上條館長の山城案内 伊深城
伊深城 いぶかじょう(松本市岡田)
さて、今日は伊深城です。刈谷原峠(かりやはらとうげ)を越える善光寺街道、三才山峠(みさやまとうげ)への道、安曇野方面に抜ける道などが交差する交通の要所に作られています。伊深城は岡田親義(おかだちかよし)によって築城されたという伝承があるそうです。実際は後世でしょうが、この岡田親義、「以仁王(もちひとおう)の令旨」によって挙兵した木曽義仲(きそよしなか)軍の大将格として奮戦し、倶利伽羅峠(くりからとうげ)で戦死したそうです。
この土地は後庁(ごちょう)氏が支配していましたが、その後、赤沢氏に滅ぼされ、その後、小笠原氏の支城になっていきました。天文19年の武田氏が勝鬨(かちどき)をあげた「イヌイの城」の落城の際、林大城(はやしおおじょう)・深志城(ふかしじょう)・岡田城(おかだじょう)・桐原城(きりはらじょう)・山家城(やまべじょう)の五城が自落した中の岡田の城がここのことだと考えられます。きっと、その後に小笠原貞慶(おがさわらさだよし)によって、改修されていったと思われます。昭和42年2月松本市特別史跡に指定されました。
さて、道順ですが、岡田宿を越え、女鳥羽川(めとばがわ)沿いの道を北上し、洞(ほら)の信号機を左折します。
500m先を右折すると(写真えといっしょのところ)山すそにお宮が見えます。そこが若宮八幡宮です。そこを目指します。
また、信州大学の西横の田沢方面に抜ける143号線、岡田新道を北上すると六助池(ろくすけのいけ)の信号を右折します。
矢作(やはぎ)の信号を右折します。
200mほどで側道に入り
次の交差点を左折します。(若宮八幡社下)
すると急坂の向こうに若宮八幡宮が見えてきます。
鳥居の左手に大きな駐車場があります。石段を登ってもいいですし、右手に車道がありますので、そちらからでも大丈夫。車道の行き止まりが登り口です。
ここから九十九折の登山道が整備されています。見上げるとかなりの急坂です。
10回ぐらいの折れで道標が見えてきます。ここからが城内だと思われます。
まっすぐ進むと曲輪(くるわ)4になります。主郭(しゅかく)は左に曲がったところです。
曲輪4には登り土塁(のぼりどるい)らしきものがあります。きっと、いざという時、兵が出てきて追撃するものと思われます。
主郭への道を進むと笹が目立ってきますが、ここが段曲輪(だんくるわ)群だと思われます。笹を切り払うと見えてくるので整備していただけるとありがたい。
そこを抜けるとまっすぐな登城道(とじょうみち)が見えてきます。
しばらく行くと堀切(ほりきり)が見えてきます。小笠原城郭群(おがさわらじょうかくぐん)の特徴として長大な堀切があります。ここも堀切が集まり、麓まで続いています。ここを下っていくのも面白そうなので、おすすめします。
堀切を過ぎるといよいよ、城内です。まずは曲輪3.ここには石垣が少し残っています。
そして曲輪2と二段になった曲輪2‘が主郭の南と西を取り囲んでいます。きれいに削平されていています。桜の古木50本ほどが植えてあり、落ち着く場所です。
曲輪2’の北側から主郭に入っていきます。虎口(こぐち)がはっきりわかり、主郭は2段の構造です。奥には土塁が築かれています。
この主郭からは南側の市街地、木曽方面やアルプスを望みながら下の道も見ることができます。
また、曲輪4からは三才山へ抜けていく道もよくわかります。とてもいい場所に建てられたと感心します。
主郭周辺には石積みも見られます。
主郭を下りて西側の小曲輪から背後の堀切を見に行くことができます。宮坂本の東側の道は倒木もありはっきりしませんでした。
堀切から見た主郭は15mほど高さを感じます。
そこから背後に続く堀切はこれでもかというばかりに続きます。比較的緩斜面が続く北側からの侵入を恐れたものと思われます。小笠原の山城の特徴です。
帰りは曲輪4の横を通り、慶弘寺(けいこうじ)公園方面に下りていきました。よく整備されています。見上げれば急坂の斜面ですが、こちらからの方が楽に登れるかもしれません。慶弘寺公園もきれいに整備されています。
