学芸員雑記 100年前の山辺学校

 山辺学校は明治19(1886)年4月に開校しました。当時は、校舎の建っている里山辺(さとやまべ)村と、その東側の入山辺(いりやまべ)村の子どもたちが通っていました。しかし、明治38(1905)年、入山辺尋常小学校が設立されると、里山辺村と入山辺村はそれぞれに小学校を持ち、別々に活動していました。

 100年前の大正12(1923)年は、「里山辺尋常高等小学校」と「入山辺尋常高等小学校」に分かれていました。

学校日誌を読む

大正12年度の入山辺、里山辺2校の学校日誌

大正12年度の入山辺、里山辺2校の学校日誌

 2校の学校日誌と、入山辺尋常高等小学校の宿直日誌が残っています。日誌から100年前の様子をうかがってみます。

 里山辺、入山辺とも、始業式は4/2(月)。翌4/3は当時の祭日「神武天皇祭」でお休み。
 4/6(金)と4/13(金)は前晩からの大雪で、とても寒かったとあります。
 気象庁の松本市観測データを確認してみます。最高気温は4/6は3.1℃、4/13は6.3℃。大雪前後は10℃を超えていましたし、4/2の始業式の日は19.2℃ありましたので、寒の戻りで間違いないようです。

農業休業と気候

 里山辺、入山辺は農業を生業にしている家が多くありました。農業休業も充実しています。
 まずは6月。里山辺では6/9(土)~6/25(月)「地久節」まで16日間。入山辺は6/6(水)~6/25(月)の20日間。

6月5日の入山辺小の日誌

6月5日の入山辺小の日誌

 このとき、入山辺では「より働くこと」「食物に注意して体をこわさないこと」といった注意が出されました。

 次の休みは7月から8月。現在の私たちでいう夏休み時期です。
 里山辺は7/25(水)~7/29(日)が農業休業、
 7/30(月)~8/19(日)3週間が暑中休業  合計26日間。
 入山辺は7/22(日)~7/25(水)が農繁休業、
 7/26(木)~8/19(日)の25日間が夏期休暇  合計29日間。

 2校とも8/20(月)が始業式でした。

 ちょっと驚いたのは、夏休み明けから9月上旬まで午前中授業であったこと。
 里山辺は9/8(土)まで、入山辺は9/5(水)まで午後の授業がありませんでした。里山辺の日誌には7:45始業、11:30終業の短縮授業であった旨が記されています。
 入山辺の8/20(月)始業式の日の日誌によると「まだ暑さが去らないため半日授業とする」だそうです。
 大正の頃は未だそんなに暑くなかったイメージがありましたが、気象庁のデータを確認すると、
松本市では8/19(日)まで最高気温は連日30℃超え、9/8(土)までも、ほぼ夏日以上でした。現在ほどではないにしろ、涼しいとは言えない気温でした。

 では秋や冬はどうだったでしょうか? 秋の農業休業という記録はありません。
 里山辺は12/29(土)~1/14(月)、17日間が冬季休業。
 入山辺は12/29(土)~1/5(土)が年末年始休業、1/6(日)~1/9(水)が冬季休業、合計12日間。
 ストーブの炊き始めは、里山辺は12/21(金)、入山辺は12/12(水)。
 12/21は暖かったようですが、12/12は最低気温-2.4℃、最高気温4.6℃。12月に入ってからは平均気温5℃以下が多く、冷え込んでいました。
 ちなみに昨年令和4(2022)年、旧山辺学校校舎では10/18(火)にストーブを設置し、11月の市内中学校課外授業の際には点けていました。大正の人は我慢強かったのでしょうか。

学校行事

 100年前も今と同じような行事がありました。
 4月下旬、春季遠足。1年生は片道2~3Kmのところ、6年生になると10Kmを超える場所に行っていました。

10月13日の入山辺小の運動会プログラム

10月13日の入山辺小の運動会プログラム

 10月には運動会と秋季遠足。

 入山辺は小学6年生が大町方面へ2泊3日で修学旅行へ出掛けています。
 里山辺では高等科2年生(今の中学2年生)が10/31(水)夜12:10~11/5(月)関西へ修学旅行をしています。

 また2校とも、高学年男子が山へ植林や薪拾いに行っています。植林教育は明治30(1897)年に始まった、山辺学校独自のカリキュラムでした。

今も昔もおなじ…

 9/28(金)、里山辺で注意事項が掲示されました。

9月28日の里山辺小の日誌

9月28日の里山辺小の日誌

1.裁縫室の掃除をなすこと
2.便所の蜘蛛の巣を払うこと
3.下駄や靴を必ず下駄棚の上に乗せ置くこと
4.スノコの上へ下足にて上がらぬこと
5.スノコの上はもちろん下の掃除をなすこと
6.体操場の大掃除をなすこと
児童によく注意すること。

