令和4年度 バス見学会「山辺の里の道祖神・文化財めぐり」

ドットライン

応募 9月17日(土) 午前9時から受付開始します

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昔から、私たちは路傍の道祖神に祈りを捧げたり、お寺や神社へ深い信仰心をもち、時にはその境内に子どもたちを遊ばせてきました。
松本市山辺地区にはこれらの古くからの道祖神・文化財がたくさんあり、山辺の人びとの信仰に触れることができます。
本年度の「山辺の里の道祖神・文化財めぐり」を、下記のように計画しました。

  • 日 時  令和4(2022)年10月1日(土) 午前8時30分から午後4時
  • 集合場所 松本市教育文化センター南側入口付近(松本市里山辺2930-1)
  • 定 員  20名(先着順)
  • 講 師  出井東亜雄氏(山辺歴史研究会顧問)
  • 交通手段 松本市のマイクロバス利用
  • 持 ち 物  昼食、水筒、筆記用具、カメラ等 マスクを持参してください。
  • 受 講 料 500円(資料代・拝観料)
  • 申し込み 旧山辺学校校舎 ℡0263-32-7602
           9月17日(土)~ 午前9時から午後5時まで

皆様のご参加をお待ちしております。

前回(令和2年度)のようす

R2bustour2

R2bustour1

松本の二宮金次郎像

松本に残る二宮金次郎像

旧山辺学校校舎   開智小学校    源池小学校    筑摩小学校
旭町小学校    田川小学校    鎌田小学校    清水小学校
島立小学校    芝沢小学校    本郷小学校

はじめに

 日本全国の小学校には二宮金次郎(尊徳)像が多く残されています。旧山辺学校校舎にも像が現存しています。
 この金次郎像はもともと山辺学校にあったものではなく、寄贈されたものです。

 子どもの頃の記憶の中には学校にあったような気がしますし、何か所かの学校で金次郎さんを見た覚えもあるので、松本には金次郎像が今、どこに残っているのか、調査してみたいと考えました。
 ここでは、松本市の小学校に残っている金次郎像や市内に残る金次郎像についてまとめていきたいと思います。

 金次郎像がなぜ、設営されたかというと、働きながら読書に勤しむ金次郎の姿は当時の国政にとって、いい宣伝材料になったのではないかということです。金次郎の勤勉さと尊徳が後に藩の財政の立て直しに尽力し、私欲を越えて藩政や農民のために尽くした彼の業績や報徳精神、これこそ献身する気持ちや奉仕の心を国民に育成するためにも必要と考え、意図的に利用されたものと考えられます。
 また、石材業者や鋳物業者の後押しを受けて普及し、そして各地の篤志家にとっても学校へ寄付することが地域への恩返しや子どもたちへのメッセージを伝えられるとともに、実は自分自身の大きなステータスの向上にもつながったものと考えられます。
 太平洋戦争前は青銅製のものが多かったのですが、戦時中、金属供出によって取り壊され、のちに石像が建てられた場所もあるそうです。松本地方は石像が多かったので、残っているものと思われます。
 近年、下校途中の「ながら歩行」を気にして撤去されることもあるといいますが、それは何かおかしな話で、そんな理由でなくなっていってしまうのは惜しいように思います。

 学校の七不思議のひとつに「走る金次郎像」がありますが、きっと、たぶん、この金次郎像は走らないと思います。

(旧山辺学校校舎 館長 上條直利)

旧山辺学校校舎

旧山辺学校校舎 全身像

旧山辺学校校舎 全身

旧山辺学校校舎 顔拡大

旧山辺学校校舎 顔拡大

寄贈者  大蔦良七
寄贈年  昭和8年8月17日
設置場所 正面入り口
西向き
像    114cm
わらぞうり
薪の数  約 29本

 

 

 

 

これが旧山辺学校校舎に残る像です。

この像は昭和8年8月に開智小学校に寄贈されたものです。

寄贈されたのは 中町のつたや呉服店の大蔦良七氏です。松本市旧市内に残る金次郎像はほとんどが大蔦さんによる寄贈となります。当時の開智部の学校日誌には「二宮金次郎石像スヘツケ 右ハ仲町呉服店葛(蔦の間違いか?)屋主人、煙草ヲヤメ ソノ貯金ニテ購入セルモノヲ寄付サル」と書かれています。

 昭和38年に開智小と田町小が統合された際、新開智小には田町小の金次郎像が設置されました。開智小の金次郎像が廃棄されるのは悲しいと感じた大蔦さんは城山の自宅に持っていかれたそうです。その後、松本市から寄贈の申し入れがあり、設置場所として旧山辺学校が選ばれたようです。

