発掘された松本2020➇ 「松本城北門跡確認調査」
松本城北門跡確認調査
本調査は、調査地を古地図と照らし合わせたところ、松本城北門跡付近であることがわかったため、北門の遺構が残存しているかを確認するために実施した調査です。
北門は、松本城三の丸北東隅に位置しており、現在ある南北の道をまたいであげられた櫓門で、お城の北側に住んでいた武士たちがお城に勤めに出かけていくときの通用門と考えられています。門の両脇には土塁が続き、進入や視界を防いでいました。門の内側には番所が設けられていました。
調査の結果、門跡にかかる遺構(石垣や礎石など)は見つかりませんでしたが、土塁と考えられる盛土を確認しました。盛土の下部は、地盤沈下しないように礫で補強されており、上部は土質の違う土を混ぜ突き固めた版築土が構築されていました。また、調査地北部で、土塁の裾部を確認することができました。
コラムクイズ
松平直政公が松本城主であった期間に、松本城北門よりも北側に整備された町は何という名でしょうか。(現在は旧町名として名が残っています。)
3つの中から選択してください
発掘された松本2020➆ 「県町遺跡第21次」
県町遺跡第21次調査
県町遺跡は、あがたの森公園周辺を中心とする、東西・南北ともに約700mという広い遺跡です。
今回の調査は、道路拡幅に伴う東西140mという細長い範囲で、遺跡内での遺構分布の広がり方の変化がわかりました。中心部に近い東側では密度が高く、狭いB地区(約200㎡)では、弥生時代から中世までの建物跡が8軒見つかっています。対して広い西側のA地区(約560㎡)では密度が低く、建物の跡はありませんでした。それでも弥生時代以降氾濫を繰り返してきた薄川の氾濫の跡を確認しました。
見つかった生活の跡は弥生時代から古墳時代、平安時代、中世と続いており、さらに現在に至るまで2000年近く人々の暮らしの営みが続いてきたことがわかりました。
コラムクイズ
日本における紀元前10世紀前後から紀元後3世紀中頃までの時代を弥生時代とよんでいます。
では、弥生時代の「弥生」とは何を意味しているでしょうか。
3つの中から選択してください
発掘された松本2020➅ 「県町遺跡第20次」
県町遺跡第20次調査
県町遺跡は、あがたの森公園周辺にひろがる弥生~平安時代を中心とした大規模な複合遺跡です。
第20次調査では、あがた運動公園西端~南端の駐車場内の発掘を行いました。調査範囲は幅2m弱ですが、第1面では古墳~平安時代の遺構・遺物を確認し、中には床面付近に遺物が集中的に出土した竪穴建物址がありました。第2面では弥生時代の遺物を含む黒色土や土坑などが見つかりました。
弥生時代の痕跡は調査範囲の南西部にのみ認められ、北側では砂礫層が深くまで堆積していることがわかりました。この砂礫層は薄川の氾濫によるものと考えられ、洪水で当時の地表面が削られたものと推測できます。砂礫層は調査区の広い範囲に認められ、規模の大小はあるものの、この一帯は度々氾濫の影響を受けていたと思われます。
調査地から望む景色(南西から)
中央奥に見えるのは県ヶ丘高校校舎
発掘された土層
洪水による砂礫の堆積や遺構の断面などが土層からわかります。
コラムクイズ
県町遺跡からは、古代の役所や蔵の建物に使用された錠前が出土しています。
画像のような形をしたこの錠前はある生き物に形が似ているため◯◯錠と呼ばれていますが、◯◯には次の内どれがあてはまるでしょう。
3つの中から選択してください

