考古博物館ニュース③ 学芸員のおすすめ資料
縁起の良い文字が書かれた道具
発掘された古代の人々の道具の中に、文字や記号などが書かれている道具があります。らくがきにも見える線刻や、仲間との結束を図った文字など、文字の力に様々な願いが込められています。その中から縁起の良い文字が書かれた道具を選んでみました。
描かれた絵や文字は、たった一文字でも今日私たちに多くの情報を与えてくれます。文字や記号の内容だけでなく、書き手の人数や書風・筆法など、様々な角度から研究することで、古代の人々の知識や文化の発展が見えてきます。
コラムクイズ
古代の人々の道具には文字を書くためのものもあります。画像の道具は文字を書くために欠かすことのできないものですが、この道具はいったい何でしょう。
常設展展示紹介⑮ 「古代の開発2」
須恵器の伝来
古墳時代に朝鮮半島経由で日本へ伝来した須恵器(すえき)は、当初、有力者の高級品として作られました。奈良時代には日本の各地で生産が始まり、須恵器は官衙(かんが)などへ供給される器となりました。さらに、各地のムラでも日常の器として使用されるようになっていきます。
※須恵器 … 古墳時代の後半から平安時代にかけて盛んにつくられた土器。ロクロの技術を用いて作られ、窯をつかって高温(1000℃以上)で焼成します。灰色・灰黒色で硬い器で、たたくと金属音に近い音がします。
※官衙 … 古代の役所や官庁のことです。
松本平の須恵器生産
須恵器の生産は地方へも広がり、松本平でも古墳時代の終わり頃には生産が始まったようです。奈良時代の終わり(8世紀後半)から、岡田地区などの山間部では本格的な生産が始まり、松本平の各ムラへ製品を供給しました。
須恵器の生産には専門の職人と大量の燃料が必要でした。有力者や国府など経済力がある大きな組織が経営を行っていたと考えられます。
コラムクイズ
須恵器は窯を使って高温で焼かれます。次のやきものの種類の中で焼く温度が一番高いのはどれでしょう。
常設展展示紹介⑭ 「古代の開発」
奈良・平安時代の松本平
奈良時代、天皇を中心とした国づくりが進み、律令(りつりょう)による地方統治が行われました。
古代の松本は筑摩郡と呼ばれていました。平安時代の初めに、小県(ちいさがた)から筑摩郡に国府が移されてからは信濃国の政治の中心として栄えました。「松本」という地名がおこるまで、この地域は国の中心を表す「府中(ふちゅう)」や「信府(しんぷ)」の名で呼ばれていました。
古代の松本地域でのあちこちでは土地の開発が進められ、当時の大きなムラの跡からは、有力者の大きな家や庶民の家、倉庫や用水路が見つかり、そこからは様々な生活の道具が出土しています。
※律令 … 奈良・平安時代の法律。律は刑罰についての規定。令は政治・経済などの一般行政に関する規定で役人が守るべきことを定めたものです。
※国府 … 律令制度のもと、地方支配を任じられた国司が、政務を行った役所(国衙:こくが)の置かれた場所。10世紀に編纂(へんさん)された「和名類聚抄(わみょうるいじゅうしょう)」には、「国府在筑摩郡 行程上廿一日 下十日」と記されており、筑摩郡に国府があったことがわかります。
コラムクイズ
古代の松本市域には、政治的な情報伝達の路(駅路:えきろ)の一つが通っていました。松本市域を通っていたこの駅路を一般にはなんと呼んでいるでしょうか。
常設展展示紹介⑬ 「松本の古墳時代4」
妙義山古墳群
桜ヶ丘古墳の南にある、大村地区を望む尾根にある古墳群です。昭和30年~31年にかけて3基調査されました。
古墳の姿ははっきりと分かりませんが、2号墳で発見された3体の人骨を納めた石室からは、武器や馬具のほか、勾玉や管玉などの玉類が見つかりました。さらに、勾玉2個、丸玉40個、管玉1個が、紐で通されていたかのようにまとまって発見され、古墳の被葬者がどのように首周りを装っていたかが明らかになりました。
安塚古墳群・秋葉原古墳群
奈良井川西岸の新村には、安塚古墳群(やすづかこふんぐん)と秋葉原古墳群(あきはばらこふんぐん)があります。これらの古墳の横穴式石室周辺から奈良時代の食器が出土しています。また、安塚8号墳からは、銅製の帯飾りが出土しています。帯飾りは奈良時代の朝廷の役人の服装の一部として使われていました。このことから被葬者は奈良時代の地方役人だった可能性があります。
※11月29日(日)まで秋季企画展「わが地区の逸品 新村地区の遺跡」を開催中。安塚・秋葉原古墳も紹介しています!
