学芸員雑記 須々岐水(すすきがわ)神社のお船祭り
須々岐水神社には毎年5月5日に例大祭があります。氏子9町会から、意匠を凝らした華麗なお船が曳き出され、初夏の里山辺(さとやまべ)を賑わせます。
ただし、7年目ごとに一度の御柱祭(おんばしらさい)がある年は、御柱祭が5月5日にありますので、一日早い5月4日に行います。令和5年の今年は卯年で御柱祭でしたので、お船祭りは5月4日でした。
お船祭りとは
須々岐水神社の例大祭で、氏子9町会の保有しているお船が神社に集合します。里山辺の地は、薄川(すすぎがわ)を神様が船に乗って降りてきて拓いたと伝えられ、お船はこの伝説によるものとも、祖先が舟でこの地にやってきたことによるとも言われています。
お船のサイズはそれぞれ違いますが、どれも木造二階建て、前後に幕を張って船の形に似せています。
お船は前日に船倉から出されて組み建てられ、宵祭(よいまつり)が行われます。
お船に乗れるのは町会のお囃子を担当する方々ですが、宵祭では子どもたちが乗せてもらえるそうです。
本祭の朝、各町会を出発して須々岐水神社へと集まります。お船は境内へ引き込まれ、お祓いを受けお囃子を奉納します。
境内では他にも十二名の稚児(ちご)による舞や、幣束(へいそく)をつけた神馬(しんめ)が奉納されるなど神事があります。
長野県宝のお船たち
「里山辺お船祭のお船」9基は、歴史資料として昭和61(1986)年、長野県宝に指定されました。9基とも二階建て、車輪が2輪の山車(だし)です。それぞれ見事な彫刻や漆が施されいます。古くは江戸時代中期にはお船があったと伝承されています。お船の形状など詳細は「まつもとの文化財」をご参照ください。
お船の曳行(えいこう)
朝、お船は町会を出発し、一度、旧山辺学校校舎の西の道路(県道297号兎川寺鎌田線)に集合します。神社の方角を頭に、南から薄町、湯の原、新井、下金井(しもがない)、荒町、西荒町、上金井(かみがない)、藤井、兎川寺(とせんじ)の順に並びます。
旧山辺学校校舎前を行く藤井のお船
お船は車輪が2つのため、前後に激しく揺することができます。派手に曳行して来ると迫力満点。船が大海原を航海しているように見えます。ちなみに、酔い止めを飲んで乗る人も居るとか。
集合したのち、先頭から順に鳥居前に移動します。県道は大きくて平なので、お船は大暴れして進んでいきます。
鳥居前へ向かう下金井のお船
神社の鳥居の前でお祓いを受けたのち、境内へ引き込まれます。狭い鳥居の下を勢いよく進むと、見物客から大きな拍手が起こります。
鳥居を疾走する上金井のお船
境内での神事が終わると、お船は一台ずつお祓いを受け、帰路につきます。
お船は、お祭り以外の日は船倉に仕舞われており、見ることができません。豪華な彫り物をご覧になりたい方は、ぜひお船祭りに足を運んでみてください。
令和5年 体験講座「昔の遊び道具作り教室」
体験講座「昔の遊び道具作り教室」
「割りばし飛行機」など昔のおもちゃを手作りします。
身の回りの物を組み合わせることにより、簡単だけれど夢中になれる遊び道具が作れます。
子どもから大人まで楽しめる教室です。ふるってご参加ください。
- 日 時:令和5年6月18日(日) 午前9時から12時
- 会 場:教育文化センター 206会議室
- 定 員:25名(小学校低学年以下は保護者同伴)要予約
- 料 金:無料
- 講 師:荒田直氏、青柳秀人氏
- 持ち物:軍手、飲み物(必要な方)
- 申込み:令和5年6月6日(火)午前9時から 電話で旧山辺学校校舎へ
- 問合せ:旧山辺学校校舎(℡ 0263-32-7602)