10日後、山頂の桜の様子も見たくて最登城。今回は慶弘寺公園より。
慶光寺公園は写真お:若宮八幡社下の交差点から20mほど東へ行った道祖神がある交差点を左折します。
ここから右折、左折をし、山手に向かうと公園が見えてきます。駐車場もあります。伊深館(いぶかやかた)はこちらの方面にあったので、こちらが大手道なのかもしれません。
そこに車を止めて登ります。やはり、急坂ですのでやや疲れますが、すぐに曲輪4に着きました。
帰りは堀切を下りようと歩を進めました。曲輪2‘の下に下りていくと、かなり深い堀切ケとコがあります。ここをすべるように下りました。もっと木々が茂ってくると難しいでしょうが、面白かったです。ちょうど、お宮の上におりてくることができます。
地元の方々の整備がよく見え、登りやすい城です。小笠原城跡群、北の砦です。ぜひご登城を。
上條館長の山城案内 犬甘城
犬甘城 いぬかいじょう(松本市蟻ケ崎城山)
さて、今日は犬甘城(いぬかいじょう)です。
ここは犬甘氏の要害城と考えられています。犬甘氏の居館は西側の島内にあったと思われます。のちに小笠原氏の配下となり、小笠原長時(おがさわらながとき)の時代に整備されたもののようです。埴原城(はいばらじょう)の時に述べた天文19年の武田氏が勝鬨(かちどき)をあげた「イヌイの城」はここのことだという説を支持します。ただ、城としての守りは東側が防ぎようのない土地なので、なんとも言えないのですが、西側の絶壁や塩尻、安曇野(あずみの)の監視には素晴らしいところです。深志城(ふかしじょう)、林城(はやしじょう)からもよく見えるので、敵の地に落ちたら慌ててしまうでしょう。
ただ、昔から思っていますが、仮にこの地に松本城を築城し、東側に城下町を造成していたら、姫路城のようなどこから見ても見える松本城になっていたんじゃないかなと思います。まあ、武田氏は善光寺街道、保福寺街道(ほふくじかいどう)ぞいに上杉や村上を目指していたので、その拠点としての深志城あたりが適当だったとは思いますが。
道順は城山公園を目指して進んでください。正麟寺(しょうりんじ)前の五差路を城山公園方面に進みます。
次の五差路をまっすぐに進みます。斜め右は遊歩道になります。
公園北側奥に駐車場もあります。バスも少ないですが、アルプス公園行きのバスで近くまでいくことはできます。
公園からどこからでも城跡巡りはできるので、今回は一番北の一の曲輪(くるわ)からいきます。
比高(ひこう)は一番高く、北側もかなりの崖になっているので、ここが本丸だと思われます。20m四方です。今は東屋もあります。
南側(二ノ曲輪)と東側(三ノ曲輪)にも曲輪跡があり、ここで守っていたものと考えられます。
南の曲輪下には深い堀切(ほりきり)があり、次の四ノ曲輪へと続きます。
その南にも堀、五ノ曲輪、堀と続き、ここは城跡だと気づかされます。ただ、東側の公園のゆるやかな空き地を見ているとそっち側から攻めてきたらどう守ろうか考えてしまいます。
一番南側の六ノ曲輪で終わりです。
六ノ曲輪には展望台があり、360度よく見えます。
北アルプスはもちろん、中央アルプス方面、松本城や山辺の谷もきれいにみられます。
城山公園には文学碑がたくさん建てられていますので、それをのんびり見て回るのもいいかなと思います。

いわさきちひろの碑
いわさきちひろの碑もあります。ちひろが疎開したのは母の実家である松本市新橋で、この城山公園によくスケッチにきていたそうです。
窪田空穂(くぼたうつぼ)の碑「鉦(かね)ならし 信濃の国ゆきゆかば ありしながらの 母見るらむか」もあります。ぜひ、ご覧ください。
江戸時代松本藩の管理下にありましたが、天保14年(1843)城主、戸田光庸(みつつね)が庶民の公園として開放し、明治8年に松本市最初の公園となりました。
城跡としては特筆するものはありませんが、小笠原の城郭群の一つとして、散策がてらに歩くのもいいかもしれません。桜の花も4月中旬頃、きれいに咲きます。松本のお花見スポットです。