開智小学校

開智小学校 全身像

開智小学校 全身

開智小学校 顔拡大

開智小学校 顔拡大

寄贈者   大蔦良七
寄贈年   昭和14年8月
設置場所  東前庭
西向き
わらじ
身長    121cm
薪の数   約 28本

田町小学校に設置されていたものと考えられます。  
S14.9.16 田町小学校除幕式

源池小学校

源池小学校 全身像

源池小学校全身

源池小学校 顔拡大

源池小学校 顔拡大

寄贈者 大蔦良七
寄贈年 昭和14年8月
設置場所 北門入り口昇降口前
東向き
127cm
わらじ
薪の数  約20本

昭和14年9月16日
除幕式 「午前11時15分より3年以上参列、全校に飴菓1づつ寄贈を受く」 学校日誌より

筑摩小学校

筑摩小学校 全身像

筑摩小学校 全身

筑摩小学校 顔拡大

筑摩小学校 顔拡大

寄贈者  大蔦良七
寄贈年  昭和14年9月
設置場所 校門横
東向き
身長  127cm
わらじ
薪の数 31本

昭和14年9月2日 除幕式

旭町小学校

旭町小学校 全身像

旭町小学校 全身

旭町小学校 顔拡大

旭町小学校 顔拡大

寄贈者  大蔦良七
寄贈年  昭和14年8月
設置場所 校庭東
西向き
身長   130cm
わらじ
薪の数  26本

昭和14年9月16日 除幕式

午前八時来賓、教育課長、大蔦氏 大蔦氏より児童へ記念に鉛筆一本宛寄贈(学校日誌より)

田川小学校

田川小学校 全身像

田川小学校 全身

田川小学校 顔拡大

田川小学校 顔拡大

寄贈者 大蔦良七
寄贈年 昭和14年8月
校舎東側元正門前か
南向き
身長 122cm
わらじ
薪の数  23本

昭和14年9月16日 除幕式

鎌田小学校

鎌田小学校 全身像

鎌田小学校 全身

鎌田小学校 顔拡大

鎌田小学校 顔拡大

設置者 大蔦良七
設置年 昭和14年9月
校庭北側
南向き
身長 122cm
わらじ
薪の数  28本

昭和14年9月16日 除幕式

清水小学校

清水小学校 全身像

清水小学校 全身

清水小学校 顔拡大

清水小学校 顔拡大

寄贈者  大蔦良七
寄贈年  昭和14年8月
設置場所 校庭北
南向き
123cm
わらじ
薪の数 約23本

島立小学校

島立小学校 全身像

島立小学校 全身

島立小学校 顔拡大

島立小学校 顔拡大

寄贈者 大蔦良七
寄贈年 昭和14年8月
設置場所 正面前庭
西向き
身長   125cm
わらじ
薪の数  約19本

昭和14年8月3日 建立
9月2日 除幕式

芝沢小学校

芝沢小学校 全身像

芝沢小学校 全身

芝沢小学校 顔拡大

芝沢小学校 顔拡大

寄贈者
寄贈年  昭和13年11月 
設置場所  昇降口前庭
西向き
わらじ
身長   85cm
薪の数  約12本

昭和13年11月5日 建立
昭和49年9月4日 新村部校より移設

本郷小学校

本郷小学校 全身像

本郷小学校 全身

本郷小学校 顔拡大

本郷小学校 顔拡大

寄贈者 
寄贈年 昭和11年2月
設置場所 正面入り口横庭
南向き
141cm
わらじ
薪の数 約30本

昭和11年2月4日 除幕式
昭和18年4月4日本郷の森に据え付け
平成14年  現在地に移設

 

松本市内の二宮金次郎像の情報がございましたら、当館まで、ご連絡いただければ幸いです。

   電話 0263-32-7602

   メール kyu-yamabe@city.matsumoto.lg.jp

   

上條館長の山城案内 稲倉城

稲倉(しなぐら)城(松本市稲倉)  

 さて、今日は稲倉(しなぐら)城です。かつて、松本平から善光寺や小県、江戸、東京に抜ける街道は、刈谷原(かりやはら)峠、馬飼(うまかい)峠そして稲倉峠を抜ける道が普通でした。現在も稲倉峠を越えて四賀に車で抜けることができます。三才山峠を越える道も含め、ここは交通の要所です。そんな場所に城は築かれてきました。この城は伊那から小笠原氏とともにやってきた赤沢氏が築城したといいます。赤沢氏は小笠原一門であり、伊豆赤沢を本拠地としていたのですが、早い時期に信濃に移り住み、小笠原氏と共に数々の戦に臨んでいます。最初、現在の本郷小学校あたりに屋敷を構え、伊深城の後庁氏を攻め北部地方を掌握しました。

昭和57年12月20日に松本市特別史跡に指定されました。

洞交差点

洞交差点

 

さて、道順ですが、伊深城と同じ洞の信号機を右折します。

 

 

 

 

 

国道より

国道より

 

すると100mほど先に左に入る道がありますので、そちらに進みます。

 

 

 

 

稲倉峠入口

稲倉峠入口

やや道は狭いですが、車で3,4分走ると左手に稲倉峠への道が見えてきます。

 

 

 

 

 

稲倉城主御屋敷跡

稲倉城主御屋敷跡

 

しばらくいくと右手に稲倉御屋敷跡の看板があります。

 

 

 

 

 

車用鳥獣除けフェンス

車用鳥獣除けフェンス

 

そこを過ぎるといつもの鳥獣除けフェンスにぶつかります。ここは車が通れるフェンスです。桐原城と一緒です。フェンスを開けて入っていきます。もちろん、きちんと閉めておいてください。

 

 

 

 

登城口

登城口

 

道なりに進むと看板があり、そこに広いスペースがあります。ここに止めて登城です。

 