令和4(2022)年度のようす
学芸員雑記 山辺地域の御柱(おんばしら)祭
山辺地域には、卯(う)年と酉(とり)年(7年目ごと)に御柱を立てる神社があります。
4月29日は入山辺(いりやまべ)の大和合(おおわごう)神社、宮原神社、橋倉諏訪神社、5月3日に里山辺の千鹿頭(ちかとう)社、5月5日には里山辺の須々岐水(すすきがわ)神社で御柱祭があり、5社とも松本市重要無形民俗文化財に指定されています。
全国的には諏訪大社の御柱が有名ですが、諏訪は寅(とら)年と申(さる)年に行われ、松本の御柱の前年です。年は違いますが、山辺の5社も諏訪系の神社です。
須々岐水神社の御柱
旧山辺学校校舎の近くには須々岐水神社があります。須々岐水神社には御柱が4本ありますが、7年目ごとに新調するのは一ノ御柱(いちのおんばしら)と二ノ御柱(にのおんばしら)の2本です。
一ノ御柱は本殿から見て左側(拝殿の南)、二ノ御柱は右側(拝殿の北)に立てます。
氏子は現在10地区あり、一ノ御柱は須々岐水神社のある薄町(すすきまち)が親郷(おやこ)となって全5地区、二ノ御柱は上金井(かみがない)が親郷となって全5地区が担当します。
御柱が立つまで
令和五年卯年の一ノ御柱の場合、次のように進みました。
- 見立(みたて) 2022年8~11月
御柱となる木の選定。 - 手締(てじめ)、節(せつ) 2022年11月
御柱に内定した木の所有者に結納の品などを納める。
節を結納ともいう。 - ねじそ、てこ棒作り 2022年12月
御柱を引く道具を作る。 - 大鳥居注連縄(しめなわ)作り 2023年1月
薄町が7年目ごとに大鳥居の注連縄を作りかえる。 - 綱縒(よ)り 2023年2月
御柱を引く綱を作る。 - 采配(さいはい)とぼんでん作り 2023年2月
斧頭(ゆきがしら)や木遣(きや)り師が 持つ道具を作る。
- 根堀り 2023年3月
御柱の根元を太くするため地面下の根から伐採する。
根があらわになるまで土を掘る。 - 山出し・中出し 2023年3月
御柱の伐採、山から里の御柱置場(おきば)へ
木を引く。 - 御柱を立てる 2023年5月
作業時期はそれぞれの神社ごとに違っており、御柱を前の年に切り出して置場に置いている神社もあります。
御柱の高さ、道具の作り方や担当者など、作法は細かく決まっています。
三之御柱(さんのおんばしら)と四之御柱(よんのおんばしら)
一ノ御柱・二ノ御柱は新しく切り出してきますが、三ノ御柱と四ノ御柱は前回の一ノ御柱・二ノ御柱のうら(先端のほう)が使われ、それぞれ一ノ御柱・二ノ御柱の東側(本殿の南と北)に立てなおされます。前回の三之御柱・四之御柱は根槌(ねづち)に使われます。根槌とは、御柱を立てる際に地面を打って固めるための大きな木槌です。
御柱立(おんばしらたて) (令和5年5月10日追記)
須々岐水神社の御柱立は5月5日に行われました。置場から神社境内まで曳いて行き、木を建てます。表参道(一ノ御柱曳行ルート)、裏参道(二ノ御柱曳行ルート)とも沢山の見物客でにぎわいました。
一ノ御柱は午前7時半に始まりました。御柱が置き場を出発する前に神事と儀式、木遣り師や御柱総代(そうだい)による木遣り唄の奉納があり、その後、神社へと木を曳いていく里引きが始まりました。
午前中に神社の大鳥居前まで運びます。途中で3回、木遣り唄の奉納がありました。
午後は御柱建て位置まで境内を曳いたのち、曳き綱を外す儀式、曳いた木の化粧直しの儀式などした後、木を建てます。以前は「神楽桟(かぐらさん)」と呼ばれる人力のウインチで木を立てましたが、現在はクレーンを使います。
一ノ御柱、二ノ御柱とも、午後4時過ぎに立ち上がりました。
松本市では他にも、神田の千鹿頭(ちかとう)神社、島立(しまだち)の沙田(いさごだ)神社も同じ卯年と酉年に御柱を立てます。やはり松本市の重要無形民俗文化財に指定されています。
上條館長の山城案内 会田城(虚空蔵山城)
会田城(虚空蔵山城) 松本市会田
さて、今日は虚空蔵山城です。虚空蔵山は全国各地にあります。北から見ると台形の山でどこが虚空蔵なのかわかりません。長野道の松本方面から見ると鋭角のとがった山です。南から見ると形の良い山で「会田富士」とも呼ばれています。ここは四賀を支配していた会田氏の山城です。会田氏は小県の海野一族の一系、岩下氏がこの地に入って名乗った姓です。そのせいか四賀には岩下さんが結構います。会田氏は武田方についたので、武田氏滅亡後、小笠原貞慶に攻められ、滅亡してしまいます。貞慶は自分に逆らった相手を徹底的に攻めます。虚空蔵山城が落とされ、矢久(やきゅう)地区に覆盆子(いちご)城〈一期(いちご)の城ということで名付けられた山城〉を築いていたものの敗れ、小県へ逃れる際、五輪の尾根で自害したといわれています。この後、会田城は小笠原流の山城に改良されたとも考えられ、山辺の山城とも関連性は多少あるようにも思います。
虚空蔵山城は峯の城だけではなく、多くの砦がまとまった城と考えるほうがいいように思うので、ここでは会田城(虚空蔵山城)として記述していきます。中ノ陣城、秋吉砦、現(うつつ)城、峯の城、少し広げて唐鳥屋城も含めて、会田城と呼んだほうがいいと思います。
虚空蔵山に上るのにはいくつかルートがあります。大手道は岩屋神社参道だと思います。このルートはまず、四賀球場北側から林道虚空蔵線を進みます。
オゲ水と鳥居のある場所から登っていきます。
直登コースは厳しいので、尾根コースをつづら折れで登っていくのですが、かなり急です。4~50分かかります。

