考古博物館雑記④ 「埴原の牧」

 考古博物館のある中山地区は、古代には朝廷直轄の御牧(みまき)「埴原牧」が設置され、朝廷に献上される多くの馬が飼育されていました。中山古墳群や市内古墳からは馬具が出土しています。
 今号は信濃十六牧のひとつとされる「埴原牧」と古代における馬との関わりについて紹介します。

埴原の牧とは

 牧とは、馬や牛を放牧して飼育するための場所を言います。『日本書紀』天智天皇7(668)年には、「多くの牧を置き、馬を放した」とあり、文武天皇4(700)年には、諸国に牧を設置することが命じられています。延暦16(797)年には、牧を管理する役人(監牧、のちの牧監)に、埴原牧田6町が公廨田(官庁の諸経費に充てた田)として与えられています。そして、延長5(927)年に編纂された『延喜式』には、左右馬寮の所管で朝廷に馬を献上する「御牧」のうち、信濃に設置された十六牧のひとつに「埴原牧」の名が記されています。
 埴原に御牧が設置された理由として、すでに馬の飼育が盛んだったこと、埴原が古代の東山道に近いことが考えられます。育てた馬を都に運び、または騎馬として戦闘に参加するためには、交通至便の地であることが重要になります。
 また、中山地区南埴原の千石と古屋敷の地籍には傾斜地を6段に造成した土地があり、「繋飼場跡」とされています。繋飼場とは、放牧を終えた冬季に馬を飼育し、都に送る前に調教するための場所です。特に千石の繋飼場跡は、上段と両側に堀が残されており、南側の堀は二重になっています。これは馬が逃げないようにするためのもので、全国的も珍しい牧場遺構と言われています。

埴原繋飼場跡

埴原繋飼場跡

 現時点では、牧に関わる人々の集落などは見つかっていません。しかし、寿地区にある小池遺跡では、往時では大変貴重な“緑釉陶器”が出土し、豊かな経済力を思わせるほか、大型掘立柱建物跡が見つかっています。そのため、牧の運営で財を成した人物が、普段は小池遺跡で生活を送っていた可能性が指摘されています。

小池遺跡建1復元図南西から

小池遺跡建1復元図南西から

松本市内で出土した馬具

 6世紀から7世紀末の古墳時代後期に築造された中山古墳群からは、轡や金具などが出土していますが、装飾性の低い、実用的な馬具がほとんどです。特に、環状鏡板付轡は、古墳時代後期に統一形式としてつくられた、実用的な馬具と言われています。
 しかし、鍬形原古墳(中山15号墳)では、やや装飾性の高い、金メッキの施された楕円形鏡板付轡や杏葉が副葬品として出土しています。そのため、中山古墳群には、馬の飼育と騎兵とを兼ねた人々が埋葬されており、その中でも、鍬形原古墳には、リーダー格の人物が埋葬された可能性が考えられます。しかし、中山古墳群は、破壊や盗掘によって詳細が明らかでないものも多く、全容解明には至っていません。

中山15号墳出土の馬具

中山15号墳出土の馬具

 中山古墳群以外でも松本市内の古墳からも、馬具が出土しています。注目すべきは、入山辺地区の南方古墳です。金銅張で透かし模様のある杏葉や大きな壺鐙などの馬具が出土しています。また、馬具とともに、勾玉などの玉類、直刀や鉄鏃などの武器類など、他の古墳に比べ圧倒的に多くの副葬品が出土しています。
 また、平田里第1号古墳では、周溝から楕円形鏡板付轡が出土し、伊那谷で見られるような、馬の殉葬が行われた可能性も考えられます。
 古墳に副葬された馬具から、馬を保有することは権威の象徴であり、墓まで馬具を持っていくほど馬は大切な存在であったことがわかります。

南方古墳出土の馬具

南方古墳出土の馬具

馬具名つき馬絵

馬具名つき馬絵(クリックで拡大します)