 今も昔も、先生は同じことに悩むのです。

関東大震災

 100年前の9/1(土)関東大震災が起きました。入山辺の日誌によると、入山辺でも柱時計が止まるほどに揺れたようです。

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9/1(土) 正午地震あり、柱時計ために止まる。

9/3(月) 一昨日の地震は東京甚だしく、惨状を呈すとの報あり、然し昨日より東京新聞来らずために確報
     を得ず、死傷者145万、帝都の主なる建築物は大方倒潰又は燃焼す。

9/4(火) 東京、横浜方面の惨状、新紙に得る、 損害五十憶とのこと、20年30年後にあらざれば、復旧
     の見込みなしと。

9/5(水) 東京、横浜方面惨状に対して 生徒より義損金を募集することを発表す。

9/6(木) 昨日発表せし義損金の応募をきくに状況甚だ佳なり。今回の事変がいかに一般人士に浸入せし
     かを知る。

9/10(月) 第一時目に生徒に対して義損金の好成績なし(成し)こと及び今後の吾人の態度について語る
      午後義損金を〆切る
      総額116円20銭なり 内職員分25円なり
      かくも多額に上りしは今回の震災がいかに一般人々の心を刺激せしかを知る、
      美はしき極みなり。

 入山辺小学校だけで116円20銭、今の価値にして464,800円ほどの募金が集まりました。テレビが普及していなかった時代ですが、東京、横浜の被害が伝えられると、入山辺の人々も心を痛めた様子がうかがえます。

里山辺小の大正12年度卒業写真

里山辺小の大正12年度卒業写真

 

 

 2校とも3/22(土)が終業式、3/23(日)が卒業証書授与式でした。

学芸員雑記 戦争紙芝居上演

2021年「チョコレートと兵隊」を読む

2021年「チョコレートと兵隊」を読む

 旧山辺学校校舎では、夏に太平洋戦争期に発行された紙芝居を上演しています。読み手は市民学芸員の有志です。

令和5年の上演

 2023(令和5)年は8月5日(日)に実施しました。

 上演した紙芝居は、1942(昭和17)年発行の「空白の遺書」。昭和12年11月に日中戦争で戦死した爆撃機操縦士と残された妻の想いを、妻の談話形式で描いた紙芝居です。

ハガキの裏には何も書かれていなかった 『空白の遺書』

ハガキの裏は何も書かれていなかった『空白の遺書』

 遺品の中に、妻への宛先だけが書かれ、裏には何も書かれていなかったハガキがあったことから、「空白の遺書」と名が付いています。

『空白の遺書』を読む

『空白の遺書』を読む

 紙芝居のはじめには、
「未亡人が語る亡き夫への、優しい愛情と、
今後の決意とは、
はからずも同じ運命に立ち到った、
幾万の女性の 尊い 頼もしい気持ちを、
代弁したものとして、
第一線の将兵は もとより、
銃後国民に、力強き安堵を与えるものと
いわねばなりません。」
とあります。

 夫は「(子どもたち)を大切に育てられたし」と頼む以外は何も言い残していません。妻は取り乱す自分の心に鞭打って、3歳の息子に「どうか早く大きくなって、お国のため、お父さんのように、空を飛んでおくれ」と願います。
 実在する人の物語ですので、本心はわかりません。しかし現代日本の私たちは、戦死するかもしれない戦場へ、家族を送りだそうとは思いません。太平洋戦争当時は、大切な人を亡くした幾万の女性たちに対し、このような気持ちが尊いと教えたのでしょうか。「嫌だ!」と声を上げられなくするためのプロパガンダではないかと感じてしまいます。

上演する戦争紙芝居

 紙芝居は、松本市在住の方が所有する中から、戦争を扱った10点をお借りして上演しています。2021年には「チョコレートと兵隊」、2022年には「玉砕軍神部隊」を読みました。どちらも、現在の私たちが読むと「あれ?」と思うような、いつの間にか悲しみや怒りをねじ曲げられた感覚に陥る作品です。
 紙芝居を購入したのは、所有者のお父さんです。戦時中、実際に上演していたのかどうか、所有者はわからないそうです。しかし、当時は紙芝居は安価ではありませんでしたし、お父さんの弟(所有者の叔父)は戦死していますので、なにかしら後ろめたさや悲しみがあって紙芝居を購入していたのかもしれない、とのことでした。その気持ちがプロパガンダに利用されたのだとしたら、いたたまれません。