隆起地形
この山はかつて褶曲してうまれた地形らしく、松本側は急峻で、筑北側からはゆるやかです。ですから、松本側から登るのは大変なのです。
また、林道のここから少し西寄りには中ノ陣城登り口があります。中ノ陣城、秋吉城にはすんなりいけますが、上の尾根に出るまでが完全岩山登山になります。直登に近いのでお勧めしません。
また、風越(かざこし)峠方面からも行けます。刈谷原トンネルを抜けて143号線を10分ほど道なりに進み、県道会田西条停車場線を上って行ってください。
四賀有機センターの看板を左折してしばらく行くと登山口に着きます。途中、有害獣防止柵があります。柵を開けて車で進みます。
地元の小中学生とはこちらから登りました。途中、ロープや鎖で登る場所もありますが、比較的登りやすいかなと思います。40分ほどでいけます。
花川原峠からも地図では道が見えてましたので、今回下ろうと思っていたのですが、標識もなく、まだ雪や氷もあったので断念しました。
そして、今回紹介するのが、岩井堂沢からの登城です。前回は下りだったのですが、道はよかったので今回挑戦と思いました。ただ、やや長い坂が続きますので、少々疲れます。休み休みで小1時間でしょうか。道は整っています。

矢室交差点
さて、道順ですが、岩屋神社から登る道とちょっと違う道を案内します。四賀球場からの道とも実は合流するのですが、こちらのほうが近道なのでご紹介します。
国道143号線を四賀方面に進んでください。刈谷原トンネルを超えて次の信号を左折します。

県道302との交差点
しばらく道なりですが、右手に四賀小、四賀支所、会田中が見えてきます。橋を越えた十字路をまっすぐ進んでください。

T字路
次のT字路を左折して進むと岩井堂の表示が出てきます。少し行った芭蕉碑の角を曲がると四賀球場に行けます。

うつつの清水

水溜め石
駐車場らしき場所を進むと細い林道に入りますが、もう少し進むと右手に「うつつの清水」「水溜め石」が残っています。

登り口
少し進むと虚空蔵山登り口の標識が。この周辺に車は止めておきます。

止山

四阿屋(あずまや)社
少し登ると止め山の白いテープがあります。ここ四賀はマツタケの産地。松くい虫による被害も大きく、大変です。20分ほど進むと四阿屋社の石積みがあります。

中の陣案内
この後もかなり息が切れます。中ノ陣城への手書き看板もどこが道なのかはよくわかりません。

平曲輪
ここから少しずつ平曲輪らしき形が見えてきます。ここらあたりから城内と言えそうです。

大岩

尾根道
そして、岩場が現れます。大きな岩の横に道がついているので、登ってみるとすごい岩がありました。あの上に登ろうかなと思いましたが、やめておきました。
それから、細い尾根道の岩場を歩きます。バランスを崩すと大変なので気を付けて進んでください。

