違えなく。
開館時間:午前9時~午後5時(入館は午後4時30分まで)
料  金:大人310円、小中学生150円
お問い合わせ:考古博物館(86-4710)

 

○関連事業「発掘された松本2022 報告会」
日 時:令和5年2月11日(土) 午後1時~午後4時
会 場:Мウイング6階ホール(松本市中央1-10)
料 金:無料
申込み:1月31日(火)午前9時から電話で文化財課埋蔵文化財担当(85-7064)まで
定 員:240人(先着)
内 容:2022年の発掘報告
(①出川南遺跡第29次 ②松本城三の丸跡土居尻第15・16次 ③史跡松本城南外堀第5次 ④史跡弘法山古墳第4次 ⑤南栗遺跡)
その他1:後日YouTubeでのオンライン配信もします。以下のURLからご覧ください。
解説動画はこちら → 松本市公式チャンネル(2月下旬より公開予定)
その他2:2月11日から報告会の資料の配布も行います。
ホームページ上でPDFで公開のほか、考古博物館・文化財課事務所(大手・中山)・速報展会場にて配布いたします。

報告会に関するお問合せ
松本市文化財課埋蔵文化財担当(85-7064)

松本市内遺跡紹介⑲ 「島立地区の遺跡~南栗遺跡~」

 島立地区は、松本市街地の西方、奈良井川の西に広がる平坦な地域で、中世における小笠原氏の同族が所領した居館を島の館といったことから島立の地名に生じたと伝わります。梓川の水を引いて早く開けた島立地区は、古代以来、重要な穀倉地帯でした。また、地区一帯は用水堰が網の目のように発達し、この地区を野麦街道・山形街道・仁科街道・和田道・千国道などと呼ばれた安曇や飛騨、小谷村へ通じる街道が通っていました。
 文化財も多く、「延喜式」に記載される沙田(いさごだ)神社がある他、旧村社の御乳神社、若宮八幡社、西生寺、正行寺、荒井城がある地区です。奈良井川西岸微高地上に展開する古代集落址として、南栗遺跡、北栗遺跡、三の宮遺跡などがあります。
 松本市立博物館の分館「松本市歴史の里」があるのも島立地区です。

南栗遺跡

 昭和58(1983)年にほ場整備に伴い発掘調査が行われ、奈良時代から中世にいたる住居址22軒や建物址、土抗、溝、墓址、集石などが発見されました。遺物は、土師器や須恵器、灰釉・緑釉陶器、中世陶器、鉄製品、佐波理鋺(銅鋺)などの青銅製品、銭が出土しています。遺構は見つかりませんでしたが、縄文時代の石器、弥生時代の土器片も出土しました。
 昭和60(1985)年に行われた調査では、住居址20軒、掘立柱建物址11棟、土坑130基、礎石1点などが見つかりました。土坑の中には3基の火葬墓もみられました。また、特徴的な遺物として、胴部に梵字らしきものが刻まれた石製の鉢が出土しています。
 古墳時代末期から奈良時代を中心とし、平安時代中期頃まで断続的に集落が営まれ、中世に至って墓域の中心地となったものと考えられる遺跡です。

石製の鉢

石製の鉢

松本市重要文化財の銅鋺

 銅鋺は昭和58年の調査終了間際に発見されました。家の貼り床の下、深さ15cmあまりの穴の中に口縁部を上に向けた状態で埋められていました。銅鋺の出土した家は大きさ約7.3m×7.5mの方形で、西壁にカマドがあり、煙道が続いています。この家にかかわる遺物は須恵器の坏・高坏・ハソウ・蓋坏、土師器の坏・甕などがあります。これらの遺物から奈良時代の家とみられます。
 銅鋺の口径は13.7cm、高さ5.5cmの丸底のやや深めの鋺です。器壁はろくろにより1.5mmあまりと薄く調整されているが、口縁部では3mmと厚くなり、内側に傾斜しています。器の外面には細い2本単位の沈線2組ずつが、口縁部・胴部・底部にめぐっています。
 銅鋺は仏具として使われる場合が多く、長野県内の出土品でこのような完形のものは珍しいです。

銅鋺

銅鋺

 

コラムクイズ

松本市歴史の里は「たてもの野外博物館」として建物を見てもらう博物館です。メインでもある「重要文化財 旧松本区裁判所庁舎」は移築されこの地に建っていますが、元々どこにあった建物でしょうか。

歴史の里

3つの中から選択してください

縄文カード(第2弾)考古博物館で配布しています!