上演用に複製した紙芝居 全ページ読むことができる

上演用に複製した紙芝居 全ページ読むことができる

戦争関連を展示している第4室

戦争関連を展示している第4室

 現代の紙芝居を読む

  紙芝居上演の際には、戦後に発行された紙芝居も併せて上演しています。2021年には「三月十日のやくそく(2021年 童心社)」「おばあちゃんの人形(2013年 本の泉社)」、2022年には「あおよ、かえってこい(1985年 童心社)」、今年は「ちっちゃいこえ(2019年 童心社)」でした。

「原爆の図」を使って作られた「ちっちゃいこえ」を読む

「原爆の図」を使った「ちっちゃいこえ」を読む

  いずれも原爆や空襲を扱った作品で、それぞれの人の想いが描かれています。

 戦争の悲劇は被爆に限りませんが、理解し伝えていかなければならないテーマのひとつだと考えています。

 

 戦争に正しさはありません。しかし身近な人が死んだり、大切なものが壊されたりすると感情は大きく動かされ、平和なときには考えもしなかったことをしてしまうのかもしれません。戦時中の紙芝居を読んでプロパガンダを体験することで、自分の心は弱く、簡単に曲げられてしまう可能性があることを理解したいと思います。そして、戦争は駄目だという気持ちを、ずっと持ち続けていきたいです。

 

 

学芸員雑記 第5室「農家の暮らし」と昔の道具

第5室の囲炉裏端(いろりばた)

第5室の囲炉裏端(いろりばた)

 旧山辺学校校舎の中に、昔の農家を再現した展示室、第5室があります。松本市と周辺地域の小学生が、昔の生活を体験するのに活用しています。

コンセプト

 旧山辺学校校舎は、明治18(1885)年12月に建設され、翌4月から昭和3(1928)年3月まで学校として使用されました。その後、村役場、公民館、保育園として活用されましたが、昭和57(1982)年から2年をかけ、校舎への復原工事が行われ、地域の歴史民俗資料館となりました。

昭和57年に作成された「展示素案」より

昭和57年に作成された「展示素案」より

 このときの工事で新しく作られたのが、第5室の再現農家です。「山辺地域の代表的な住居の内外観及び生活様式を紹介することを目的として、民家の一室を再現するとともに、生活用品等を紹介」するというコンセプトで作られました。

 第5室

 この部屋は「明治20年頃の中農以下」と設定して作成されました。「中農」とは、中規模、中流の農家という意味です。

教室の一室を使って作られた再現農家

教室の一室を使って作られた再現農家

 教室の一室を使い、中に鴨居や敷居等を設けて玄関と土間、囲炉裏のある1室が再現されています。

古材を利用した梁や柱

古材を利用した梁や柱

 梁や柱は古材が使われました。

物入れと食器戸棚

物入れと食器戸棚

 生活様式を感じるために配置された小物は、山辺地域の方々から寄贈された実物です。

 部屋の中には物入れと食器戸棚がありますが、これも使われていたものを修理して設置しました。

 年輩の方々には郷愁を感じる、子どもたちにはタイムスリップした異空間のような、楽しい部屋となっています。

昔の道具を調べてみよう

 この部屋はインフラ、つまり電気、水道、ガスが通っていない時代のものです。当然、電波も飛んでいませんでした。この頃、人々はどうやって暮らしていたのでしょうか?

流しと水甕

流しと水甕

 例えば水。流し台のような物はありますが、蛇口がありません。変わりに大きな甕(かめ)と柄杓(ひしゃく)があります。人々は近くの井戸、川に行って水を汲み、それを甕に溜めておきました。必要なとき、甕から柄杓で水をすくって使いました。日常に水汲みという家事がありました。

釜土と羽釜

釜土と羽釜

 例えば炊飯。電気が無いので炊飯器もありません。米を入れた釜を釜土に設置し、下で薪を燃やして炊きました。

 釜土に安定して置けるように、でっぱりのある釜を使いましたが、これを羽釜(はがま)と呼びます。

 このように、昔の人は生活環境に合わせて道具を工夫して使っていました。現代では使われなくなった物も、材質を変えながら現代に引き継がれている道具もあります。

 それらを調べにいらっしゃいませんか?令和5年7月20日から8月31日まで、通常より道具を多く展示する「昔の道具調べ展」を実施します。道具に触れることができます。

クイズ!

羽釜の蓋と水甕の蓋 どちらが重い?

羽釜の蓋と水甕の蓋 どちらが重い?

 水甕と羽釜には似たような木の蓋があります。この蓋、どちらが重いでしょうか?