上條館長の山城案内 埴原城
埴原城 はいばらじょう(松本市中山埴原北)
今回は埴原城(はいばらじょう)です。ここは山辺地区ではありませんが、昭和45年長野県指定等文化財史跡として認定された小笠原氏城跡群[山家城(やまべじょう)、桐原城(きりはらじょう)、埴原城]の一つです。埴原牧(はいばらまき)として馬の育成をしていた埴原氏が後に村井氏となり、村井城(むらいじょう)を築いたのですが、その詰城(つめじろ)として築かれたものだと推測されます。のちに小笠原氏の支配下となり、修築されていったと考えます。天文17年(1548)に塩尻峠(しおじりとうげ)の戦いに勝った武田晴信(たけだはるのぶ)が、村井城まで侵攻し、小笠原氏攻略のため、中山の和泉(いずみ)に陣を取ったという記述から、やはり、この時、埴原城も落ちたと考えるのが普通のような気がします。村井氏は塩尻峠の戦いで滅亡しますし、埴原城に敵兵がいながら和泉に陣を張るのは無謀です。ですから、天文19年(1550)の高白斉記(こうはくさいき)に書かれている「イヌイの城」は、戌亥(いぬい)という方角から考えても、犬甘城の方(イヌカイのカが抜けた記述と推測する考えからも)がふさわしいような気がします。
その点ははっきりしませんが、小笠原氏城跡群の重要な城であったことは間違いないと思います。北の山を越えれば、林大城(はやしおおじょう)、宮原城(みやはらじょう)などは上からの攻撃になり、ひとたまりもないので、小笠原貞慶(おがさわらさだよし)の時代に大規模な改修が行われ、大きな防御基地として考えたのではないかと思われます。いろいろな尾根筋に曲輪(くるわ)が数多くあり、規模が大きく、全部見て回るのはかなりの時間が必要です。
埴原城の全景です。右に見える赤い屋根が蓮華寺(れんげじ)になります。ここを目指して進みます。
松本市街地から中山地区に向かって車を進めてください。中山小学校南の信号から南東へ約1kmぐらいです。
蓮華寺という看板がありますので、ここを左折してください。
少し狭い道ですが、家が少ないので車でも大丈夫だと思われます。蓮華寺の舗装されていない場所に車を止めて、左側の方に歩いていきます。
すぐに3つの御屋敷跡の看板が立っています。
その先に「長野県史跡、小笠原氏城跡、埴原城」の看板。さあ始まりだ、という感じがしていいです。
そして、いつもの鳥獣除けフェンスがお出迎えです。 開けて入っていきましょう。
道はきちんと整備されています。ある程度、しっかりしているのは地元の方の整備や木材の切り出し用の通路、電力会社の運搬用道路も疑われますので、遺構かどうかは難しいところです。
登山道をゆっくり、登っていくと、左手には堀(ほり)らしき窪みが 現れます。
そして、大きな堀切(ほりきり)を右に曲がると、段郭(だんくるわ)群に入っていきます。
一つ一つはそんなに大きくないのですが、小笠原の山城らしく次から次へと続いていきます。林大城のように平郭(ひらくるわ)の間ではなく、裾を通っていく登山道です。もしかすると本来は、郭の間を通っていくのが本道だったのかもしれません。途中、南西尾根の方にも寄ってみましたが、こちらも堀切が深く、高さがあるので、なかなか攻めにくい縄張りだと思います。
そこを過ぎると、視界が開け、水場(みずば)に到着します。ここにはお姫様の化粧水という看板が立っています。林大城にもありました。実際はその目的で使うことはなかったでしょうが、今でも水が静かに流れているのが不思議でもあります。
この井戸を左手に進んでいくとたくさんの郭(くるわ)が現れます。
まず、帯郭(おびくるわ)です。主郭(しゅかく)の下をずっと巻いています。馬場(ばば)にでも使えそうです。
そして、かなりの石が転がっています。主郭から落ちてきたのでしょうか。その先にもいくつか郭があり、数段下がった所に二ノ郭(にのくるわ)があります。