昨年12月24日(土)より、縄文カード 第2弾の配布がスタートし、松本市立考古博物館でもカードを配布しています。
考古博物館では”エリちゃん”の愛称で親しまれる、エリ穴遺跡出土の人面付土版がカードになりました!

縄文カードは、長野県埋蔵文化財センターの企画によるもので、長野県内にある縄文時代の遺跡から出土した土器や石器といった遺物を紹介したものです。2021年の第1弾(配布終了)に続く第2弾では22種類のカードが作成され、実物を所蔵する県内の各展示施設で配布中です。また、カードを5枚集めると、特製「カードホルダー」(なくなり次第終了)と「埋文博士の学位証」をプレゼント。
ぜひこの機会に、「縄文カード」を集めながら各博物館をめぐってみませんか?

縄文カード、詳しくは下のPDFをご覧ください。
縄文カードチラシ(PDF)

※考古博物館は2月まで冬期休館のため土日祝日のみ開館しております。

考古博物館ニュース⑪ 学芸員のおすすめ資料「三間沢川左岸遺跡のお宝」

三間沢川左岸遺跡の出土品

 三間沢川左岸遺跡は、和田地区西原に広がる平安時代のムラの跡です。
 昭和30年代の開田工事でたくさんの土器が発見され、古代の遺跡であることがわかりました。その後昭和62・63年に工業団地の造成にあたり発掘調査が行われ、竪穴住居址130棟、掘立柱建物址10棟が検出されました。出土遺物は土師器や須恵器、灰釉陶器、緑釉陶器、銅印、銅鋺、八稜鏡、鉄器のほかに200点を超す墨書土器があります。出土品から9世紀中頃から10世紀後末頃までのほぼ150年にわたる、計画的に開発された荘園の一部であると考えられます。
 今号では、三間沢川左岸遺跡から出土した松本のお宝を紹介いたします。
※ 紹介している資料は常設展示室にて展示中です。

<銅印「長良私印」>

銅印「長良私印」

 銅で作られた古代の印鑑。松本市では初めての出土で、長野県内でも珍しい一品です。
 9世紀後半の住居址より単独出土しました。大きさは3.3cm×3.2cm、高さ2.8cm、重さ52.15g。印文は2行に「長良」「私印」と楷書風の文字で書かれ、印面には朱が残っていました。
 松本市重要文化財に指定されています。

<八稜鏡>

八稜鏡

 平安時代の鏡で、八角形をした銅鏡です。裏面の紋様は不鮮明ではありますが、瑞花双鳥文と推定されます。貴族しか持つことができなかったもので、三間沢川左岸遺跡ではこの1点が発見されました。

<海獣葡萄鏡片>

海獣葡萄鏡片

海獣葡萄鏡片

 欠損が著しく、詳細が不明ではありますが、裏面の紋様は海獣の身体と葡萄の房がみられます。

<緑釉陶器>

緑釉陶器

 緑色の釉薬をかけた緑釉陶器が237点出土し、大半を椀と皿が占めます。緑釉陶器は中国の磁器をまねて、愛知県や岐阜県で焼かれました。緑釉陶器はいったん都に献上され、その後地方の有力者に与えられたもので、三間沢川左岸遺跡の有力者は都の貴族とつながりがあったとされます。

<役人のベルト飾り>

役人のベルト飾り

 平安時代の役人は腰にベルトを締め、ベルトには四角や半円形の飾りがつけられていました。飾りには銀や銅、水晶、大理石などが使われ、材質の違いで身分を示したとされます。