分岐点
すると、岩屋神社との三叉路が。ここは道がはっきりしています。

主郭

霞がかった北アルプス
堀切と小さな曲輪を超えると主郭につきます。以前は木が生い茂っていましたが、だいぶすっきりしました。春霞で残念な展望でしたが、北アルプスが見事です。筑北の村や長野道もよくみえました。

東堀切
その後、東に向かうと堀切がいくつか続きます。3つ目の堀切から花川原峠の道があるとのことですが、これかなって程度です。雪も残るので止めておきました。

岩屋神社

岩屋神社内
また、戻り、岩屋神社まで行きました。岩場の中に神社があるのはやはり、ここが信仰の山とされた証拠でしょう。磨崖仏と虚空蔵菩薩が祀られています。
岩井堂は善光寺街道沿いに建つ名所で旅人も多く訪れたはずです。観音山周辺石造物群として、松本市重要文化財に指定されています。お堂の脇の摩崖仏は大きく貴重なものです。お堂のなかの千手観音坐像も重要文化財です。
四賀キャニオンの愛称もある砂岩層も見事です。かつてはこの辺りで石炭が産出し、馬車や索道を使い、各地に輸送していたという歴史もあるようです。
岩井堂方面からの道は帰りに枯葉に何度か足を取られましたが、道はしっかりしているのでいいトレッキングになるかなと思います。今日も平日にもかかわらず、10組とすれ違いました。少し装備をしっかりして楽しんでください。
学芸員雑記 ミュージアム・トーク!
職員による校舎・館内展示案内を行うことがあります。2月下旬、松本市在住の方々が来館され、明治時代の学校生活や山辺の民俗について学ばれました。そのときの様子など併せて紹介します。
校舎を楽しむ
外から、校舎の特徴について説明します。和洋折衷(わようせっちゅう)の校舎ですが、具体的にどこが洋風でどこが和風なのか?実物を見ながら確認します。
気付きにくい箇所も案内します。例えば、軒瓦(のきがわら)の垂れの部分に「黌(まなびや)」の字。「黌」の文字は鬼瓦にもあり、あたかも校章かのように使われています。全ての軒瓦にある光景は、ぜひ見上げて観て欲しいところ。
校舎の中では中央の廊下や和風の天井など、特徴的な箇所を観ていきます。
資料を楽しむ
展示してある資料にどういった価値があるのか、見所はどこなのかを説明します。
校舎を設計した大工の棟梁、佐々木喜重(ささき きじゅう)は設計当初から和洋折衷を意識していました。建築仕様のどこからそれがうかがえるのか、第1室のケースをのぞきながら確認しています。
第2室では開校式の来賓受付簿を観ました。松本の初代市長「小里頼長(おり よりなが)」、松本出身の社会運動家「木下尚江(きのした なおえ)」、松本城天守の修理保存に活躍した松本中学校の校長「小林有也(こばやし うなり)」など、錚々たる顔ぶれであったことなど紹介しました。
体験してみよう
明治の授業はどんなものでしょうか、少しだけ体験します。
明治の子どもたちがノートの代わりに使った石盤(せきばん)に、石筆(せきひつ)を使って字を書きます。固い石筆に当たると、力を入れないといけません。でも、チョークより細かい字が書けるかも?
予め勉強する内容が印刷されている大きな「掛図(かけず)」を読んでみます。
「授業の始ハ午前七時 授業の終ハ午後三時なり」
このほか、明治34年の試験問題にも挑戦しました。
体験された方は「厳しい環境下で学ぶ子供たちの姿が思い浮かんだ」そうです。
旧山辺学校校舎を団体でご利用で、事前にご要望いただいた場合、職員が展示解説を行います(時間によってご要望に添えない場合があります)。興味のある方はお問合せください。
学芸員雑記 入山辺(いりやまべ)のコトヨウカ行事
松本市には、毎年2月8日頃、藁で大きなツクリモノを作り、厄を払い、無病息災(むびょうそくさい)祈願、豊穣(ほうじょう)祈願する地区があり、8つの地区の行事が松本市重要無形民俗文化財に指定されています。このうちの6地区が山辺地域にあります。
入山辺のコトヨウカ
山辺6地区のうちの里山辺(さとやまべ)の1地区は、世帯数の減少などにより現在は行事を休止しています。また入山辺の1地区が、コロナの流行に配慮し令和5(2023)年は行事を休止しました。