 

 

 

最初に行ったときは左手の本郭を目指す道を行ったのですが、どこかで間違え、かなり山の上にでてしまい、あやうく熱中症になるところでした。宮坂本では東の竹の入の沢からが大手と提示されています。お屋敷が西にあるのにそんな大回りをするのかやや疑問ですが、西側から急斜面を登るよりいいのかもしれません。

三の郭へ

三の郭へ

 

 2回目は右手の三の郭を目指す道を登りました。登り口からすぐに右に折れます。

 

 

 

 

三の郭へ続くロープの道案内

三の郭へ続くロープの道案内

 

すると、すぐに杭とロープが見えてきます。これは助かります。かなりの急斜面ですが、ロープや鎖につかまりながらのぼると楽ちんです。また、道を間違えることが全くないので安心です。それでもフーフー言いながら三の郭につきました。

 郭の前には石積みがあり、簡単な門でもあったのでしょうか。何段かの平場と堀らしきものがあり、やや狭い三の郭です。大手道だと推測される竹の入の沢からの道はここに続いていると思われます。 

三の郭虎口

三の郭虎口

三の郭

三の郭

 

 

 

 

 

 

 

ここから二の郭へ続く道がこの城の見どころ、かなりの段差があり、今は鎖が垂らされています。二の郭がこんなに低くなっているのはあまり見かけない特徴的なつくりといえます。

堀底から見た三の郭への鎖

堀底から見た三の郭への鎖

三の郭空堀

三の郭空堀

 

 

 

 

 

 

 

二の郭

二の郭

二の郭東端

二の郭東端

松本市街地方面

松本市街地方面

 

 

 

 

 

 

 二の郭は平たんな部分が多く、西側、峠道方面にいくつもの平曲輪が築かれています。兵はかなりの数、駐屯できたと思われます。ここが最初の主郭だったのかもしれません。

二の郭の東端の曲輪からは松本平や三才山峠への道がよく見えます。

大空堀標柱

大空堀標柱

 

この二の郭と一の郭の間にも深い堀が築かれています。大空堀と呼ばれていたのでしょうか、標柱が朽ちて倒れていました。

一の郭も広いスペースがあります。ここは後郭のようにも思えます。後からできた居住スペース的なものがあったのかもしれません。

主郭

                   主郭       

主郭への道

主郭への道

 

一の郭には東と西に下っていく道らしきものがみえます。今回は西の峠道、駐車場方面に下りていきます。途中までは道はあるのですが、消えてしまいます。写真にある矢印が登り口です。そこを目指していきましょう。少し薄暗い杉木立の中に入ったら、右手を見ながら進んでみてください。

 

 

水の手?

水の手?

 

沢を下りてくると、もしかするとここが水の手?という窪みもありました。

 

 

 

 

こちらの道は、冬には上から続く竪堀跡が見えるかもしれないのですが、道らしき道はよくわかりません。緑がなくなるころには何とか進めるかもしれませんが、本郭への登りはお勧めできません・・。

 

 

稲倉城は三の郭への登城道が整備されていますので、そちらから登ってみるといいと思います。30分かかりません。三の郭が高く築かれている特徴を持ち、鎖で降りることができるのは探検のようで楽しいと思いますよ。

※終了しました※市民学芸員協働企画令和4年夏「戦争紙芝居」上演

※終了しました。ご参加ありがとうございました。※

太平洋戦争期、日本はプロパガンダによって戦争を美化していました。
紙芝居もプロパガンダに利用されたひとつです。
戦時中に発行された紙芝居を読んで、いかに感情を煽られ歪められていたのか体感してみませんか。 
戦争の悲惨さを、今もう一度考えます。

  • 日 時:令和4年8月6日(土)
         1回目  午前10時20分から10時50分
         2回目  午後12時30分から1時
  • 会 場:旧山辺学校校舎 第4(山辺に残る戦争の影)室
  • 料 金:通常観覧料(大人200円、中学生以下無料)
  • 演 者:市民学芸員
  • 内 容:
    (1) 玉砕軍神部隊 (昭和18(1943)年発行)
         玉砕して戦死した部隊を讃えています。裏にある彼らの悲しみを想像してください。
    (2) あおよ、かえってこい (昭和60(1985)年発行)
         子どもを守って死んだ馬のお話です。
         市民学芸員は軍馬として徴発された馬について勉強し、無念さと悲しみを学びました。
         戦争では動物も殺されてしまうことを思いながら読みます。

  コロナウィルス感染拡大防止対策を実施して開催します。

令和3年の紙芝居の様子

令和3年の紙芝居の様子

※終了しました※令和4年度 夏休みの自由研究にどうですか「昔の道具調べ」

 

電気、ガス、水道のなかった時代、人々は道具を工夫して作っていました。asagao2
どんな道具を使っていたのか、触れて確かめてみませんか?
そして現代の私たちのどんな道具に進化したのか、考えてみましょう。

 

  • 会期: 令和4年7月23日(土)~8月31日(水)
         午前9時~午後5時(入館は午後4時30分まで)
  • 会場: 旧山辺学校校舎 第5室、第10室
  • 料金: 通常観覧料(大人200円、小・中学生無料)
  • 問い合わせ:旧山辺学校校舎(TEL・FAX 0263-32-7602)