宮坂本では3の郭となっていますが、地元の保存会の方々に従いましょう。二ノ郭から西側の主郭の裾を通る道を通ると西小屋の郭群が下方に見えます。
さて、主郭に登ります。先ほどの帯郭から斜め上に登る道がありますので、そちらに進んでください。
埴原城の主郭は面白い造りをしています。虎口(こぐち)は枡形(ますがた)に切られていたと推測され、そこから主郭に入れます。
入った所には大きな石がどんと据えてあります。これは「岩座(いわくら)」と考えられ、神の加護をとりいれたものと伝えられているものだそうです。
その東側に一段高くなった廓があります。こちらがやはり、本当の意味の主郭、作戦本部となると思われます。東側には大きな土塁(どるい)が築かれ、しっかりした作りです。
面白いのはその東側にもう一つ、郭があるということ。ここは詰郭(つめくるわ)と見た方がいいように思います。
ここにも東側に土塁があり、反対の堀切から見ると比高(ひこう)10mぐらいでしょうか、かなりの壁になります。
主郭南側には見どころの石積みがあります。
堀切から先には自然地形を利用し、加工を加えた面白い畝状竪堀(うねじょうたてぼり)や堀切がたくさんあります。「堀底状通路」と表示があります。
その先には水の手の石積みがあり、ここから先ほどの水場まで水を導いているのでしょうか。
帰りは井戸から南方面に埴原東地区の方へ広い道を通って下りてきました。西小屋方面、西尾根から古墳群、南西尾根、南尾根など郭や竪堀、堀切が数多くあります。こちらも探索してみたいと思いました。
主郭までは30分ほど、歩きやすく、面白い造りがみられる広大な山城です。ぜひ、挑戦してください。
※終了しました※令和3年度 第2回探古会を開催します
第2回探古会(古文書読解講座)
武家文書を読むⅤ -廣澤寺文書に触れて②-
※終了しました。ご応募ありがとうございました。※
「古文書を読んでみたい」「古文書に興味がある」という方、ふるってご参加ください
武家文書を読みながら古文書を読む講座5回目。
昨年度に引き続き、信濃守護小笠原氏が開基した廣澤寺の古文書を取り上げます。
初めての方でも受講できます。
- 日 時 令和4(2022)年3月6日(日) 午前9時~正午
令和4(2022)年2月27日(日)予定から変更となりました。
講師事情によるものでコロナ感染とは関係ありません。 - 内 容 武家文書を読むⅤ -廣澤寺文書に触れて②-
- 会 場 松本市教育文化センター3階 視聴覚ホール
- 定 員 40名(要予約・先着順)
- 料 金 500円(テキスト代として)
- 持ち物 筆記用具、飲み物(必要な方)
- 講 師 後藤芳孝氏/元松本城管理事務所研究専門員
- 申し込み 2月5日(土)9時から電話で
- 問合わせ 旧山辺学校校舎(℡ 0263-32-7602)
令和2年度の探古会のようす
上條館長の山城案内 霜降城
霜降城 しもふりじょう(松本市入山辺桐原)
今回は霜降城(しもふりじょう)です。ここは桐原氏の支城として築かれ、その後、小笠原の城郭群として整備されたのではないかと考えます。宮坂本の記載の中にもある「下振、上振、及び弘法山(宮原城)の物見跡」は桐原城(きりはらじょう)と、山家城(やまべじょう)をつなぐ重要な役割があったと思われます。最初はただの砦、狼煙台(のろしだい)程度の役割かなと思いましたが、登ってみると案外縄張りとしてはしっかりしているようにも感じました。
さて、道順ですが、
県道松本和田線を美ヶ原方面に向かいます。旧山辺学校校舎を過ぎるとJAがある交差点がありますので、ここを左折します。
しばらく行くと左に1軒家が建っていますので、そのT字路を右折します。
すぐに左折、右折を繰り返し、東へと登っていきます。
墓地前を右折し
桐原城海岸寺沢(かいがんじざわ)入り口に車を止めます。
現在、砂防ダムの工事が行われています。コンクリートの道を登っていきます。
敷地内には入れませんが、ゲート入り口の右側に鳥獣除けフェンスがありますので、そちらから入ります。