松本市内遺跡紹介⑱ 「松本城三の丸跡~過去の調査から見る三の丸2~」

 前号に引き続き松本城三の丸跡の紹介です。今号は出土品から見る武家屋敷のくらしの様子を紹介いたします。

武家屋敷のくらし ~食~

 江戸時代になると、各々が自分のお膳で食事をとる習慣が普及し、一汁二菜・三菜が定着していきます。江戸時代中頃になると流通する食材も増え、食の環境が豊かになります。そうしたことで、新たな料理が生み出され、それまで見られなかった食膳具や調理具が登場するようになります。食膳具は、皿の種類が増え、深鉢や小碗が登場するようになり、調理具はすり鉢以外に捏ね鉢や練り鉢が増え、煮炊き用の内耳鍋に加え、行平鍋や柳川鍋が使われるようになりました。
 食の道具の大半は焼物で、松本では地理的に近い瀬戸・美濃の焼物の比率が高いのが特徴です。ただ、肥前産や京・信楽産の陶磁器も出土していることからある程度の流通があったことがわかります。特に、肥前産の染付磁器の大量生産が行われると、松本城の武家屋敷や町人地に大量に流通していたようです。

出土した碗(肥前、瀬戸、美濃産)

出土した碗(肥前、瀬戸、美濃産)

武家屋敷のくらし ~生活~

 江戸時代は武家のみならず庶民も含め、趣味を楽しむ人が増えました。出土品から趣味に興じていた様子を見ることができます。

① 遊び

江戸時代には、古代・中世の伝統の下に新たな文化や遊びが生まれました。土居尻の調査では羽子板や碁石・将棋の駒が出土しています。碁石や将棋の駒の出土はありますが、盤はまだ確認されていません。
また、草花の栽培・鑑賞、小鳥の飼育が盛んになり、狭い場所でも栽培できる植木鉢や小鳥の餌や水を入れる餌猪口(えじょく)も多数出土しています。餌猪口の底には人名の墨書があるものも見つかっています。

餌猪口

餌猪口(えじょく)

② 嗜み

・煙草(たばこ):武家屋敷や町屋の調査では、必ずといっていいほど煙管が出土します。煙草が日本に伝わったのは16世紀末ですが、江戸時代に急速に喫煙の習慣が広がりました。江戸時代後半の松本地方は煙草が特産品でした。生坂村のお寺の住職が長崎から煙草の種を持ち帰り、栽培したのが始まりとされ、生坂村を中心に栽培が広がり、名古屋や江戸へ多量に出荷されました。

善光寺道名所図会に見るあめ市での煙草店の幟

善光寺道名所図会に見るあめ市での煙草店の幟

あめ市の煙草店の幟(拡大)

あめ市の煙草店の幟(拡大)

・茶の湯・煎茶:安土桃山時代から江戸時代初期にかけて、抹茶を嗜む習慣が広く普及しました。三の丸の武家地だけでなく、城下町の町屋からも茶器が出土することから茶の湯を嗜む町人がいたことがうかがえます。三の丸の中・上級武家地からは、織部・志野・黄瀬戸製品などの桃山陶器の茶器が多数出土しています。しかし18世紀後半以降は中国から伝わった煎茶が流行するようになります。幕末から明治期にかけての遺構からは小形の煎茶碗や急須、涼炉が出土するようになります。

③ 化粧道具

紅や白粉、お歯黒、髪結いといった化粧の習慣が普及することにより、鬢(びん)付け油を入れる油壷や髪をすく櫛を鬢付け油に浸す容器の鬢水入れといった様々な化粧道具が出土しています。
江戸時代の紅は、高価なものでした。磁器製の紅猪口と呼ばれる容器に少量塗られて売られていました。紅猪口の内側に紅が塗られ、通常は伏せて置かれるため、外側に文様が施されるという特徴があります。

化粧道具

化粧道具

④ 信仰の道具

各家に仏壇を祀る習慣は、寺請制度の普及と先祖信仰に習って、17世紀後半に定着したものと考えられます。家々には仏壇が祀られ、合わせて神棚も設けられるようになります。神酒徳利や仏花瓶、香炉、仏飯具などが出土しています。