令和5年に行事を行ったのは、入山辺の4地区でした。
舟付(ふなつけ)の八日念仏(ようかねんぶつ)と百足(むかで)ひき
舟付地区では2月8日近くの日曜日に行事を行っています。令和5年は2月5日でした。
朝、各家の玄関先でヌカエブシ(籾殻(もみがら)やトウガラシなど)を燃やして疫病神(やくびょうがみ)を防ぎます。
また餅をついて、地区の道祖神に供えたり塗りつけたりします。
地区の年番(ねんばん)の方々が公民館に集まり、藁で大きな百足を作ります。出来上がったらゾウリを付け、地区の中の石仏(蚕玉様)の前に丸めて供えます。
午後に、地区の方々が集まり、大きな数珠を回しながら念仏を唱えます。令和5年はコロナ流行に配慮して年番の方々だけが集まりました。
その後、供えておいた百足を地区の東の端まで持っていき、百足の尾で各家の玄関先のヌカエブシの灰を払って回ります。子どもたちが担当します。
全ての家を回り終えたら、地区の端まで持って行き、焼き払います。これにより疫病神を追い払います。
令和5年は雲ひとつない晴天で、西に北アルプスが綺麗に見えました。
厩所(まやどこ)の貧乏神送り
厩所地区では2月8日に行います。
朝、道祖神に餅を塗りつけます。
午後、地区の方々が公民館に集まり、藁で馬と、ジジ・ババと呼ばれる人形、馬にかぶせるムシロ、手綱(たづな)を作ります。ジジとババは馬の上に乗せ、ゾウリとワラジを付けます。
出来上がったらこれを囲んで大きな数珠を回しながら念仏を唱えます。その後、「貧乏神追い出せ」と声をあげながら、道祖神の前を通って河原まで持って行きます。
河原でもう一度、ワラウマを囲んで念仏を唱えたあと、焼き払います。これにより貧乏神を追い払います。
上手町(わでまち)の貧乏神送りと風邪の神送り
上手町地区では2月8日に行います。
夕方5時、地区の方々が公民館に集まり、藁で馬と、ジジ・ババと呼ばれる人形を作ります。ジジとババにはへのへのもへじで顔を書いた紙を貼り、南無阿弥陀仏と書いた杖を持たせ、馬の上に乗せます。
出来上がったらゾウリとワラジをワラウマに付け、ジジとババの間にロウソクを置いて火を点けます。お神酒でワラウマを清めたあと、塩と米をのせた皿をおき、ワラウマを囲んで念仏を唱えて厄を払います。
その後、「貧乏神まっくり出せ、風邪の神まっくり出せ、さっさとまっくり出せ」と声をあげながら道祖神の前を通り、地区の中をワラウマを引き回します。途中、ワラウマに火を点けます。
火の点いたワラウマを引き回しながら地区の端まで持って行き、そこで灰になるまで焼きます。これにより貧乏神と風邪の神を追い払います。
中村の風邪の神送り
中村地区では2月8日に行います。
夕方6時、地区の方々が公民館に集まり、藁で大きな百足(むかで)と、藁をよってサイコロと百万棒を付けたタイシメを作ります。タイシメは、出来上がったら公民館の玄関の上に祀り、前の年に祀ったタイシメは、百足に付けます。
百足が出来上がったらゾウリとワラジ、タイシメを付けます。
地区の子どもが百足にまたがると、隣の地区にある六地蔵(周囲は畑)まで引いて行きます。このとき「ナンマイダンボ」と声をあげます。
六地蔵まで来ると、近くの土手の上に百足をとぐろを巻くように丸め、置いておきます。翌日以降、焼き払って風邪の神を追い払います。
それぞれの年のコトヨウカ行事
新型コロナ流行により、ここ数年の行事は縮小されています。例えば、どの地区でも粕汁(かすじる)を飲んだり直会(なおらい)をする風習ですが、休止されています。念仏も、年番の方々だけで行う地区がありました。
このように、年によって行事の様子が違うのも、地域や時代を反映していく無形文化財ならではの良いところではないでしょうか。
旧山辺学校校舎にある藁のツクリモノ
校舎内(第9室)には、舟付、厩所、上手町、追倉(おっくら)地区の藁のツクリモノを展示しています。行事では燃やされてしまうワラウマや百足ですが、地区の方々にお願いして展示用に制作していただいた物です。その大きさや造形のこまかさを見ることができます。