 答えは旧山辺学校校舎で持って確かめてみてください。

学芸員雑記 「昔の遊び道具作り教室」

 旧山辺学校校舎では毎年6月に「昔の遊び道具作り教室」を開催しています。
 この教室は平成11(1999)年、地域のお年寄りと子どもたちのふれ合いの場として始まりました。昔の遊び道具を作ることを通して、素材の加工、道具の使い方、遊び方などを子どもたちに伝えてきました。
 現在は地域を限定することなく、子どもだけでなく、興味のあるかた誰でも参加できるようにしています。

令和5(2023)年の教室

 令和5年の教室は6月18日(日)に開催しました。講師は荒田直氏、青柳秀人氏で、長野県シニア大学で「ものづくり講座」の講師をされていた方々です。

出来上がった飛行機をグランドで飛ばす

出来上がった飛行機をグランドで飛ばす

 教えていただくのは「割りばし飛行機」、その他牛乳パックで羽をつくった牛乳パックとんぼ、ストローに羽を付けたストロー飛行機です。どれも簡単に作れますが、バランスを考えながら作らないとうまく飛びません。参加された方々は、飛行機を紐で吊るして前後の重さのバランスをとるなどして、丁寧に作っていました。

割りばし飛行機

紙から翼の型を切り抜く

紙から翼の型を切り抜く

 割りばしは、つながっている部分の約2センチメートルを残し、割れている1本を切り取ります。切り取った短いほうは、輪ゴムを付けて飛行機を飛ばすパチンコに使います。

 紙から主翼、尾翼の型を切り抜き、それを長いほうの割りばしに糊で付けます。

 丸い箇所はハサミが入れにくく、ギザギザになってしまいます。小2の男子児童は、苦労したけど楽しかったそうです。

飛行機の中央を紐で吊るしてバランスをみる

飛行機の中央を紐で吊るしてバランスをみる

 先頭にクッションを付けます。飛行機の中央辺りを紐で吊るし、先頭から尾翼までの重さが釣り合っているか確認します。釣り合わなかったら、軽いほうに紙を糊付けして足します。

 少しの違いでバランスが崩れるので難しい工程。でも、ここを丁寧にやっておかないと、遊ぶときに楽しくありません。

その他の遊び道具

 牛流パックトンボは、牛乳パックで作る竹とんぼです。牛乳パックをスケートボード状に切り取ってプロペラにし、先端を半分に切ったストローに挿みこんでステープラーで留めます。両手の平でストローをすり合わせるようにして飛ばします。昔は竹が簡単に手に入りましたが、今ではかえって入手困難。昔の遊びを現代の素材で楽しみました。

ストロー飛行機を作る

ストロー飛行機を作る

 ストロー飛行機は、ストローの両端に丸めた紙を糊付けするだけ。こんな簡単な構造で、びっくりするほどよく飛びます。ただし、こちらも貼り付ける位置をきちんとしないと飛びません。

 最後に、参加者全員で隣接するグランドに出て、完成した飛行機を飛ばしました。きちんと作ってあっても微妙なバランスで飛びが悪かったりしました。飛ばしながら羽を調整したり、飛ばし方を工夫したりと、みなさん真剣に遊んでいました。

 この教室は毎年実施予定ですので、ぜひご参加ください。この教室を通して、工夫して道具を作っていた昔の人の知恵を知り、私たちなりに出来る無駄のない持続可能な物作りへのヒントとして欲しいです。そして周りの人たちに伝えたり、一緒に遊んでもらえたりしたら嬉しいです。

※終了しました※令和5年度 夏休みの自由研究にどうですか「昔の道具調べ」

 

電気、ガス、水道のなかった時代、人々は道具を工夫して作っていました。asagao2
どんな道具を使っていたのか、触れて確かめてみませんか?
そして現代の私たちのどんな道具に進化したのか、考えてみましょう。

 

  • 会期: 令和5年7月20日(木)~8月31日(木)
         午前9時~午後5時(入館は午後4時30分まで)
  • 会場: 旧山辺学校校舎 第5室、第10室
  • 料金: 通常観覧料(大人200円、小・中学生無料)
  • 問い合わせ:旧山辺学校校舎(TEL・FAX 0263-32-7602)

第5室「農家の暮らし」、第10室「山辺の文化財」の2室に昔の道具を展示しています。

昔の道具調べ2023

※終了しました※市民学芸員協働企画令和5年夏「戦争紙芝居」上演

※終了しました。ご参加ありがとうございました。※

太平洋戦争期、日本はプロパガンダによって戦争を美化していました。
紙芝居もプロパガンダに利用されたひとつです。
戦時中に発行された紙芝居を読んで、いかに感情を煽られ歪められていたのか体感してみませんか。 
戦争の悲惨さを、今もう一度考えます。