第5室「農家の暮らし」、第10室「山辺の文化財」の2室に昔の道具を展示しています。

昔の道具調べ2022

上條館長の山城案内 平瀬城

平瀬城 ひらせじょう(松本市島内下平瀬)

 さて、今日は平瀬城です。犬甘氏の一族の平瀬氏が築いたといわれています。のちに小笠原氏の配下となります。天文19年の武田晴信の小笠原氏攻めにおいて、小笠原の属城5城が自落した際、小笠原長時は平瀬氏を頼り、平瀬城にいったん落ちのびますが、やがて、坂城の村上氏を頼って逃げていきます、ところが、武田氏の「戸石崩れ」に乗じて、村上氏とともに再度平瀬城に戻ります。しかし、武田氏が小県に侵攻するという噂が流れ、村上氏は戻っていってしまいます。武田氏は府中攻めを再び行い、長時は中塔城に逃げます。武田氏は天文20年、平瀬城を攻撃し、平瀬氏以下204名が討ち死にしました。その後、武田氏が改修し、やがて廃城となります。歴史の中に出てくる平瀬城は笹本先生の論文の通り、平瀬氏館の方だろうなと思います。山城に大勢が駐留し、北を目指す前線基地とするには機動力がおちます。                                                

川合鶴宮八幡社

川合鶴宮八幡社

 きっと、川合鶴宮八幡社のあたりに砦を築いたと思われます。場所は平瀬口交差点の南西辺りにあります。

 

 平成26年3月に松本市特別史跡に指定されました。

平瀬口入り口

平瀬城入り口

 道順ですが、国道19号線を長野方面へ。平瀬口の交差点をまだ、北上し、ラーメン大学下田店から100mほど行った道を右折します。看板がありますが、見過ごしてしまうこともありそうです。

駐車場

駐車場

 そこをいくと駐車場が整備されています。そこに車を止めて、

登城口

登城口

 さらに北に進むと登山口に着きます。登山道は整備されています。この日も草刈りをやってくださっていました。

北支城と南支城の分かれ道

北支城と南支城の分かれ道

 しばらく登ると、看板がでてきます。南支城入り口と書いてはありますが、後ほど記述します。

 まずは北支城へ。6月は木々の緑と風と鳥の鳴き声、なんともすがすがしい。道は犀乗沢(さいのりさわ)から北沢沿いを進んでいきます。この犀乗沢は松谷みよ子さんの絵本「たつのこたろう」のモデルになった「泉小太郎伝説」にでてきます。生き別れになった母、犀竜に再会した場所だそうです。

 登山道は丸太で橋がかけられたり、きれいに整地され、地元の方々に愛されている城だということを感じます。

帯曲輪への入り口

帯曲輪への入り口

 あたりが開けてきたところから城内に入ります。

 ここから左右に平場がありますが、ちょっと高台にあったり、遠かったりとすぐには確認できません。縄張り図と照らし合わせるとはっきりします。ここからは少しきつくなりますが、道はしっかりしているので大丈夫。そして10分ほどで曲輪1に到着です。

曲輪3

曲輪3

 ここは以前のネットにあげてくださった方々の写真を見ると松林や草藪のようですが、今はきれいに刈り取られ草原のようになっています。

 西側に曲輪2、曲輪3と続き、曲輪3からの眺めが素晴らしい。

常念方面

常念方面

曲輪3からの白馬方面

曲輪3からの白馬方面

 ここは千国街道がすっかり見え、動向を探るのには適地であったようにも思えます。

 曲輪1の東側には標柱と陣没者の碑があります。きっと地元の方が建てたものと考えられます。

曲輪1標柱

曲輪1標柱

曲輪1標柱

陣没者慰霊碑

 

 そして、曲輪1の東側から降りていく道も轍がはっきりしています。ここを下りると小笠原城郭の特徴の連続竪堀が見られます。

背後の竪堀

背後の竪堀

山麓まで続く竪堀

山麓まで続く竪堀

 ここからは倒木が多く、曲輪4と曲輪5はなかなか確認できませんでしたが、痕跡はあります。曲輪4には何やら宗教団体の石碑もあります。

曲輪5

曲輪5

 曲輪5の方が少しわかりやすい感じはします。

 

 この2つの曲輪は何のために作られたのか不明です。もしかすると武田氏滅亡後に後詰として築いたか、東方からの侵入を恐れたか、どちらかだとは思いますが、やや見る影がありません。

ここで、城内は終わりのはずですが、道を登っていくとゴルフボール?そうです、豊科カントリークラブに出てしまいました。

ゴルフボールが・・

ゴルフボールが・・

豊科カントリークラブ

豊科カントリークラブ

 カントリークラブに続くこの道沿いに平瀬城入り口の看板がでています。こちらからだと楽に曲輪1に行けそうです。元青年の家から山田方面に抜けるとここに着きます。田沢方面からも行けます。

平瀬城山田口

平瀬城山田口

 