発掘された松本2020➄ 「松本城三の丸跡柳町第6次」
松本城三の丸跡柳町第6次調査
松本城三の丸内に置かれた武家地の一つ「柳町」は松本城北門の南側に位置し、北西部には北総堀土塁がかかります。19世紀には松本藩主戸田氏家臣の多湖氏が武家屋敷を構えていたことが古地図等で確認でき、明治維新後も、大正年間の火災による屋敷の焼失まで多湖氏の子孫が暮らしていました。また、中世の柳町は「信府統記」に記された「市辻・泥町」の推定地の一つとされており、市場が存在したと推測されています。
調査の成果として、北総堀土塁の一部とみられる層や武家屋敷に伴う庭園の池跡などが確認されました。また、中世にあたる面からは、宋銭・荷札木簡などが出土し、市場の痕跡が見られました。
コラムクイズ
安政5年(1858)8月と文久2年(1862)4月下旬ごろ、暴瀉病(ぼうしゃびょう)という感染症が松本で流行しました。この感染症にかかると激しい下痢と吐き気を伴い、脱水症状になって死に至ることもあったため、非常に恐れられました。
当時の人々を震え上がらせた暴瀉病と呼ばれる感染症、現在の呼ばれ方は次のうちどれでしょう。
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発掘された松本2020➃ 「松本城三の丸跡土居尻第12次」
松本城三の丸跡土居尻第12次調査
松本城三の丸跡土居尻第12次調査の調査地は、江戸時代には松本城三の丸内にあった武家屋敷地です。絵図によると何回も敷地割りの変更が行われ、大名町に属する時期もありました。江戸中期の絵図を見ると、調査地は「神谷清右衛門(西)」と「秋田藤太夫(東)」の武家屋敷の境付近と考えられます。また、道路を挟んだすぐ北側では、深志城時代の遺構が見つかっています。
調査の結果、屋敷の隅の土地に建物を配置したり、水道管を敷設したりと、どのように土地を利用していたかという資料が得られました。

絵図で見る調査地(12次)
コラムクイズ
水は人間が生活していく上で、欠くことのできない重要なものです。人々は様々な工夫を凝らして生活用水を得てきました。松本市の発掘調査では、戦国時代末から明治時代に至る様々な形態の井戸や水道施設が発見されています。
江戸時代の松本では井戸からの配水に2種類の管が使用されていました。一つは木を材料に使用した木樋(もくひ)ですが、もう一種類の管は何を材料に作られていたでしょう。
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発掘された松本2020➂ 「松本城三の丸跡土居尻第13次」
松本城三の丸跡土居尻第13次調査
松本城三の丸跡土居尻第13次調査では、内環状北線整備事業に伴い二の丸交差点内を発掘調査しました。この場所を江戸時代の絵図で確認すると、外堀の水を流す水路が描かれています。水路の西側は平成28年から30年に発掘調査を実施しており、今回の調査では、水路の東側部分を確認することができ、江戸時代から昭和前半までに連綿と使われ続けてきた様子がわかりました。

絵図で見る調査地
コラムクイズ
江戸時代、幕府や藩は米の生産量を確保するため、農民が町に流入するのを防ぎ、城下町の人口統制をはかっていたといわれます。
松本城下町でも町人の定住人口は江戸時代を通じて一定の数で推移していましたが、その数は次のうちどれでしょう。
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発掘された松本2020➁ 「堀の内遺跡第5次・兎川寺遺跡第2次」
堀の内遺跡第5次調査・兎川寺遺跡第2次調査
堀の内遺跡および兎川寺遺跡は、松本市東部の里山辺地区に位置し、遺跡周辺には薄川が形成する扇状地が広がります。今回の調査では扇状地扇央部近くの両遺跡に挟まれた地点を調査しました。
堀の内遺跡では、中世の生活面から、掘立柱建物の柱穴列、人為的に石を投げ込んだ集石土坑などを検出しました。平安時代の生活面では、磐座(いわくら)のような大石を据えた大形住居址や、鍛冶炉を伴う大形住居址などを確認しました。中世、平安時代どちらの遺構も調査区の南側に集中しており、時代が変わっても同様の場所で人々が生活していたことがわかります。
兎川寺遺跡では、11軒の住居址を確認しました。大半がトレンチの西半部に切り合う形で集中しており、同一の場所で複数回の住居の建て替えが行われたと思われます。共伴遺物から、堀の内5次と同じ平安時代ですが、年代は少し古いと考えられます。