日本列島にやってきた馬

 中国の書物、いわゆる「魏志倭人伝」には「其の地には牛・馬無し」との記述があり、3世紀の卑弥呼の時代には、日本には馬はいなかったと言われています。日本に馬が伝えられたのは、5世紀に入り、日本が朝鮮半島をめぐる戦闘に関与する中で、日本(倭)の武力強化のために、朝鮮半島から馬とともに馬飼集団がやってきたことによるものだと考えられています。
 実際に、5世紀前半には古墳の副葬品に馬具が用いられるようになり、河内(大阪府)や信濃で馬の飼育が始まったと言われています。信濃では、飯田市の伊那谷地域で、5世紀前半から後半にかけての馬の墓が発掘されています。1つの古墳の周囲に8頭もの馬が埋葬されている例もあり、この時期に伊那谷において馬の飼育が盛んに行われ、人の死に際して馬を殉葬させる習慣があったと考えられています。

 

考古博物館で作成した埴原の牧への行き方案内です。ご活用ください。
埴原の牧への案内

 

コラムクイズ

日本列島にやってきたころの馬の大きさ(体高)はどのくらいといわれているでしょう。

3つの中から選択してください

発掘された松本2022⑦ 「出川南遺跡第29次調査」

 前回(発掘された松本2022⑥ 「松本城二の丸跡第9次調査」)に続き、発掘された松本2022の調査結果を紹介していきます。今回は出川南遺跡第29次調査です。

出川南遺跡第29次調査

 出川南遺跡は、南松本駅周辺から南西に広がる広い遺跡で、今までの調査で、古墳時代を中心に600軒以上の住居跡や埴輪が置かれた古墳、弘法山古墳との関連を示す東海地方の特色を持った土器が見つかっている大集落の遺跡です。
 今回の調査地は遺跡の中心部分にあたる箇所の調査でしたが、人が生活した痕跡はほとんど確認することはできませんでした。そのかわりに今回の調査では、①非常に緩やかな水の流れによって生成された湿地帯の存在、②南西から北東に向かって流れたと見られる大規模な自然流路の存在、そして湿地帯と自然流路の存在によって古墳時代の大規模集落の中心地にもかかわらず人の住めない場所になっていたことがわかりました。

第29次調査の調査地図

第29次調査の調査地図

西から見た調査地の様子

西から見た調査地の様子

 自然流路から見つかった石を調べたところ奈良井川系統であることがわかりました。また、この流路からは数は多くないものの須恵器が出土しました。流路の上流方向で古代の遺構が見つかっていることから、そこから流れてきたものの可能性があります。

流路から出土した須恵器片

流路から出土した須恵器片

 調査の結果、この自然流路は古代以前の穴田川の旧流路である可能性があることがあわかりました。現在は小さな流れの穴田川ですが、過去には幅の広い大きな川であったのではないかと考えられます。

 

※次回更新は8月1日です。8月1日号より毎月1回の更新となります。

ミニコーナー展示「松本市内の古墳と出土品」を開催しています

 長野県立歴史館で開催される企画展「主張する古墳~新たなシナノの古墳時代像~」へ、考古博物館でも常設展示している「弘法山古墳の出土資料(鏡や一部の土器や鉄器)」を貸出することとなりました。(企画展部分のリンクから長野県立歴史館のホームページへ移動できます。)
 資料貸出に伴い、弘法山古墳出土資料を展示していたスペースを活用し、普段常設展示を行っていない“松本市内の古墳”から出土した資料を解説パネルとともに展示・紹介しています。
 期間限定の公開となりますのでぜひこの機会にご覧ください。

 

会 場:松本市立考古博物館 常設展示室(弘法山古墳コーナー)
会 期:令和5年6月7日(土)~9月3日(日)
※月曜休館(休日の場合は翌日休館)
料 金:通常観覧料(大人200円、中学生以下無料)
展示資料:普段展示を行っていない市内古墳(柏木古墳・針塚古墳・安塚秋葉原古墳・塚山古墳)からの出土品