 さて、今度は南支城に向かいます。

南支城へのロープ

南支城へのロープ

 先ほどの看板の場所から右をのぞくと沢とロープ

 まさか・そうです。この沢を下り、ロープにしがみつき、急坂を登ります。登ろうと決めたので仕方ありませんが、この道がとんでもありません。見える木や草をつかみ、慎重に慎重にはいつくばって登らざるをえません。帰りのことを考えると不安ですが、とにかく前進。ピンクのビニールテープの目印だけが頼りです。写真など取ってる暇はありません。そのうち、それらしき場所に来ましたが、倒木と笹と草藪。もうやめようとは思いましたが、いくだけいってみろと、すると

南支城曲輪1

南支城曲輪1

南支城曲輪2

南支城曲輪2

 たぶんここが南曲輪の1と2だと思われます。その背後にはお約束通りの竪堀。結構、連続して、深いようでした。

深い竪堀犀川方面に

深い竪堀犀川方面に

背後の竪堀群

背後の竪堀群

 帰りはもうひやひやもの、ピンクのテープが希望の光です。この山城は戦う城ではなく、道おさえ、偵察の城として小笠原貞慶のころに改修されたものではないでしょうか。平瀬氏館の方が重要な場所だと思われます。地元の方がしっかり守ってくださっています。道も整備されています。絶景を見るためにもご登城ください。

※終了しました※令和4年 体験講座「昔の遊び道具作り教室」

体験講座「昔の遊び道具作り教室」

「竹の紙玉鉄砲」など昔のおもちゃを手作りします。

※終了しました。ご応募ありがとうございました。※

身の回りの物を組み合わせることにより、簡単だけれど夢中になれる遊び道具が作れます。
子どもから大人まで楽しめる教室です。ふるってご参加ください。

  • 日 時:令和4年6月19日(日) 午前9時から12時
  • 会 場:教育文化センター 206会議室
  • 定 員:25名(小学校低学年以下は保護者同伴)要予約
  • 料 金:無料
  • 講 師:荒田直氏、青柳秀人氏
  • 持ち物:軍手、飲み物(必要な方)マスクを持参してください。
  • 申込み:令和4年6月7日(火)午前9時から 電話で旧山辺学校校舎へ
  • 問合せ:旧山辺学校校舎(℡ 0263-32-7602)

 コロナウィルス感染拡大防止対策を実施して開催します。

令和3年の教室のようす
  

上條館長の山城案内 伊深城

伊深城 いぶかじょう(松本市岡田)

 さて、今日は伊深城です。刈谷原峠(かりやはらとうげ)を越える善光寺街道、三才山峠(みさやまとうげ)への道、安曇野方面に抜ける道などが交差する交通の要所に作られています。伊深城は岡田親義(おかだちかよし)によって築城されたという伝承があるそうです。実際は後世でしょうが、この岡田親義、「以仁王(もちひとおう)の令旨」によって挙兵した木曽義仲(きそよしなか)軍の大将格として奮戦し、倶利伽羅峠(くりからとうげ)で戦死したそうです。
 この土地は後庁(ごちょう)氏が支配していましたが、赤沢氏に滅ぼされ、その後、小笠原氏の支城になっていきました。天文19年の武田氏が勝鬨(かちどき)をあげた「イヌイの城」の落城の際、林大城(はやしおおじょう)・深志(ふかし)・岡田(おかだ)・桐原(きりはら)山家(やまべ)の五城が自落した中の岡田の城がここのことだと考えられます。きっと、その後に小笠原貞慶(おがさわらさだよし)によって、改修されていったと思われます。昭和42年2月松本市特別史跡に指定されました。

あ:洞の交差点を左折

あ:洞の交差点を左折

 さて、道順ですが、岡田宿を越え、女鳥羽川(めとばがわ)沿いの道を北上し、洞(ほら)の信号機を左折します。

 

 500m先を右折すると(写真えといっしょのところ)山すそにお宮が見えます。そこが若宮八幡宮です。そこを目指します。

 

い:六助池の信号を右折

い:六助池の信号を右折

 また、信州大学の西横の田沢方面に抜ける143号線、岡田新道を北上すると六助池(ろくすけのいけ)の信号を右折します。

う:矢作の信号を右折

う:矢作の信号を右折

 矢作(やはぎ)の信号を右折します。

え:ここを側道へ左折

え:ここを側道へ左折

 200mほどで側道に入り

お:交差点を左折

お:交差点を左折

 次の交差点を左折します。(若宮八幡社下)

か:若宮八幡宮

か:若宮八幡宮

 すると急坂の向こうに若宮八幡宮が見えてきます。

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き:駐車場

駐車場

 鳥居の左手に大きな駐車場があります。石段を登ってもいいですし、右手に車道がありますので、そちらからでも大丈夫。車道の行き止まりが登り口です。

 ここから九十九折の登山道が整備されています。見上げるとかなりの急坂です。

道標

道標

 10回ぐらいの折れで道標が見えてきます。ここからが城内だと思われます。

 まっすぐ進むと曲輪(くるわ)4になります。主郭(しゅかく)は左に曲がったところです。

曲輪4

曲輪4

 曲輪4には登り土塁(のぼりどるい)らしきものがあります。きっと、いざという時、兵が出てきて追撃するものと思われます。

登り土塁

登り土塁

 主郭への道を進むと笹が目立ってきますが、ここが段曲輪(だんくるわ)群だと思われます。笹を切り払うと見えてくるので整備していただけるとありがたい。

段曲輪群

段曲輪群

 そこを抜けるとまっすぐな登城道(とじょうみち)が見えてきます。

登城道

登城道

 しばらく行くと堀切(ほりきり)が見えてきます。小笠原城郭群(おがさわらじょうかくぐん)の特徴として長大な堀切があります。ここも堀切が集まり、麓まで続いています。ここを下っていくのも面白そうなので、おすすめします。