  • 日 時:令和5年8月5日(土)
         1回目  午前10時50分から11時50分
         2回目  午後12時45分から1時15分
  • 会 場:旧山辺学校校舎 第4(山辺に残る戦争の影)室
  • 料 金:通常観覧料(大人200円、中学生以下無料)
  • 演 者:市民学芸員
  • 内 容:
    (1) 空白の遺書 (昭和17(1942)年発行)
         戦死した少佐と、残された妻の姿を讃えた紙芝居です。
         大切な人を亡くした人々の感情を捻じ曲げています。
    (2) ちっちゃいこえ (令和元(2019)年発行)
         丸木 俊・丸木 位里 の「原爆の図」よりアーサー・ビナードが作成した紙芝居です。
         核の脅威を盾に戦争を繰り広げる現代、原爆の悲劇を思い出しましょう。
令和4年度の様子

令和4年度の様子

 

 

 

 

 

【チラシ】令和5年戦争紙芝居上演

学芸員雑記 須々岐水(すすきがわ)神社のお船祭り

 須々岐水神社には毎年5月5日に例大祭があります。氏子9町会から、意匠を凝らした華麗なお船が曳き出され、初夏の里山辺(さとやまべ)を賑わせます。

旧山辺学校校舎とお船

旧山辺学校校舎とお船

 ただし、7年目ごとに一度の御柱祭(おんばしらさい)がある年は、御柱祭が5月5日にありますので、一日早い5月4日に行います。令和5年の今年は卯年で御柱祭でしたので、お船祭りは5月4日でした。

お船祭りとは

 須々岐水神社の例大祭で、氏子9町会の保有しているお船が神社に集合します。里山辺の地は、薄川(すすぎがわ)を神様が船に乗って降りてきて拓いたと伝えられ、お船はこの伝説によるものとも、祖先が舟でこの地にやってきたことによるとも言われています。
 お船のサイズはそれぞれ違いますが、どれも木造二階建て、前後に幕を張って船の形に似せています。

明和4(1767)年造と伝わる荒町のお船

明和4(1767)年造と伝わる荒町のお船

  お船は前日に船倉から出されて組み建てられ、宵祭(よいまつり)が行われます。

お船に乗れるのは町会のお囃子を担当する方々ですが、宵祭では子どもたちが乗せてもらえるそうです。
 本祭の朝、各町会を出発して須々岐水神社へと集まります。お船は境内へ引き込まれ、お祓いを受けお囃子を奉納します。
 境内では他にも十二名の稚児(ちご)による舞や、幣束(へいそく)をつけた神馬(しんめ)が奉納されるなど神事があります。

 長野県宝のお船たち

 「里山辺お船祭のお船」9基は、歴史資料として昭和61(1986)年、長野県宝に指定されました。9基とも二階建て、車輪が2輪の山車(だし)です。それぞれ見事な彫刻や漆が施されいます。古くは江戸時代中期にはお船があったと伝承されています。お船の形状など詳細は「まつもとの文化財」をご参照ください。

薄町のお船

薄町のお船

湯の原のお船

湯の原のお船

新井のお船

新井のお船

西荒井のお船

西荒井のお船

兎川寺のお船

兎川寺のお船

お船の曳行(えいこう)

9町会のお船出発場所

9町会のお船出発場所

 朝、お船は町会を出発し、一度、旧山辺学校校舎の西の道路(県道297号兎川寺鎌田線)に集合します。神社の方角を頭に、南から薄町、湯の原、新井、下金井(しもがない)、荒町、西荒町、上金井(かみがない)、藤井、兎川寺(とせんじ)の順に並びます。

旧山辺学校校舎前を行く藤井のお船

 お船は車輪が2つのため、前後に激しく揺することができます。派手に曳行して来ると迫力満点。船が大海原を航海しているように見えます。ちなみに、酔い止めを飲んで乗る人も居るとか。
 集合したのち、先頭から順に鳥居前に移動します。県道は大きくて平なので、お船は大暴れして進んでいきます。

鳥居前へ向かう下金井のお船

 神社の鳥居の前でお祓いを受けたのち、境内へ引き込まれます。狭い鳥居の下を勢いよく進むと、見物客から大きな拍手が起こります。

鳥居を疾走する上金井のお船

 境内での神事が終わると、お船は一台ずつお祓いを受け、帰路につきます。

 お船は、お祭り以外の日は船倉に仕舞われており、見ることができません。豪華な彫り物をご覧になりたい方は、ぜひお船祭りに足を運んでみてください。

 