住居の隅からみつかった大石
コラムクイズ
兎川寺遺跡は平安時代を主とする集落遺跡で、遺構が高密度であること、多量の墨書土器や転用硯などの特殊な遺物が出土していることから、文字の読み書きができる人物が存在する周辺集落の中心地であった可能性があります。今回の第2次発掘調査でも有力者がいた可能性を示す画像のような遺物が見つかりましたが、この遺物の名称は次のうちどれでしょう。
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発掘された松本2020➀ 概要と「史跡弘法山古墳第2次」
令和2年発掘調査の概要
松本市では、令和2年の1年間に8件7遺跡の発掘調査が行われました。発掘の成果として、史跡弘法山古墳の調査が約半世紀ぶりに行われた事・松本市東側の山辺地区で古代から中世にかけての集落跡が発見された事・信濃国府推定地の一つに挙げられる県町遺跡で古墳時代の集落跡が発見されたことなどがあります。今回から数回にわたり、令和2年発掘調査の速報をお届けします。
史跡弘法山古墳第2次発掘調査
史跡弘法山古墳の再整備に向け、今年度より開始した発掘調査では、まず後方部の2箇所にトレンチ(土の堆積の様子を観察するための溝)を設定し、調査を実施しました。
調査の結果、古墳の盛土、古墳の築造後に堆積した土、史跡公園として整備をした際に古墳を保護するために盛った土などを確認しました。古墳の盛土は固く締まっており、かなり土を丁寧に突き固めて造られたことが分かりました。また、盛土の中から弥生土器の破片や黒曜石が見つかったことから、弥生時代の人々の集落の跡から土を運び、古墳が築造された可能性が示唆されます。また、古墳の裾部(端の部分)の調査から、当時の地面を削って整形してから土を盛っていることも分かりました。今回の調査から、弘法山古墳は非常に丁寧に造っていることが分かってきました。

墳丘のトレンチ調査
コラムクイズ
弘法山古墳は昭和51年に史跡に指定され、昭和57年には史跡公園として整備されました。現在では桜の名所としても親しまれています。では、この弘法山古墳が初めて調査されたのはいつでしょう。
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常設展展示紹介⑱ 「古代の開発5」
古代の墓
奈良・平安時代の集落遺跡の調査は、松本市でも数多く行われています。しかし、明らかな墓の発見例はわずかです。奈良時代まで、松本市域の有力者たちは祖先の眠る古墳に葬られましたが、平安時代(9世紀末)には、彼らの墓がムラの中に造られるようになります。石上遺跡の木棺墓はムラの中心にあり、丈夫には石が積まれていました。ムラの中でも目立つものであったでしょう。
墓を造ることができたのは有力者たちだけで、多くの庶民は都と同様に、死後はムラの外に放置されたと想像されます。
開発を支えた人々の生活
奈良・平安時代に松本市域の開発に携わった人々は、竪穴式住居に暮らし、カマドで煮炊きをしていました。個人の食器で食事をとる習慣が広まったのがこの頃で、遺跡から杯の出土量が増加します。磁器をまねた灰釉陶器も9世紀には大量に生産され、日常雑器に仲間入りしました。
鉄の道具が普及しだすのもこの時代です。鎌や鋤・鋤先などの農工具や紡錘車が鉄で作られ、鉄滓(てっさい)も出土しています。また、鉄の道具を研ぐための砥石も出土しており、日常的に鉄の道具が使われていたことが伺えます。

奈良・平安時代の鉄器
コラムクイズ
奈良時代と平安時代は、あわせると400年以上続きました。日本国内でも様々なことがおこったように、世界でも様々なことがありました。奈良時代・平安時代にあった世界の出来事は次のうちどれでしょう。
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常設展展示紹介⑰ 「古代の開発4」
仏教の伝来と人々の願い
古墳時代後期に伝来した仏教は都の貴族に受け入れられた後、地方へも広まりました。松本市内の大村遺跡では大量の瓦と鴟尾(しび)の破片が出土し、寺院があった可能性が考えられます。
奈良・平安時代の集落遺跡からは仏像や仏具の銅鋺(どうわん)、瓦塔(がとう)、「卍」や「寺」と墨書された土器など、仏教に関連する遺物が見つかっています。一方で、人々の間には、土器に文字を書いて豊かな財産や吉祥を願うまじないもあったようです。
銅鋺(南栗遺跡)
墨書土器「卍」(小原遺跡)
コラムクイズ
奈良の東大寺の屋根の両端に取り付けられている、シャチホコに似た形の飾りを鴟尾(しび)といいます。鴟尾の「鴟」は鳥の名前を表していますが、それは次の内どれでしょう。
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