 堀切を過ぎるといよいよ、城内です。まずは曲輪3.ここには石垣が少し残っています。

曲輪3の石垣

曲輪3の石垣

 そして曲輪2と二段になった曲輪2‘が主郭の南と西を取り囲んでいます。きれいに削平されていています。桜の古木50本ほどが植えてあり、落ち着く場所です。

曲輪2から主郭へ

曲輪2から主郭へ

 曲輪2’の北側から主郭に入っていきます。虎口(こぐち)がはっきりわかり、主郭は2段の構造です。奥には土塁が築かれています。

主郭虎口

主郭虎口

北側より見た主郭

北側より見た主郭

 この主郭からは南側の市街地、木曽方面やアルプスを望みながら下の道も見ることができます。

主郭より南方面を望む

主郭より南方面を望む

遠くアルプスを望む

遠くアルプスを望む

曲輪4から三才山峠への道を見下ろす

曲輪4から三才山峠への道を見下ろす

 また、曲輪4からは三才山へ抜けていく道もよくわかります。とてもいい場所に建てられたと感心します。

 主郭周辺には石積みも見られます。

主郭の石垣

主郭の石垣

 主郭を下りて西側の小曲輪から背後の堀切を見に行くことができます。宮坂本の東側の道は倒木もありはっきりしませんでした。

 堀切から見た主郭は15mほど高さを感じます。

背後の堀切より主郭

背後の堀切より主郭

 そこから背後に続く堀切はこれでもかというばかりに続きます。比較的緩斜面が続く北側からの侵入を恐れたものと思われます。小笠原の山城の特徴です。

二重堀切

二重堀切

深く長い背後の竪堀(たてぼり)

深く長い背後の竪堀(たてぼり)

竪堀群

竪堀群

 帰りは曲輪4の横を通り、慶弘寺(けいこうじ)公園方面に下りていきました。よく整備されています。見上げれば急坂の斜面ですが、こちらからの方が楽に登れるかもしれません。慶弘寺公園もきれいに整備されています。

慶弘寺公園

慶弘寺公園

伊深城と慶弘寺看板

伊深城と慶弘寺看板

慶弘寺公園側からの城跡入口

慶弘寺公園側からの城跡入口

 10日後、山頂の桜の様子も見たくて最登城。今回は慶弘寺公園より。

慶弘寺公園に向かう

慶弘寺公園に向かう

  慶光寺公園は写真お:若宮八幡社下の交差点から20mほど東へ行った道祖神がある交差点を左折します。

 ここから右折、左折をし、山手に向かうと公園が見えてきます。駐車場もあります。伊深館(いぶかやかた)はこちらの方面にあったので、こちらが大手道なのかもしれません。

 そこに車を止めて登ります。やはり、急坂ですのでやや疲れますが、すぐに曲輪4に着きました。

 帰りは堀切を下りようと歩を進めました。曲輪2‘の下に下りていくと、かなり深い堀切ケとコがあります。ここをすべるように下りました。もっと木々が茂ってくると難しいでしょうが、面白かったです。ちょうど、お宮の上におりてくることができます。

曲輪2’を下ったところに石垣

曲輪2’を下ったところに石垣

堀切ケとコの合流点

堀切ケとコの合流点

堀切イが下りてくる

堀切イが下りてくる

堀切アが下りてくる

堀切アが下りてくる

 地元の方々の整備がよく見え、登りやすい城です。小笠原城跡群、北の砦です。ぜひご登城を。

上條館長の山城案内 犬甘城

犬甘城 いぬかいじょう(松本市蟻ケ崎城山)

 さて、今日は犬甘城(いぬかいじょう)です。
 ここは犬甘氏の要害城と考えられています。犬甘氏の居館は西側の島内にあったと思われます。のちに小笠原氏の配下となり、小笠原長時(おがさわらながとき)の時代に整備されたもののようです。埴原城(はいばらじょう)の時に述べた天文19年の武田氏が勝鬨(かちどき)をあげた「イヌイの城」はここのことだという説を支持します。ただ、城としての守りは東側が防ぎようのない土地なので、なんとも言えないのですが、西側の絶壁や塩尻、安曇野(あずみの)の監視には素晴らしいところです。深志城(ふかしじょう)、林城(はやしじょう)からもよく見えるので、敵の地に落ちたら慌ててしまうでしょう。
 ただ、昔から思っていますが、仮にこの地に松本城を築城し、東側に城下町を造成していたら、姫路城のようなどこから見ても見える松本城になっていたんじゃないかなと思います。まあ、武田氏は善光寺街道、保福寺街道(ほふくじかいどう)ぞいに上杉や村上を目指していたので、その拠点としての深志城あたりが適当だったとは思いますが。