※終了しました※令和5年 体験講座「昔の遊び道具作り教室」

※終了しました。ご参加ありがとうございました。※

体験講座「昔の遊び道具作り教室」

「割りばし飛行機」など昔のおもちゃを手作りします。

身の回りの物を組み合わせることにより、簡単だけれど夢中になれる遊び道具が作れます。
子どもから大人まで楽しめる教室です。ふるってご参加ください。

  • 日 時:令和5年6月18日(日) 午前9時から12時
  • 会 場:教育文化センター 206会議室
  • 定 員:25名(小学校低学年以下は保護者同伴)要予約
  • 料 金:無料
  • 講 師:荒田直氏、青柳秀人氏
  • 持ち物:軍手、飲み物(必要な方)
  • 申込み:令和5年6月6日(火)午前9時から 電話で旧山辺学校校舎へ
  • 問合せ:旧山辺学校校舎(℡ 0263-32-7602)
令和4(2022)年度のようす

令和4(2022)年度のようす

学芸員雑記 山辺地域の御柱(おんばしら)祭

 山辺地域には、卯(う)年と酉(とり)年(7年目ごと)に御柱を立てる神社があります。 

山辺地域の御柱祭実施神社

山辺地域の御柱祭実施神社

 4月29日は入山辺(いりやまべ)の大和合(おおわごう)神社宮原神社橋倉諏訪神社、5月3日に里山辺の千鹿頭(ちかとう)社、5月5日には里山辺の須々岐水(すすきがわ)神社で御柱祭があり、5社とも松本市重要無形民俗文化財に指定されています。
 全国的には諏訪大社の御柱が有名ですが、諏訪は寅(とら)年と申(さる)年に行われ、松本の御柱の前年です。年は違いますが、山辺の5社も諏訪系の神社です。

須々岐水神社の御柱

須々岐水神社境内 御柱位置

須々岐水神社境内 御柱位置

 旧山辺学校校舎の近くには須々岐水神社があります。須々岐水神社には御柱が4本ありますが、7年目ごとに新調するのは一ノ御柱(いちのおんばしら)と二ノ御柱(にのおんばしら)の2本です。

 一ノ御柱は本殿から見て左側(拝殿の南)、二ノ御柱は右側(拝殿の北)に立てます。

 氏子は現在10地区あり、一ノ御柱は須々岐水神社のある薄町(すすきまち)が親郷(おやこ)となって全5地区、二ノ御柱は上金井(かみがない)が親郷となって全5地区が担当します。

御柱が立つまで

令和五年卯年の一ノ御柱の場合、次のように進みました。

須々岐水神社の注連縄

須々岐水神社の注連縄

  • 見立(みたて)       2022年8~11月 
      御柱となる木の選定。
  • 手締(てじめ)、節(せつ) 2022年11月 
      御柱に内定した木の所有者に結納の品などを納める。
      節を結納ともいう。
  • ねじそ、てこ棒作り     2022年12月 
      御柱を引く道具を作る。
  • 大鳥居注連縄(しめなわ)作り 2023年1月 
      薄町が7年目ごとに大鳥居の注連縄を作りかえる。
  • 綱縒(よ)り       2023年2月 
      御柱を引く綱を作る。
  • 采配(さいはい)とぼんでん作り  2023年2月 
      斧頭(ゆきがしら)や木遣(きや)り師が 持つ道具を作る。
一ノ御柱 根堀りの様子(写真提供:薄町)

一ノ御柱 根堀りの様子(写真提供:薄町)

  • 根堀り          2023年3月 
      御柱の根元を太くするため地面下の根から伐採する。
      根があらわになるまで土を掘る。
  • 山出し・中出し      2023年3月 
      御柱の伐採、山から里の御柱置場(おきば)へ
      木を引く。
  • 御柱を立てる       2023年5月 
置場の一ノ御柱

置場の一ノ御柱

 

置場のニノ御柱

置場のニノ御柱

 作業時期はそれぞれの神社ごとに違っており、御柱を前の年に切り出して置場に置いている神社もあります。

 御柱の高さ、道具の作り方や担当者など、作法は細かく決まっています。

三之御柱(さんのおんばしら)と四之御柱(よんのおんばしら)

 一ノ御柱・二ノ御柱は新しく切り出してきますが、三ノ御柱と四ノ御柱は前回の一ノ御柱・二ノ御柱のうら(先端のほう)が使われ、それぞれ一ノ御柱・二ノ御柱の東側(本殿の南と北)に立てなおされます。前回の三之御柱・四之御柱は根槌(ねづち)に使われます。根槌とは、御柱を立てる際に地面を打って固めるための大きな木槌です。

御柱立(おんばしらたて) (令和5年5月10日追記)