コラムクイズ
古墳からは副葬品としてガラス玉が出土し、その多くが着色されています。古墳から出土する古代ガラスの色は、ガラスに含まれる微量成分によって変化し発色します。ガラスに加える事で青色を発色する成分は次の内どれでしょう。
常設展展示紹介⑫ 「松本の古墳時代3」
桜ヶ丘古墳
浅間温泉にある桜ヶ丘古墳は松本市を代表する古墳の一つです。短甲(たんこう)・衝角付冑(しょうかくつきかぶと)・鉄剣といった武器・防具に加え、金銅製天冠(てんかん)が副葬され、中期(5世紀後半)の古墳であることが判明しました。短甲や衝角付冑は県内でも出土例が少なく、天冠は県内で桜ヶ丘古墳が唯一の事例です。天冠は一般にヤマト政権から地方豪族へ与えられた品と言われ、古墳の被葬者がいかに有力であったかを考えさせられます。
南方古墳
入山辺の南方古墳(7世紀中頃から8世紀初頭)は、昭和63年ほ場整備事業に伴い、ブドウ畑の下に埋もれた状態で偶然発見されました。発掘の結果、現在に至るまで盗掘を免れ、装身具は松本市最多の700点を超え、武器や馬具、銅製の鋺や高台のついた受け皿(承盤(しょうばん))といった仏具などの金属製品類、多様な器種の土器群が出土しました。
この古墳では何度か追葬が行われたことがわかっています。最初の埋葬時には武具や馬具など武力によって権威を表していたものが、仏教の伝来に伴い徐々に仏具や仏器などに変化していった様子を、副葬品の変化からうかがい知ることができます。
コラムクイズ
長野県では唯一、桜ヶ丘古墳でしか見つかっていない金銅製の天冠。全国の出土事例はどれくらいの数でしょう。
常設展展示紹介⑪ 「松本の古墳時代2」
松本市内の古墳
古墳時代前期、松本市内ではこの時期の古墳は非常に少なく弘法山古墳と中山36号墳が知られているだけです。続く古墳時代中期には、城山、浅間、里山辺、出川など開発が進んだ地域に古墳が作られました。
古墳時代後期には、入山辺には大きな横穴式石室をもつ南方古墳が作られ、中山には小さな古墳が盛んにつくられ、墓地として利用されました。
古墳時代の終わり頃になると、奈良井川西岸域の開発を進めた人々の墓と考えられる古墳群が新村地域につくられています。
弘法山古墳
3世紀前半から7世紀まで、大規模な墳丘を持つ豪族の墓・古墳が全国で造られました。
弘法山古墳は全長60メートルを超す松本市内最大の前方後方墳です。3世紀末、古墳時代の初めに造られた東日本でも最古級の古墳の1つです。中山丘陵の尾根の先端に位置し、墳頂部からは松本平を一望できます。
遺体を納めた竪穴式の礫槨(れきかく)の内部には、鉄器(剣・鏃・工具)・青銅器(鏡・鏃)・ガラス小玉が副葬され、被葬者の力の強さがうかがえます。
コラムクイズ
古墳には主な形が4種類(前方後円墳、前方後方墳、円墳、方墳)あります。
弘法山古墳はどんな形の古墳でしょうか。
秋季企画展「わが地区の逸品 新村地区の遺跡」(10月3日~11月29日)
毎年、市内の各地域の遺跡を紹介している企画展「わが地区の逸品」。今年は新村地区を紹介します。
新村地区は梓川によってつくられた肥沃な土と、豊富な水に恵まれた稲作地帯です。
室町時代の説話「ものぐさ太郎」の中に「あたらしの郷」の名が出てきますが、中世すでにこの地区が豊かな里であることが都まで知れ渡っていたのかもしれません。地区内の遺跡発掘調査で見えてきた、奈良時代から中世までの歴史や、遺跡から発掘された「逸品」をご紹介します
会期:10月3日(土)~11月29日(日)
休館日:月曜日(休日の場合は翌日)
会場:松本市立考古博物館 第2展示室
料金:大人200円、中学生以下無料(団体20人以上で150円)
お問い合わせ:考古博物館まで(86-4710)
考古博物館ニュース② 「学芸員のおすすめ資料」
有孔鍔付土器
有孔鍔付土器とは、縄文時代中期に発達した大型のつぼ形の土器です。口縁部(つぼの口の部分)につばがあり、この部分の近くに小孔列(小さな穴の列)がうがたれているのが特徴です。酒造などに用いられたともいわれ、また、太鼓として使われたという説もあります。
画像にある資料は口縁部と底部が欠けているものの、ほぼ完形で、たる形とはち形の中間の形です。土器の内部には、赤色塗料が塗られた痕跡が残っています。