正麟寺の交差点を城山公園へ

正麟寺の交差点を城山公園へ

道順は城山公園を目指して進んでください。正麟寺(しょうりんじ)前の五差路を城山公園方面に進みます。

五差路をまっすぐ西へ

五差路をまっすぐ西へ

 次の五差路をまっすぐに進みます。斜め右は遊歩道になります。

公園北側奥の駐車場

公園北側奥の駐車場

 公園北側奥に駐車場もあります。バスも少ないですが、アルプス公園行きのバスで近くまでいくことはできます。

 公園からどこからでも城跡巡りはできるので、今回は一番北の一の曲輪(くるわ)からいきます。

犬甘城案内図

比高(ひこう)は一番高く、北側もかなりの崖になっているので、ここが本丸だと思われます。20m四方です。今は東屋もあります。

本丸と思われる北の曲輪(一ノ曲輪)

本丸と思われる北の曲輪(一ノ曲輪)

本丸北側の崖

本丸北側の崖

 南側(二ノ曲輪)と東側(三ノ曲輪)にも曲輪跡があり、ここで守っていたものと考えられます。

南側、二ノ曲輪

南側、二ノ曲輪

 

 南の曲輪下には深い堀切(ほりきり)があり、次の四ノ曲輪へと続きます。

ニノ曲輪と四ノ曲輪の間の堀切

ニノ曲輪と四ノ曲輪の間の堀切

四ノ曲輪

四ノ曲輪

 その南にも堀、五ノ曲輪、堀と続き、ここは城跡だと気づかされます。ただ、東側の公園のゆるやかな空き地を見ているとそっち側から攻めてきたらどう守ろうか考えてしまいます。

四ノ曲輪と五ノ曲輪の間の堀

四ノ曲輪と五ノ曲輪の間の堀

五ノ曲輪

五ノ曲輪

五ノ曲輪と六ノ曲輪の間の堀切

五ノ曲輪と六ノ曲輪の間の堀切

 一番南側の六ノ曲輪で終わりです。

展望台

展望台

六ノ曲輪には展望台があり、360度よく見えます。

 北アルプスはもちろん、中央アルプス方面、松本城や山辺の谷もきれいにみられます。

展望台からの北アルプス

展望台からの北アルプス

展望台からの松本城

展望台からの松本城

展望台からの山辺の谷

展望台からの山辺の谷

 城山公園には文学碑がたくさん建てられていますので、それをのんびり見て回るのもいいかなと思います。

いわさきちひろの碑

いわさきちひろの碑

 いわさきちひろの碑もあります。ちひろが疎開したのは母の実家である松本市新橋で、この城山公園によくスケッチにきていたそうです。

窪田空穂の碑

窪田空穂の碑

 窪田空穂(くぼたうつぼ)の碑「鉦(かね)ならし 信濃の国ゆきゆかば ありしながらの 母見るらむか」もあります。ぜひ、ご覧ください。

 江戸時代松本藩の管理下にありましたが、天保14年(1843)城主、戸田光庸(みつつね)が庶民の公園として開放し、明治8年に松本市最初の公園となりました。
 城跡としては特筆するものはありませんが、小笠原の城郭群の一つとして、散策がてらに歩くのもいいかもしれません。桜の花も4月中旬頃、きれいに咲きます。松本のお花見スポットです。

上條館長の山城案内 埴原城

埴原城 はいばらじょう(松本市中山埴原北)

 今回は埴原城(はいばらじょう)です。ここは山辺地区ではありませんが、昭和45年長野県指定等文化財史跡として認定された小笠原氏城跡群[山家城(やまべじょう)桐原城(きりはらじょう)、埴原城]の一つです。埴原牧(はいばらまき)として馬の育成をしていた埴原氏が後に村井氏となり、村井城(むらいじょう)を築いたのですが、その詰城(つめじろ)として築かれたものだと推測されます。のちに小笠原氏の支配下となり、修築されていったと考えます。天文17年(1548)に塩尻峠(しおじりとうげ)の戦いに勝った武田晴信(たけだはるのぶ)が、村井城まで侵攻し、小笠原氏攻略のため、中山の和泉(いずみ)に陣を取ったという記述から、やはり、この時、埴原城も落ちたと考えるのが普通のような気がします。村井氏は塩尻峠の戦いで滅亡しますし、埴原城に敵兵がいながら和泉に陣を張るのは無謀です。ですから、天文19年(1550)の高白斉記(こうはくさいき)に書かれている「イヌイの城」は、戌亥(いぬい)という方角から考えても、犬甘城の方(イヌカイのカが抜けた記述と推測する考えからも)がふさわしいような気がします。
 その点ははっきりしませんが、小笠原氏城跡群の重要な城であったことは間違いないと思います。北の山を越えれば、林大城(はやしおおじょう)宮原城(みやはらじょう)などは上からの攻撃になり、ひとたまりもないので、小笠原貞慶(おがさわらさだよし)の時代に大規模な改修が行われ、大きな防御基地として考えたのではないかと思われます。いろいろな尾根筋に曲輪(くるわ)が数多くあり、規模が大きく、全部見て回るのはかなりの時間が必要です。

