松本市内遺跡紹介㉕ 「松本城三の丸跡~第3次調査から~」

 松本城は、本丸・二の丸・三の丸の3つの郭と、それぞれの郭を囲む内堀・外堀・総堀の3重の堀で構成される平城です。天正18(1590)年に石川数正が松本へ入封し、子の康長と二代にわたり、天守や太鼓門の築城や城下町の整備を行いました。後に松本へ入封した松平直政によって、月見櫓・辰巳附櫓が増築され現在の姿となりました。
 三の丸は、家老をはじめとする役職についている家臣の屋敷が建ち並ぶエリアです。現在の大名町通りや市役所は三の丸内に位置しています。江戸時代には三の丸から内側は許可された人以外は自由に通行することができませんでしたが、明治3(1870)年になって、大手橋(現在の千歳橋)を通って三の丸(大名町)へ自由に入ることができるようになりました。

絵図で見る松本城の構成

絵図で見る松本城の構成(クリックで拡大します)

三の丸跡第3次調査(新博物館建設地)

 第3次調査の調査地は、大名町通り西側の南端部に位置します。ここは今月開館する松本市立博物館が建っている場所です。この発掘調査は、新博物館建設にあたり既存の市営駐車場が解体されたことにより令和元年に行われました。
 調査の結果、地表面から10~50cm程の深さで明治時代前半の生活面(第1面)が見つかり、またその下には江戸時代の生活面(第2面)や戦国時代末頃(16世紀末~17世紀初頭)の生活面(第3面)も確認できました。

~第1面 明治時代前半~

 明治9(1876)年、この場所には「本願寺松本別院」が置かれ、本堂・庫裏・表門などが建てられました。しかし、明治21年に南深志の大半が焼失したとされる松本町最大の大火「極楽寺の大火」によって焼け落ちてしまいます。発掘調査では、大量の瓦や赤く焼けた土が見つかりました。本願寺松本別院はその後同じ場所に再建されたものの、昭和30(1955)年頃に蟻ケ崎へ移転しました。

明治の大火で形成された火災層

明治の大火で形成された火災層

~第2面 江戸時代~

 この第2面からは、水道遺構や大きな池や畑の跡が見つかったほか、可愛らしい土人形やミニチュアの建物が出土しました。
 冒頭や過去のコラムにも記載をしていますが、松本城三の丸には松本藩に勤めていた家臣らが居を構えていました。最近では、松本城南・西外堀復元や内環状北線の整備に伴い土居尻を中心に三の丸の発掘調査が進んでいます。その調査結果から、屋敷自体の痕跡や屋敷の境となる溝や塀の跡、水道遺構の発見により、絵図でしかわからなかった屋敷の実態、また陶磁器や箸、下駄といった出土遺物から当時の生活の様子を知ることができました。

池状・畝状遺構

池状・畝状遺構

令和5年10月7日、ついに開館!新松本市立博物館!

 松本市立博物館は、松本尋常高等小学校(開智学校)内にできた『明治三十七、八年戦役紀念館』にはじまり、名称や所在地が変わりながらも現在まで多くの収蔵資料を保管し、松本の歴史や民俗を伝えてきました。ちなみに長野県内の登録第一号博物館で、県内の博物館施設を見ても開館年が古く歴史のある博物館です。
 旧市立博物館は、過去から現代へと時代順に展開する「通史展示」の方法を用いて常設展示が構成されていましたが、新松本市立博物館では「テーマ展示」とし、「お城のあるまち」、「にぎわう商都」、「ともにある山」など8つのテーマを基に展示が構成されます。市民や市外から来る方にも松本という地を知ってもらえるような展示になっているので、ぜひ見学してみてください。
新博物館のホームページ

新博物館外観

新博物館外観

 

コラムクイズ

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