学芸員雑記 山辺学校と兎川寺(とせんじ)
旧山辺学校校舎は県道67号を挟んで兎川寺(とせんじ)の南側に建っています。
前身は兎川学校(とせんがっこう)
兎川寺は開基したのがいつなのか厳密にはわからないくらい古い歴史のあるお寺で、山辺学校の建つ場所もかつて兎川寺の境内でした。
明治4(1871)年、仏教を棄てようという廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の動きにより、兎川寺は一時、廃寺となりました。この本堂を使って明治6年につくられたのが兎川学校(とせんがっこう)で、山辺学校の前身です。
校舎建設前の仕様書にも「兎川学校」の文字が見えます。
山辺地域にはほかにも海岸寺を利用した桐原学校、瑞光寺を利用した南橋学校などが同じく明治6年につくられています。
明治17(1884)年、地元の人々の強い願いにより兎川寺は再興します。学校として利用されていた本堂は、当時の金額1,500円(現在の価値で3千万円以上)で兎川寺へと買い戻されました。
この1,500円を使って里山辺村、入山辺村の2村は新しい校舎を建てる計画をたてます。明治18年、桐原学校など近隣の学校を統合することを条件に、大きな校舎が建てられました。このとき、兎川学校は山辺学校と名前を変え、いま長野県宝として残る山辺学校の校舎が誕生しました。建築費は最終的に1,500円でも不足し、追加で寄附を募ったそうです。
石川数正(いしかわ かずまさ)夫妻供養塔
兎川寺の境内に「石川数正夫妻供養塔」があります。
いつ誰が建てたのか、確実な記録は残っていないそうですが、住職さんに伺ったところ、おそらく数正の子、康長(やすなが)によるものではないかとのことです。
遺物などは埋葬されていなため、「供養塔」とされています。
松本で石川父子といえば、松本城の天守を建てた方々。数正は初代松本城主です。徳川家康の懐刀とも言われた三河(愛知県)の人ですが、出奔して豊臣秀吉についてしまい、家康をおおいに悩ませた人でもあります。秀吉から信濃の国を任され、天正18(1590)年、松本にやってきました。2年後の朝鮮出兵の際に病死していますが、お墓など詳細は判明していません。
跡を継いだ康長ですが、数正の出奔によってこじれた徳川家との関係に配慮し、供養塔を堂々と建てることができなかったのではないか、と兎川寺の住職さん。
供養塔は兎川寺境内の片隅(校舎の東側辺り)にひっそり建てられました。兎川寺は古くから、この辺りを治めていた領主の祈願寺でしたので、その縁もあったのではないかということです。
昭和30年代、現在の場所(本堂の南西)へ移動されました。
学芸員雑記
山辺の歴史や旧山辺学校校舎でのイベントなどを、学芸員の目線から紹介します。
雑記インデックス
5.須々岐水(すすきがわ)神社のお船祭り 令和5(2023)年 5月21日
4.山辺地域の御柱祭 令和5(2023)年 4月18日
3.ミュージアム・トーク! 令和5(2023)年 3月18日
2.入山辺のコトヨウカ行事 令和5(2023)年 2月18日
1.山辺学校と兎川寺 令和5(2023)年 1月18日
※終了しました※令和4年度 第2回探古会を開催します
第2回探古会(古文書読解講座)
武家文書を読む(6) -信長・秀吉・家康-
※終了しました。ご応募ありがとうございました。※
令和4(2022)年度第2回探古会(古文書読解講習会)を開催いたします。
「古文書を読んでみたい」、「古文書に興味がある」という方はふるってご参加ください。
- 日 時 令和5年2月26日(日) 午前9時~正午
- 講座内容 武家文書を読む(6) -信長・秀吉・家康-
- 会 場 松本市教育文化センター3階 視聴覚ホール
- 定 員 40名(要予約・先着順)
- 料 金 500円(テキスト代として)
- 持ち物 筆記用具、飲み物(必要な方)、ハサミ
- 講 師 後藤芳孝氏/松本市文化財審議委員
- 申し込み 2月11日(土)9時から
- 問合わせ 旧山辺学校校舎(℡ 32-7602)