埴原城全景

埴原城全景

 埴原城の全景です。右に見える赤い屋根が蓮華寺(れんげじ)になります。ここを目指して進みます。

 松本市街地から中山地区に向かって車を進めてください。中山小学校南の信号から南東へ約1kmぐらいです。

蓮華寺の看板を左折

蓮華寺の看板を左折

 蓮華寺という看板がありますので、ここを左折してください。
 少し狭い道ですが、家が少ないので車でも大丈夫だと思われます。蓮華寺の舗装されていない場所に車を止めて、左側の方に歩いていきます。

 すぐに3つの御屋敷跡の看板が立っています。

伝・的畑跡(まとばたけあと)

伝・的畑跡(まとばたけあと)

伝・御屋敷跡(おやしきあと)

伝・御屋敷跡(おやしきあと)

伝・梅屋敷跡(うめやしきあと)

伝・梅屋敷跡(うめやしきあと)

埴原城の看板

埴原城の看板

 その先に「長野県史跡、小笠原氏城跡、埴原城」の看板。さあ始まりだ、という感じがしていいです。

鳥獣除けフェンス

鳥獣除けフェンス

 そして、いつもの鳥獣除けフェンスがお出迎えです。 開けて入っていきましょう。

 道はきちんと整備されています。ある程度、しっかりしているのは地元の方の整備や木材の切り出し用の通路、電力会社の運搬用道路も疑われますので、遺構かどうかは難しいところです。

左手に堀らしき窪み

左手に堀らしき窪み

  登山道をゆっくり、登っていくと、左手には堀(ほり)らしき窪みが 現れます。

 そして、大きな堀切(ほりきり)を右に曲がると、段郭(だんくるわ)群に入っていきます。

大きな堀切

大きな堀切

段郭群

段郭群

 一つ一つはそんなに大きくないのですが、小笠原の山城らしく次から次へと続いていきます。林大城のように平曲輪(ひらくるわ)の間ではなく、裾を通っていく登山道です。もしかすると本来は、曲輪の間を通っていくのが本道だったのかもしれません。途中、南西尾根の方にも寄ってみましたが、こちらも堀切が深く、高さがあるので、なかなか攻めにくい縄張りだと思います。

水場(お姫様の化粧水)

水場(お姫様の化粧水)

 そこを過ぎると、視界が開け、水場(みずば)に到着します。ここにはお姫様の化粧水という看板が立っています。林大城にもありました。実際はその目的で使うことはなかったでしょうが、今でも水が静かに流れているのが不思議でもあります。

 この井戸を左手に進んでいくとたくさんの曲輪(くるわ)が現れます。

 まず、帯郭(おびくるわ)です。主郭(しゅかく)の下をずっと巻いています。馬場(ばば)にでも使えそうです。

帯郭

帯郭

 そして、かなりの石が転がっています。主郭から落ちてきたのでしょうか。その先にもいくつか曲輪があり、数段下がった所に二ノ郭(にのくるわ)があります。

二ノ郭

二ノ郭

 宮坂本では3の郭となっていますが、地元の保存会の方々に従いましょう。二ノ郭から西側の主郭の裾に沿った道を通ると西小屋の郭群が下方に見えます。
 さて、主郭に登ります。先ほどの帯郭から斜め上に登る道がありますので、そちらに進んでください。
 埴原城の主郭は面白い造りをしています。虎口(こぐち)は枡形(ますがた)に切られていたと推測され、そこから主郭に入れます。

虎口

虎口

 入った所には大きな石がどんと据えてあります。これは「岩座(いわくら)」と考えられ、神の加護をとりいれたものと伝えられているものだそうです。

岩座

岩座

 その東側に一段高くなった曲輪があります。こちらがやはり、本当の意味の主郭、作戦本部となると思われます。東側には大きな土塁(どるい)が築かれ、しっかりした作りです。

東側に一段高くなった廓

東側に一段高くなった廓

 面白いのはその東側にもう一つ、郭があるということ。ここは詰郭(つめくるわ)と見た方がいいように思います。

詰郭

詰郭

 ここにも東側に土塁があり、反対の堀切から見ると比高(ひこう)10mぐらいでしょうか、かなりの壁になります。

東側堀切より詰郭土塁を見る

東側堀切より詰郭土塁を見る

 主郭南側には見どころの石積みがあります。

主郭南側の石積み

主郭南側の石積み

 竪堀(たてぼり)を防ぐ石積みは今回、発見できませんでした。
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 堀切から先には自然地形を利用し、加工を加えた面白い畝状竪堀(うねじょうたてぼり)や堀切がたくさんあります。「堀底状通路」と表示があります。

「堀底状通路」の表示

「堀底状通路」の表示

 その先には水の手の石積みがあり、ここから先ほどの水場まで水を導いているのでしょうか。

「水の手」の石積み

「水の手」の石積み

 帰りは井戸から南方面に埴原東地区の方へ広い道を通って下りてきました。西小屋方面、西尾根から古墳群、南西尾根、南尾根など郭や竪堀、堀切が数多くあります。こちらも探索してみたいと思いました。

 主郭までは30分ほど、歩きやすく、面白い造りがみられる広大な山城です。ぜひ、挑戦してください。