仏具

仏具

おわりに

 松本城三の丸跡の発掘調査が進むことで、松本城主に仕える上級武士の暮らしや絵図や文献の記載にはない新たな発見や裏取りが可能となります。6家7代(23人)と入れ替わった松本城主ですが、歴代城主にまつわる品々が出土することで、松本の歴史解明につながってくることでしょう。また、松本城外堀南・西外堀の復元や内環状北線の整備に伴う発掘調査が行われています。今後の調査結果をみなさんもぜひチェックしてみてください。
 来年秋にオープン予定の新博物館も三の丸跡に建設されています。松本の歴史文化を伝える施設としてどのような博物館になるのか楽しみですね。

 

コラムクイズ

三の丸(現在の松本市役所本庁舎)に開校した松本藩の藩校は何という名前でしょうか。

3つの中から選択してください

松本市内遺跡紹介⑱ 「松本城三の丸跡~過去の調査から見る三の丸~」

 松本城は、本丸・二の丸・三の丸の3つの郭と、それぞれの郭を囲む内堀・外堀・総堀の3重の堀で構成される平城です。天正18(1590)年に石川数正が松本へ入封し、子の康長と二代にわたり、天守や太鼓門の築城や城下町の整備を行いました。後に松本へ入封した松平直政によって、月見櫓・辰巳附櫓が増築され現在の姿となりました。
 三の丸は、家老をはじめとする役職についている家臣の屋敷が建ち並ぶエリアです。現在の大名町通りや市役所は三の丸内に位置しています。江戸時代には三の丸から内側は許可された人以外は自由に通行することができませんでしたが、明治3(1870)年になって、大手橋(現在の千歳橋)を通って三の丸(大名町)へ自由に入ることができるようになりました。

絵図で見る松本城の構成

絵図で見る松本城の構成(クリックで拡大します)

三の丸跡発掘の歴史

 松本城三の丸跡で初めての発掘調査が行われたのは、平成3(1991)年の土居尻での市営大手門駐車場建設に伴う調査でした。その頃すでに市街地では開発が進んでおり、近世の遺跡は残存していないのではと予想されていましたが、現地表から1.7mの間に4層に及ぶ近世の人為的な整地層が確認され、そこから多くの武家屋敷の遺構・遺物が発見されました。
 この調査により、松本城の近世遺跡の遺存状態が良好であることがわかり、その後の城下町全域を遺跡として指定していくきっかけにもなりました。以後、武家屋敷をはじめ、藩の役所である作事所、総堀土塁や大手門枡形などの調査が行われ、令和3(2021)年までに20回を越えます。調査の結果、それまでの絵図や文献にない事実の判明につながりました。
 また、近年は松本城南・西外堀復元及び内環状北線整備に伴う開発事業で発掘調査が急増し、新たな発見が相次いでいます。今後も発掘調査によって松本城や三の丸、武家屋敷に関する新しい発見が期待されます。

武家屋敷で見つかった遺構

 天保6(1835)年の絵図を見ると三の丸内に武家屋敷が88軒あります。屋敷がどのような様子かは史料ではほとんどわかりませんが、発掘調査を行うことで遺構や遺物から当時の生活の様子が見ることができます。

① 建物の痕跡

発掘調査によって建物の基礎や柱跡の様子を知ることができます。三の丸は低湿地帯を埋め立てて造成しているため、軟弱地盤でもしっかりと基礎を設置できるような工夫がされており、江戸時代初期から幕末までの基礎構造を比較すると、改良がされていることがわかります。
・16世紀末から17世紀前半では、掘立柱建物や礎石建物が発見されています。掘立柱建物は古代のものと同様で、地面に穴を掘って柱を立てます。柱が沈み込まないように穴の底面に石を敷き、柱がずれないよう穴の中に拳大のグリ石を多数入れる工夫が見られます。
・17世紀中頃以降には礎石建物が中心となり、地面に礎石を置くだけのものと礎石の下にグリ石を多量に入れて強固にしているものが見られます。
・18世紀後半以降は、布掘り礎石建物が見られます。これが基礎を設置する場所を溝状に掘り、砂やグリ石を入れ、その上に礎石を置き、根太を置いて建てる建物です。軟弱地盤を克服するため、布掘りの底面に捨て杭を打ち込む建物も見られます。
また、屋敷の境は溝や塀で区切られています。調査の結果、敷地境の溝には土留め用の杭が多数打たれ、杭の間に木板や枝板を互い違いに渡し、耐久力の高い構造にしています。水が流れた痕跡が見られたため、排水溝としての機能も兼ね備えていたと推測されます。