御柱置場と御柱祭ルート

御柱置場と御柱祭ルート

 須々岐水神社の御柱立は5月5日に行われました。置場から神社境内まで曳いて行き、木を建てます。表参道(一ノ御柱曳行ルート)、裏参道(二ノ御柱曳行ルート)とも沢山の見物客でにぎわいました。

 

一ノ御柱 置場での儀式

一ノ御柱 置場での儀式

 一ノ御柱は午前7時半に始まりました。御柱が置き場を出発する前に神事と儀式、木遣り師や御柱総代(そうだい)による木遣り唄の奉納があり、その後、神社へと木を曳いていく里引きが始まりました。

 午前中に神社の大鳥居前まで運びます。途中で3回、木遣り唄の奉納がありました。

一ノ御柱里引き 神社鳥居前

一ノ御柱里引き 神社鳥居前

一ノ御柱 鳥居前木遣り唄

一ノ御柱 鳥居前木遣り唄の奉納(御柱総代)

 

 

旧山辺学校校舎に残る神楽桟(第10室)

旧山辺学校校舎に残る神楽桟(第10室)

 午後は御柱建て位置まで境内を曳いたのち、曳き綱を外す儀式、曳いた木の化粧直しの儀式などした後、木を建てます。以前は「神楽桟(かぐらさん)」と呼ばれる人力のウインチで木を立てましたが、現在はクレーンを使います。

一ノ御柱(右)、二ノ御柱(左) 立つ

一ノ御柱(右)、二ノ御柱(左) 立つ

 一ノ御柱、二ノ御柱とも、午後4時過ぎに立ち上がりました。

 松本市では他にも、神田の千鹿頭(ちかとう)神社、島立(しまだち)の沙田(いさごだ)神社も同じ卯年と酉年に御柱を立てます。やはり松本市の重要無形民俗文化財に指定されています。

上條館長の山城案内 会田城(虚空蔵山城)

会田城(虚空蔵山城) 松本市会田

さて、今日は虚空蔵山城です。虚空蔵山は全国各地にあります。北から見ると台形の山でどこが虚空蔵なのかわかりません。長野道の松本方面から見ると鋭角のとがった山です。南から見ると形の良い山で「会田富士」とも呼ばれています。ここは四賀を支配していた会田氏の山城です。会田氏は小県の海野一族の一系、岩下氏がこの地に入って名乗った姓です。そのせいか四賀には岩下さんが結構います。会田氏は武田方についたので、武田氏滅亡後、小笠原貞慶に攻められ、滅亡してしまいます。貞慶は自分に逆らった相手を徹底的に攻めます。虚空蔵山城が落とされ、矢久(やきゅう)地区に覆盆子(いちご)城〈一期(いちご)の城ということで名付けられた山城〉を築いていたものの敗れ、小県へ逃れる際、五輪の尾根で自害したといわれています。この後、会田城は小笠原流の山城に改良されたとも考えられ、山辺の山城とも関連性は多少あるようにも思います。

 虚空蔵山城は峯の城だけではなく、多くの砦がまとまった城と考えるほうがいいように思うので、ここでは会田城(虚空蔵山城)として記述していきます。中ノ陣城、秋吉砦、現(うつつ)城、峯の城、少し広げて唐鳥屋城も含めて、会田城と呼んだほうがいいと思います。

唐鳥屋城

唐鳥屋城

中ノ陣址

中ノ陣址

秋吉城

秋吉城

四賀球場北 林道入口

四賀球場北 林道入口

虚空蔵山に上るのにはいくつかルートがあります。大手道は岩屋神社参道だと思います。このルートはまず、四賀球場北側から林道虚空蔵線を進みます。

岩屋神社へ 登り口

岩屋神社へ 登り口

オゲ水と鳥居のある場所から登っていきます。         

直登コースは厳しいので、尾根コースをつづら折れで登っていくのですが、かなり急です。4~50分かかります。

隆起地形

隆起地形

 この山はかつて褶曲してうまれた地形らしく、松本側は急峻で、筑北側からはゆるやかです。ですから、松本側から登るのは大変なのです。

中ノ陣城 登り口

中ノ陣城 登り口

また、林道のここから少し西寄りには中ノ陣城登り口があります。中ノ陣城、秋吉城にはすんなりいけますが、上の尾根に出るまでが完全岩山登山になります。直登に近いのでお勧めしません。

143号線から分岐交差点

143号線から分岐交差点

また、風越(かざこし)峠方面からも行けます。刈谷原トンネルを抜けて143号線を10分ほど道なりに進み、県道会田西条停車場線を上って行ってください。

有機センター入口

有機センター入口

風越峠側 登山口

風越峠側 登山口

いつもの柵

いつもの柵

 