まっすぐ行くと工事現場ですので、工事終了までは遠慮してフェンス沿いに右側に進み、土手をよじ登っていくと砂防ダムの上の広い道に出ます。
その道を50mほど進むと道標がありますので、ここを登っていきます。道はしっかり整備されています。
地元の方が力を入れてくださると始めは考えていましたが、上までいって気が付きました。実は霜降城の上に中部電力の鉄塔が立っています。この作業路として整備された道だと考えると合点がいきます。
同じ道幅の道がずっと続いていますし、掘りの深いところもあります。人力では大変な仕事です。両側に石垣があちこちありますが、これも道を作るときの石を積んでいったと考えた方がいいようにも思います。当時の石垣ならばすごいのですが、作業道であるという確証もありません。
ただ、登りながらみていると溝がいたるところにあり、遺構かとも思いますし、雨水の流れた跡とも考えられ、これは難しいところです。
この場所でこの辺から城跡だろうと考えて、この溝を直登していきましたが、失敗でした。この写真の右側に進んでいけば、主郭(しゅかく)まで行けます。宮坂先生の直登図が私をいざなったので、もしかすると昔は道があったかもしれません。はいつくばって登っていきました。ここからが急斜面の入り口です。
そうこうするうちにようやく、本道?に戻ってきました。この道案内を見たときはほっとしました。
しばらく行くと深い堀切(ほりきり)と思われる場所があります。
ここが主郭の後ろでした。
主郭は27m×17mの平地です。南側には二郭(にのくるわ)が見えます。
背後もいろいろな畝(うね)状の筋が見えますが、登っていくと鉄塔と工事用のはっきりとした道が隣の山に向かっていますので、遺構なのか、あとからのものか、もしかすると、もともとあった遺構を壊してつくったものかとも疑われます。
それでもこの主郭は規模は小さいもののしっかりとした砦であったようにも思えました。
今は木が茂って見えませんが、ここからは対岸がよく見えたと思われます。桐原城から手を振れば見える距離ですし、東の山にもう一つ砦があれば、十分に山家城にもつながると思えます。地図上でいえば、中村の地区の北の山あたりが上振城(かみふりじょう)跡だと推測します。ただ、武石(たけし)古道との関係や古地図を見るともっと、北側に位置しており、番所との連絡を考えると北側の尾根にあったのかもしれません。文献には明確にでていないようなので難しいところです。
帰りはつづら折りのはっきりとした道をるんるんと下りてくると写真の場所(分岐点A)に着きました。
下りてきて、砂防ダム付近で雪をかぶる乗鞍岳(のりくらだけ)、大滝山(おおたきやま)が見えました。目の前には林大城(はやしおおじょう)です。山辺からの北アルプス最高です。
霧降城は迂回したルートを通れば、道に迷うことはありません。比高(ひこう)は高く、少し登りは息が切れます。枯れ葉が多くて大変なところはありますが、チャレンジしてみてください。
※終了しました※体験講座「しめ縄作り教室」
藁をなってお正月のしめ縄飾りを手作りします。
※終了しました。ご応募ありがとうございました。※
- 日 時:令和3年12月5日(日) 午前9時から12時
- 会 場:教育文化センター 206会議室
- 定 員:25名(小学校3年生以下は保護者同伴)要予約
- 料 金:無料
- 講 師:荒田直氏 ほか3名
- 持ち物:はさみ、飲み物(必要な方)マスクを持参してください。
- 申し込み・問い合わせ:旧山辺学校校舎(℡ 0263-32-7602)
コロナウィルス感染拡大防止対策を実施して開催します。

R2年度しめ縄教室のようす
上條館長の山城案内 宮原城
宮原城 みやはらじょう(松本市入山辺宮原)
さて、今日は宮原城(みやはらじょう)です。