礎石建物(土居尻第1次調査)

礎石建物(土居尻第1次調査)

礎石に残る柱跡(土居尻第1次調査)

礎石に残る柱跡(土居尻第1次調査)

② ゴミを捨てた穴

江戸時代には、屋敷で出たゴミは各屋敷で処理をしていました。そのため、屋敷地の発掘調査では必ずといっていいほどゴミ穴が発見されます。ゴミ穴からは、陶磁器や漆器、箸、下駄などが出土しています。
特に箸の出土が多く、大半が白木の木製で、塗り箸はほとんど見られません。粗く削った粗雑な成形でほとんどが完形のまま捨てられていることから、儀礼や短期間での使用で捨てられたと考えられます。

③ 水道施設

三の丸の屋敷地には井戸や上水道施設が整備されていました。建物と同様に、江戸時代初期から幕末までの中で、井戸や水道施設はより効率的に使えるものに改良されてきたことがわかりました。江戸時代初期の井戸は、地下水脈まで掘り抜いているもので、水を配水するための施設はありません。この時期の井戸は、石組みと木組みの2種類がありますが、石組みはごくわずかで木組みがほとんどです。
17世紀前半から19世紀頃になると、円筒形の掘り方に桶型の井戸側を数段重ねたものが出現します。この井戸も地下水脈まで掘り抜いているもので、水道配管として竹管が付属するものも見られます。幕末期になると、自噴式の井戸が登場します。埋設した桶に穴をあけ、地下水脈まで竹管を設置し、水圧により竹管を通って自噴する仕組みになっています。桶の側面には水道管として竹管を付属させ、配水しています。
井戸等の水源から配水する水道施設には、竹の節を抜いた竹管と木製の木樋が見られます。

木樋(左)と自噴式井戸と竹管(右)

木樋(左)と自噴式井戸と竹管(右)

次号は、引き続き三の丸の調査から見る武家屋敷の生活の様子を紹介いたします。

 

コラムクイズ

享保10(1725)年に江戸城内の松の廊下で、「松本大変」と呼ばれる刃傷事件が起きます。この事件に関わった松本藩主は何家でしょう。

3つの中から選択してください

【会期延長】秋季企画展「“帰るモノたち”共に歩んだ考古資料展」

※12月25日(日)まで会期延長いたしました。この機会にぜひご覧ください。
※12月~2月まで平日休館となります。

 現在も開館へ向けて着々と準備が進められている新博物館ですが、市立博物館で保存されてきた考古資料の中には、他市町村から出土した遺物も多くあります。この度の新築移転に伴う資料整理において、以下6カ所の自治体にそれら資料が返却されることとなりました。そこで考古博物館では、各自治体へ帰郷する資料の一部を秋季企画展で展示します。
 市立博物館に保存されていた考古資料の多くは、市民の方々からの寄贈品です。高校の地歴会や個人の方など様々な経緯から市立博物館に収められることとなりましたが、その根底には公的機関で保管されることによって、散逸や遠方への流出、破損を防ぎ、出土品を考古資料や文化財として後世に残すべきものとする強い思いがあったのでしょう。市立博物館の歴史において、松本平の考古学を広く理解する一役を担うため共に歩んできたこれら資料が、郷里へ帰り新たな一歩を踏み出すこととなります。今までの感謝とエールを込めて、その姿を瞼に焼き付けるためぜひ考古博物館へご来館ください。

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会 場:松本市立考古博物館 第2展示室
会 期:令和4年9月3日(土)~11月27日(日)
延長後の会期:~12月25日(日)
※月曜休館(休日の場合は翌日休館)、12月は平日休館
料 金:通常観覧料(大人200円、中学生以下無料)
展示資料:
・塩尻市(双口土器などの縄文土器や石鏃類)
・山形村(縄文土器や磨製石斧など)
・安曇野市(錫杖頭、須恵器)
・南牧村(石器類)
・大町市(注口土器)
・信濃町(石器類)

 