令和3年度の探古会のようす
上條館長の山城案内 波多山城
波多山城(はたやまじょう)松本市上波田
平成23年3月22日松本市特別史跡
さて今日は波多山城(はたやまじょう)です。波多山城は小笠原氏の影響を受けた山城と考えられます。もともと波多氏はこの地域の牧を支配していた豪族だったのですが、やがて没落し、のちに小笠原氏が直参を派遣し、支配していきました。飛騨や木曾とも通じるこの道も大切な道だったのです。
ちなみにこの地域は波多村として発足したのですが混乱した時期があり、「波多し」の地名がよくないと1933年波田村になったそうです。
さて、道順ですが、まず、波多神社、田村堂を目指します。アルピコ電鉄 淵東駅の道を南に上っていく道もありますが、道がやや狭いので、波田の商店街を抜けていく道を紹介します。
まず、国道158号線を上高地方面に向かいます。そして波田庁舎、波田小の交差点を左折します。
踏切を越えてしばらく行くと郵便局があるので、その手前を右折します。
すると石張り道路が現れます。この道は車ではなく、歩いて散策するのがよさそうですが、この石張りの道を進むと正面に仁王門が見えてきます。その左の道を進み、若澤寺跡への道案内の通りに進みます。
看板が出てきます。ここを左折して進みます。
ここからは林道。右手は崖。ちょっとスリルがあります。ここから1.5kmと表示があり、何とか歩いてでも上ることはできます。車で登り口までいけます。
そしてまた、分岐点があります。ここは案内板の通り左に行くのが正解です。
最初に来たとき、右に上って行ってしまいました。行けども行けどもそれらしき案内はなく、軽トラとも何とかすれ違い進むと工事現場にでてしまいました。今、送電線の鉄塔建て替え工事をしているらしく、令和5年11月までの予定だそうです。慌てて引き返し、びびって最初の林道入口まで戻り、空き地に止めて登城することにしました。結構大きなトラックも上がっていったので気を付けてください。
さて、若澤寺跡方面に向かうと丁石というものが設置されています。1丁(109m)ごとに17か所あったそうです。今は4カ所残っています。
この林道は水沢山林道といいますが、石畳や粗いコンクリート舗装で落ち葉もあり、急坂で車も上りにくいだろうなとは思います。そして、突き当りが若澤寺跡です。林道はなお続きますが、立ち入り禁止です。
最初登り口がわからず、困ってしまいましたが、若澤寺跡を探索した後、ちょっと戻るとこんな看板がでていました。最初は気づかなかったのですが、波田山城跡(ここは田の字でした)の文字があるではありませんか。軽トラならまだ、進めそうですが、杉が育ち、倒木も多そうなのでこの辺りに車を止めて歩くのがいいと思います。300mほど歩きます。
そしてついに登城口につきました。迷っただけにようやく来たかという感じです。
地元の方によってきちんと整備され、とても上りやすく、ここからはあっという間です。こちらは搦手口でしょうか。それにしても止め山の表示が多い。よっぽど地主さんは気にしているんでしょうね。採っていく人がいるんでしょう。疑られないように秋は止めたほうがいいようにも思います。
少し上ると城跡の石碑が秋葉城と書いてあります。これは本城に秋葉神社の祠があったからそう呼ばれたそうです。
まず、左手の本城に進みます。段々畑のように段曲輪が並んでおり、広さも十分あります。大きな堀切沿いに進むとすぐに本城です。本城入り口には上り口が用意されていますが、帯曲輪をぐるっと回り、西側が虎口のような気がしました。
主郭には井戸跡やお社があります。土塁が周りを取り囲んでいます。小笠原の城のように石積みは見当たりません。
虎口を降りると馬出らしきものがあり、左に折れて南城にいくとここにも大きな堀切。竪堀といってもいいかもしれません。大きく分断しています。広さもあり下を見るといくつも段曲輪があります。
ぐるっと本城の帯曲輪を通って北城に向かい、堀切を越えるとこちらも広く、下にいくつもの段曲輪が見えます。本城を中心に大きく羽を広げた形にも見えてきます。大手道と思われる北西方面に重きを置いた縄張りのように思います。
その後、東尾根を行き、見晴らし台に向かいました。今は木々が茂って景色はよくありませんが、松本の街並みも見え、木々の伐採が進んだら素晴らしい展望台になりそうな気がしました。
波多山城は林道を車であがれば、全然、疲れない良い山城です。歩いて登ってもいい運動になります。ぜひ足を運んでください。若澤寺跡もすごいですよ。石積みや礎石がきちんと残っていて、山城のようです。こんな大きなお寺がこんなところにあったとは、しかも本来はまだ奥の山にあったといいます。人間の信仰心のすごさを感じます。