山家城(やまべじょう)の対岸に位置しています。もともとは小笠原氏が諏訪系の神氏(後に山家氏を名乗る)を監視するために作った砦だと推測されますが、その後、播州姫路(ばんしゅうひめじ)より来住した折野薩摩守昌治(おりのさつまのかみまさはる)が山家氏と改名し、山家城を中心にこの地区を支配した際、改修したのではないでしょうか。そうすると小笠原城郭群として桐原城(きりはらじょう)、宮原城、山家城がつながるような気がします。山家氏は始めは小笠原氏に属していましたが、林大城(はやしおおじょう)の自落の後、村上氏を頼った小笠原氏とは袖を違え、武田氏に属し、川中島の戦いでも戦功があったとされています。この城は長野県町村誌には要害城跡(ようがいじょうせき)と記載されています。

薄川第一発電所
さて、道のりですが、薄川南の道をどんどん東に進むと舟付(ふなつけ)の集落があります。この入り口の左側に長野県最古の発電所である薄川一発電所(すすきがわだいいちはつでんしょ)があります。ぜひ、立ち寄ってみてください。
その道を進むと右手に宮原神社(みやはらじんじゃ)が見えてきます。
もうしばらく行くと、右側に宮原の道祖神(どうそじん)があります。
この道祖神は抱肩握手像(ほうけんあくしゅぞう)といい、二神が握手して立っている双体像(そうたいぞう)です。下の彫刻は全国的にも珍しい男女の合体像で、縁結びの神として広く信仰されています。ここも立ち寄ってほしい場所です。
ここをあと100mほど進むと、右手に「宮原城登山口」の看板が見えてきます。この入り口に車を止めさせてもらいます。
小さな川沿いに上るのですが、夏はかなりの草藪になってしまいます。雨が降ると沢が荒れるので要注意です。
少し行くと、いつもの鳥獣フェンスがみえてきます。この入り口は奥の金具を持ち上げる形式です。少し、コツがいりますが、開けて入ってください。
右側に大山神社(おおやまじんじゃ)という小さな社が見えてきます。道標は山手に向かう道を指示していますが、おすすめできません。むしろ、大山神社の上の方に登っていった方がいいと思います。
大山神社脇の道標に従って沢筋を登ると、次の道標が見えてきます。ここからも直登できるのですが、こちらの道はおすすめできません。
大山神社のすぐ上(西)の段には石積みがありますが、これは城域ではなく、昔の畑跡だと思われます。農業で使った廃材が散らばっています。
この畑沿いを歩いていくと、いよいよ右手の山が待ち構えています。正直、道はほとんどわかりませんが、地元の方が歩いたであろう道筋があちこちに見えます。ピンクのテープが巻いてある松がヒントかもしれません。
ジグザグにゆっくりと登っていくと次の道標に出会います。
少しずつ平場(ひらば)もあり、そこを過ぎると空堀(からぼり)の道標があります。いよいよ城郭の雰囲気がでてきました。
少し行くと三郭(さんのくるわ)、二郭(にのくるわ)に着きます。二郭には土塁(どるい)が築かれ、堀切(ほりきり)で主郭(しゅかく)とつながります。
主郭は16m×8mの広さです。
主郭の北側に積石(つみいし)が散乱しています。南側にもその姿は見られます。
東側には入り口である虎口(こぐち)跡らしきものもあります。
南側は水番城(すいばんじょう)と同じく、比高(ひこう)が高い山につながっていますので、山辺の城らしく四重の竪堀(たてぼり)がどんと作られています。(四重目は少し離れています。)
宮原城は少々、道が整備されていないので、登りにくいですが30分ほどで、小笠原城郭群の片鱗が見えますので、登ってみてください。
※終了しました※令和3(2021)年度 第1回探古会を開催します
第1回探古会(古文書読解講座)
江戸時代の村の事件簿・追いはぎが出た-筑摩郡百瀬陣屋文書を読む-
※終了しました。ご応募ありがとうございました。※
令和3(2021)年度第1回探古会(古文書読解講習会)を開催いたします。
「古文書を読んでみたい」、「古文書に興味がある」という方は奮ってご参加ください。
今回のテーマは「江戸時代の村の事件簿・追いはぎが出た」。文化14( 1817)年 、百瀬原(寿北辺り)の事件に村人はバタバタ?「筑摩郡百瀬陣屋」文書を読んで学びます。
- 日 時 令和3年11月23日(火・祝) 午前9時~正午