 今年3年ぶりに開催される第42回あがたの森考古学ゼミナールでは、「-過去へ- 足跡をたどって」と題し企画展と連携した内容で、塩尻市立平出博物館の小松学館長(第1講)と松本市教育委員会文化財課の直井雅尚職員(第2講)の講演会を行います。地元研究者だからこそ語ることができる松本市と近隣市町村の発掘逸話をご聴講ください。
第42回あがたの森考古学ゼミナール案内はこちらをご覧ください。

松本市内遺跡紹介⑰ 「神林地区の遺跡~下神遺跡~」

 神林地区は、松本市の南部、奈良井川支流の鎖川流域に位置し、鎖川扇状地の最末端にあたる標高600m代の比較的平坦な土地です。地中の複雑な土層からは、地区内を流れる鎖川や三間沢川が氾濫と安定を繰り返していたことがうかがえます。また、現在でも、梓川から引水した和田堰と神林堰を水田用水に用いていることから、鎖川や三間沢川が水利に適していないことが分かります。
 神林地区では、昭和30年代に入り、開田事業や製瓦用粘土の採掘の際に縄文土器などが出土し、遺跡の存在が知られるようになりました。そして、昭和58(1983)年のほ場整備事業に伴う下神遺跡の発掘調査を皮切りに、昭和60(1985)年の長野自動車道建設、平成10(1998)年の新臨空工業団地造成などの事業により発掘調査が実施され、縄文時代から平安時代の遺跡が明らかになっています。

下神遺跡

 昭和58年に、ほ場整備事業に伴う緊急調査が行われ、総計24,000㎡の調査面積で竪穴住居跡67棟、掘立柱建物跡31棟などが確認され、奈良三彩の小壷や佐波理鋺、銙帯(かたい)など、有力者の所有物と思われる希少品が出土しました。
 昭和60年から長野県埋蔵文化財センターによって長野自動車道建設予定地約39,400㎡が調査され、竪穴住居跡138棟や掘立柱建物跡50棟のほか、溝や柵が確認されました。床面積155㎡の巨大住居や、集落を区画する中央に柵がある2重の溝など、通常の集落では見られない遺構が確認されました。出土遺物では、「草茂」と記された墨書土器などの文字資料が豊富に出土しました。
・奈良三彩の小壷
やきものの表面に緑色、黄色、褐色などの釉薬をかけて焼いた陶器です。中国の唐時代に作られたものを唐三彩といい、それに対し、奈良時代以降にこの技術を受けて日本で作成されたものを奈良三彩といいます。
・佐波理鋺
青銅製の椀の一部です。食卓で使用する器は、素焼きの土器が主流だったこの時代、青銅製の椀は、権力の象徴として有力者が所有したものだと考えられます。

奈良三彩小壺

奈良三彩小壺

下神遺跡の文字資料

 下神遺跡から「草茂」と書かれた土器が17点、画像の不明文字(※変換不可能文字)が書かれた土器234点出土しています。また「而」や不明文字の墨書土器も見つかっており多くの墨書土器が出土しています。
 また、8世紀代の住居から出土した須恵器坏の底には「□□小長谷部真□」と読める文字が書かれていました。小長谷部の同例は、正倉院の白布墨書名の中に記載があります。更に3点の漆紙文書の出土も確認されています。漆紙文書とは漆を入れた器の蓋として、反故を使用したもので、漆がしみ込んでいたため紙が残ったものです。3点のうち文字が確認できたのは1点で、「調丁」「交易物」といった文字が読み取れることから調の交易に関する文書とみることができます。

墨書土器:不明文字

墨書土器:不明文字

草茂の庄とは

 平安時代に記された『多武峰(とうのみね)略記』の887年に
“「筑摩郡蘇我郷字草茂庄一処、右大納言藤原冬緒卿、所奉施入也」(一部略)”
とあります。ここから、「草茂」とは、大納言藤原冬緒が所有した筑摩郡蘇我郷の荘園であり、887年に多武峰の妙楽寺に施入した「草茂庄」を示すものであるとみられます。
 かつては、草茂庄は塩尻市洗馬周辺ではないかと考えられていましたが、下神遺跡からこの墨書土器が出土したことで、草茂庄の所在が明らかになりました。
 この地を開発した有力者は、8世紀に信濃国府が上田から松本に移転したのを機に、国司との結びつきをもちながら、開発地やその周辺の未開地を荘園として藤原氏に寄進したと考えられ、その管理・経営の拠点となったのが、下神遺跡の集落であったと推測されます。
 9世紀初頭にかけ爆発的な発展をみせた下神遺跡は、9世紀後半に衰退します。それは、ちょうど藤原冬緒が草茂庄を妙楽寺に施入した時期と一致します。藤原氏の手を離れたことで開発が停滞したのか、または、自然災害等によるものなのか、その理由は明らかではありません。