柏木古墳出土の装身具
柏木古墳は大正14年(1925)に道路を広げる工事の時に偶然発見された古墳です。古墳は残っていませんが、石室の図面が描かれ、当時としては珍しく学術的に行われた発掘でした。出土品はすべて地主の小笠原氏の所有でしたが、購入の要望があり、出土品が村を離れる危機が訪れました。昭和6年(1931)、出土品は中山村に100円で買い取られ、中山考古館に寄贈されました。当時、主な産業の養蚕が不況で村の財政状態は悪く、出土品に高額なお金を使う決断をするのは容易ではなかったでしょう。私たちがこの出土品を現在見ることができるのは、村民たちの文化財を守る強い思いがあったからといえます。
コラムクイズ
写真は中山小学校の校舎に掲げられている校章です。昭和24年(1949)に作られたこのデザインは、都に献上する馬を育てた埴原牧と、古墳から出土した遺物をデザインの中に取り入れています。デザインに用いられた遺物は矢じりと管玉のほかにもう一つありますが、それは次のうちどれでしょう。
常設展展示紹介⑩ 「松本の古墳時代1」
古墳文化のはじまり
古墳時代は、弥生時代に続き3世紀末頃から7世紀頃までの古墳が盛んにつくられた時代です。古墳は大王(おおきみ)や豪族が自分のために造った大きな墓で、前方後円墳はその代表的なものです。また、この時代は大和朝廷を中心とする政治権力が強まり、地方の豪族と手を結ぶことでクニをまとめ、国家が造られていきました。
人々は竪穴住居に暮らしていましたが、5世紀には大陸から新しい文化が伝わって、カマドで炊事をしたり、弥生時代前にはなかった個人の使う食器が登場したり日常生活に変化がおきました。また、農具や土木技術の発達によって土地の開発も進みました。
松本の古墳時代
古墳時代の前期(3世紀から4世紀頃)の松本では、ムラは小さくあちこちに散在していました。しかし、中期(5世紀から6世紀頃)になると、水田に適した湿地のまわりに大きなムラが作られます。この頃から竪穴住居にカマドが設けられ、人々の生活も大きく変わっていきました。さらに、後期(6世紀初めから7世紀半ば頃)には、水を引く技術の進歩によって開発が進み、各地に大きなムラが次々と現れます。家や倉庫として使われた、新しい建物(掘立柱建物)も建てられるようになっていきました。
コラムクイズ
古墳時代の焼物に「須恵器」があります。須恵器は古墳時代中期に朝鮮半島から伝えられ、専門の職人によって窯で焼かれました。「須恵器」の読みはつぎのうちどれでしょう。
常設展展示紹介⑨ 「弥生時代の葬送」
人間だれにでも死が訪れ、死者を弔(とむら)うことは、先祖との繋がりを維持するための非常に大切な儀礼(ぎれい)です。弥生時代には、松本でも新しい葬送儀礼(そうそうぎれい)が現れます。
再葬墓って何?
再葬墓とは、壺のなかに遺骨を納め、1つの穴にいくつもの壺を埋めたお墓です。壺のなかに複数人の骨が納められることもあります。縄文時代末から弥生時代初めの東日本でみられるもので、針塚遺跡では、5つの墓穴に16個の土器が納められていました。
縄文時代から土器に遺骨を納める習慣はありました。土器を母親のお腹の中にみたて、遺骨を入れることで、もう一度産まれることを意味するのではないかと考えられています。同じ穴に複数の壺を埋めることは、家族と同じ墓に入ることと同様に、先祖との繋がりを大切にしていたからだと言われています。
礫床木棺墓(れきしょうもっかんぼ)
針塚遺跡のような再葬墓は、弥生前期から中期前半までの約100年間の限定的なものです。その後は、この地域(弥生時代中期の長野県と群馬県)に特有の礫床木棺墓などが主流になります。穴の底に小石を敷き詰めた上に木棺を設置する形式のお墓です。
横田古屋敷遺跡の礫床木棺墓からは、6~10歳、20~39歳、40~59歳の3人分の骨が出土しました。いずれも、白骨化した後に火葬され、骨だけが埋葬されたようです。再葬のプロセスとの類似性が感じられます。
コラムクイズ
出川南遺跡では、土偶(どぐう)のような顔をもつ「土偶形容器(どぐうがたようき)」や、人の顔をかたどった「人面付土器(じんめんつきどき)」が出土しています。このような土器に入れられていたと考えられるのは次の内どれでしょう。