 

 

 

 

 

 

四賀有機センターの看板を左折してしばらく行くと登山口に着きます。途中、有害獣防止柵があります。柵を開けて車で進みます。

地元の小中学生とはこちらから登りました。途中、ロープや鎖で登る場所もありますが、比較的登りやすいかなと思います。40分ほどでいけます。

花川原峠からも地図では道が見えてましたので、今回下ろうと思っていたのですが、標識もなく、まだ雪や氷もあったので断念しました。

そして、今回紹介するのが、岩井堂沢からの登城です。前回は下りだったのですが、道はよかったので今回挑戦と思いました。ただ、やや長い坂が続きますので、少々疲れます。休み休みで小1時間でしょうか。道は整っています。

矢室交差点

矢室交差点

 

 さて、道順ですが、岩屋神社から登る道とちょっと違う道を案内します。四賀球場からの道とも実は合流するのですが、こちらのほうが近道なのでご紹介します。

 

国道143号線を四賀方面に進んでください。刈谷原トンネルを超えて次の信号を左折します。

県道302との交差点

県道302との交差点

峯の城 遠景

峯の城 遠景

 

 

 

 

 

 

 

しばらく道なりですが、右手に四賀小、四賀支所、会田中が見えてきます。橋を越えた十字路をまっすぐ進んでください。

T字路

T字路

次のT字路を左折して進むと岩井堂の表示が出てきます。少し行った芭蕉碑の角を曲がると四賀球場に行けます。

うつつの清水

うつつの清水

水溜め石

水溜め石

 

 

 

 

 

 

 

 

駐車場らしき場所を進むと細い林道に入りますが、もう少し進むと右手に「うつつの清水」「水溜め石」が残っています。

登り口

登り口

少し進むと虚空蔵山登り口の標識が。この周辺に車は止めておきます。

止山

止山

四阿屋(あずまや)社

四阿屋(あずまや)社

 

 

 

 

 

 

 

少し登ると止め山の白いテープがあります。ここ四賀はマツタケの産地。松くい虫による被害も大きく、大変です。20分ほど進むと四阿屋社の石積みがあります。

中の陣案内

中の陣案内

 

この後もかなり息が切れます。中ノ陣城への手書き看板もどこが道なのかはよくわかりません。

平曲輪

平曲輪

 

ここから少しずつ平曲輪らしき形が見えてきます。ここらあたりから城内と言えそうです。

大岩

大岩

尾根道

尾根道

 

 

 

 

 

 

 

そして、岩場が現れます。大きな岩の横に道がついているので、登ってみるとすごい岩がありました。あの上に登ろうかなと思いましたが、やめておきました。
それから、細い尾根道の岩場を歩きます。バランスを崩すと大変なので気を付けて進んでください。

分岐点

分岐点

すると、岩屋神社との三叉路が。ここは道がはっきりしています。

主郭

主郭

霞がかった北アルプス

霞がかった北アルプス

 

 

 

 

 

 

 

堀切と小さな曲輪を超えると主郭につきます。以前は木が生い茂っていましたが、だいぶすっきりしました。春霞で残念な展望でしたが、北アルプスが見事です。筑北の村や長野道もよくみえました。

東堀切

東堀切

 

その後、東に向かうと堀切がいくつか続きます。3つ目の堀切から花川原峠の道があるとのことですが、これかなって程度です。雪も残るので止めておきました。

岩屋神社

岩屋神社

岩屋神社内

岩屋神社内

 

 

 

 

 

 

 

 

 

また、戻り、岩屋神社まで行きました。岩場の中に神社があるのはやはり、ここが信仰の山とされた証拠でしょう。磨崖仏と虚空蔵菩薩が祀られています。

岩井堂

岩井堂

千手観音坐像

千手観音坐像

摩崖仏

摩崖仏

四賀キャニオン砂岩層

四賀キャニオン砂岩層

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

岩井堂は善光寺街道沿いに建つ名所で旅人も多く訪れたはずです。観音山周辺石造物群として、松本市重要文化財に指定されています。お堂の脇の摩崖仏は大きく貴重なものです。お堂のなかの千手観音坐像も重要文化財です。

 四賀キャニオンの愛称もある砂岩層も見事です。かつてはこの辺りで石炭が産出し、馬車や索道を使い、各地に輸送していたという歴史もあるようです。

岩井堂方面からの道は帰りに枯葉に何度か足を取られましたが、道はしっかりしているのでいいトレッキングになるかなと思います。今日も平日にもかかわらず、10組とすれ違いました。少し装備をしっかりして楽しんでください。