墨書土器:「草茂」

墨書土器:「草茂」

松本市内遺跡紹介⑯ 「本郷地区の古墳~桜ヶ丘古墳~」

 本郷地区は、松本市の北東、女鳥羽川流域に位置します。昭和49年に松本市と合併しました。合併前の本郷村は9か村からなる大きな村だったため地区の範囲も広く、地区内には古代~中世にかけて多くの遺跡も確認されています。また、平安時代の遺物や廃寺跡が発見されていることから国府所在地が推定されている場所でもあります。
 地区内の浅間温泉は、江戸時代には城主も利用していたといわれ、明治期以後は温泉宿も増加し松本の奥座敷とも言われるようになりました。

桜ヶ丘古墳

 桜ヶ丘古墳は、浅間温泉街の南東に突き出た丘陵の突端に位置します。自然の浸蝕作用や人為による破壊が墳丘全面に及んでいましたが、昭和29年に女鳥羽中学校の生徒によって偶然発見されました。翌年に行われた学術調査では、古墳の上部は崩れていたものの、主室と副室の大小2つの石室が確認され、出土遺物から5世紀後半に築造された竪穴式石室の円墳であると推定されます。武具・武器を副葬品の主体とする桜ヶ丘古墳は典型的な中期古墳ですが、深志盆地を俯瞰する山頂に立地し、粘土で被覆された石室構造をもつことから古式古墳の残映もうかがえます。墳丘規模は、直径約30m、高さ約5mとみられ、石室は長さ2.5m、幅1.2m~1.3mと推定されます。

発見時の桜ヶ丘古墳

発見時の桜ヶ丘古墳

長野県宝指定の出土遺物

 本古墳の遺物は、金銅製天冠や玉類などの装身具類と、刀、剣、鉾、鏃、甲冑一式(三角板革綴衝角付冑・革綴頸甲・長方板革綴短甲)などの武器・武具類で、竪穴式石室に一括で副葬されていました。武具・武器が中心のことからこの地域の豪族であった被葬者が武人的な性格を兼ね備えていたことを示したと推察されます。
 出土遺物の中でも“天冠”は近畿地方を中心に全国で40例(※1)ほどしか発見されておらず、長野県では桜ヶ丘古墳でしか見つかっていない貴重なものです。この天冠は両面に金鍍金を施した厚さ約1ミリメートルの銅板を素材とし、鉢巻き状の冠帯(細帯式)に3本の立飾りがついています。冠帯は中央の立飾りと一体で、上辺は緩やかな山形を呈しています。中央の立飾りは3つに分岐する花形装飾があったと推定され、左右には鳥翼状立飾りがつきますが、右側の飾りは埋葬当時から欠損していたようです。
 古墳時代の冠は朝鮮半島に起源をもち、政治的な権威を示す象徴品と考えられています。桜ヶ丘古墳の天冠は、中央の花形装飾と鳥翼状立飾りが伽耶諸国(※2)の冠に類似することが指摘されており、被葬者が朝鮮半島と何らかの関係にあった可能性が示唆されていますが、詳しいことはわかっていません。
 金銅製天冠は昭和44年5月に長野県宝に指定され、その他の出土遺物63点は平成22年10月に一括で県宝に指定されました。出土品は考古博物館にて展示されています。
※1:平成10年刊行の「松本のたから」を参照。
※2:1世紀~6世紀中ごろにかけて朝鮮半島の中南東部に散在していた小国連盟。

天冠

天冠

 

コラムクイズ

桜ヶ丘古墳は中学生がとある研究の途中に発見されました。中学生はなんの研究をしていたでしょう。

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