- 講座内容 「江戸時代の村の事件簿」-「筑摩郡百瀬陣屋文書」を読む-
- 会 場 松本市教育文化センター3階 視聴覚ホール
- 定 員 40名(要予約・先着順)
- 料 金 500円(テキスト代として)
- 持ち物 筆記用具、飲み物(必要な方)
- 講 師 青木教司氏/元松本城管理事務所研究専門員
現NHKカルチャー「ゆっくり、楽しい古文書」「古文書読解入門講座」講師 - 申し込み 11月6日(土)9時から
- 問合わせ 旧山辺学校校舎(℡ 32-7602)
上條館長の山城案内 山家城
山家城 やまべじょう(松本市入山辺中入)
今回は山家城(やまべじょう)です。
この山辺地区は古くは諏訪氏(神氏)が支配していました。その一族の山家氏が鎌倉時代に居城を築いたとされます。その後、小笠原氏に滅ばされたあと、16世紀に折野薩摩守昌治(おりのさつまのかみまさはる)(のちに山家氏を称す)が播州姫路(ばんしゅうひめじ)からこの地に来てこの地を治めました。その時、城の基礎が作られ、武田氏が改修、増強しながら使用されたと思われます。
さて、登城口は徳運寺(とくうんじ)の墓地の横からと徳運寺の東の道を上がった所と2か所ありますが、後者はかなり、道が荒れているので、徳運寺側から登ったほうがよさそうです。(R3,8月現在)
まず、徳運寺を目指します。旧山辺学校校舎から東へ約4.5km、車で7,8分で徳運寺入り口になります。この路地を左折します。
徳運寺になります。
城には門の左手の墓地の道をのぼっていきます。
墓地を抜けると草藪が。写真の位置を左側にのぼります。
8月は草ぼうぼうで、わかりにくかったです。横に生えているキウイのつるも邪魔をします。この道、左側の路肩が欠けていますので、十分注意して登ってください。きっと、秋祭りの時には整備されると思います。
フェンス沿いの道をのぼります。
鳥獣除けフェンス入り口に着きますので開けて入っていきましょう。
すぐに白山大権現(はくさんだいごんげん)の社が見えてきます。その上にも鳥居と稲荷社がありますので、そちらに向かってください。
そこからは山道を登っていくのですが、結構な坂ですので休み休みいきましょう。
途中の堀切(ほりきり)は深く長く、横堀(よこぼり)の役割をしています。
アップダウンしながら登っていくと、西尾根の曲輪(くるわ)に着きます。ここは55×18mの広いスペースです。
ここから深い横堀と高い土塁(どるい)を越えていきます。
するとすぐに中核となる主郭(しゅかく)地域に入ります。目の前に高くせりあがっている東尾根があるため、堅牢に見えます。ここを右に回り込み、南西から主郭に入ります。地元の方が道を作ってくださったので何とかなりますが、結構急なのぼりです。
主郭は27×19m。背後には高い土塁が。三方に土塁が築かれています。
小笠原の城の特徴の石積(いしづ)みが見られます。
特に東側はとてもきれいに残っています。ここが見所です。
主郭からは林大城(はやしおおじょう)、林小城(はやしこじょう)がよく見えます。
桐原城(きりはらじょう)にもありましたが、背後に五条の連続堀(れんぞくぼり)が見事に残っています。深さも高さも桐原城をはるかに凌いでいます。ここも見所です。
その奥に秋葉神社(あきばじんじゃ)があり、奥にも後郭(うしろくるわ)が見られ、竪堀(たてぼり)などが整備されています。こちらは武田氏によって増築されたのでしょう。
西尾根の曲輪からへ下る道が宮坂先生の縄張り図にもあったので、下りてみましたが、倒木がひどく、道もほとんどわかりません。ジグザグに沢に下りていきましたが、やはりこちらの道は整備されるのを待った方がいいみたいです。
ちなみに徳運寺から山手に向かうコンクリートの道をあがり、写真の位置を左に向かうと
入り口があります。
山家城は広大な城です。主郭まで30分ほど、全部の尾根を回るとそれから1時間は欲しいところです。 急坂も多いですが、ここ山辺では一番スケールの大きい山城かもしれません。ぜひ、トライしてみてください。