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発掘された松本2022⑥ 「松本城二の丸跡第9次調査」

 前回(発掘された松本2022⑤ 「松本城三の丸跡土居尻第16次調査」)に続き、発掘された松本2022の調査結果を紹介していきます。今回は松本城二の丸跡第9次調査です。

松本城二の丸跡第9次調査

 松本城二の丸にある松本市立博物館の解体に伴い、周辺遺構の残存状況を調査するために実施されました。松本市立博物館は、昭和43(1968)年に建設され、「日本民俗資料館」の名称で開館しました。その後、松本市立博物館へ名称が変更し50余年にわたり二の丸の地で松本の郷土と歴史を伝えてきました。
(松本市立博物館は施設老朽化に伴い、新館の建設及び移転のため令和3年3月で閉館となり、新しい松本市立博物館は令和5年10月にオープン予定です。)

調査の様子

調査の様子

 調査の結果、博物館西側からは現在の建物が建設される前の地表面が確認されました。瓦が出土し、「昭和弐拾八年修補」と刻印されていたことから、博物館の隣にあった動物園が設置された昭和28年から現在の建物が建設された昭和43年までの地表面であると考えられます。
 松本城外堀に隣接する博物館南側でも、同様の整地面が確認できましたが、松本城の土塁や辰巳隅櫓に関する遺構・遺物は確認できませんでした。

出土した瓦

出土した瓦

発掘された松本2022⑤ 「松本城三の丸跡土居尻第16次調査」

 前回(発掘された松本2022④ 「松本城三の丸跡土居尻第15次調査」)に続き、発掘された松本2022の調査結果を紹介していきます。今回は松本城三の丸跡土居尻第16次調査です。

松本城三の丸跡土居尻第16次調査

 土居尻は、松本城三の丸のうち史跡松本城跡の南側、大名町の西側の一帯で、江戸時代には松本藩の武家屋敷地のうち中級家臣の屋敷地として利用されてきた場所です。
 第16次の調査地は、南外堀の道を挟んだすぐ南側の屋敷地にあります。江戸時代の絵図に重ね合わせてみると、調査地の西半分は竹中氏の屋敷地、東半分は二宮氏の屋敷地にあたります。

絵図で見る土居尻の調査位置

絵図で見る土居尻の調査位置

 調査の結果、江戸時代の地面では、建物跡やごみ穴、屋敷境と考えられる溝跡が見つかり、当時使用された陶磁器などの遺物が出土しました。調査区の西部には2~3cm大の礫を敷き詰めたような石敷き遺構が見つかりました。これは屋敷跡との位置関係から玄関や建物の出入り口付近がぬかるまないように敷かれたものと考えられます。また、遺構密度が高くないことから屋敷地は江戸時代をとおして大きく変わっていないことがうかがえます。

石敷き遺構

石敷き遺構

 もともと湿地帯であった調査地周辺に、砂や粘質土などの土を混ぜた版築土で盛土造成されていることがわかりました。この造成土に16世紀末~17世紀初頭に生産された瀬戸焼が混入していたため、小笠原貞慶か石川数正・康長が城主時代に三の丸を整備した際の造成土であると推定されます。この時代の文献資料は少なく、今回の成果は松本城形成について理解する上で重要な手がかりになると期待されます。
 
 さらに、三の丸形成以前の地形は、9世紀頃までは小川が流れ、16世紀中頃~末にかけて水草が生育する泥深い沼地のような環境であったことがわかりました。三の丸として整備されるまで長らく水辺であり、人が住めるような場所ではなかったとうかがえます。
 また、今回の調査の結果、沼地になる直前に小川で何らかの祭祀を行った形跡が見つかりました。小川の川底からこけら経や笹塔婆といった木製品や人骨・獣骨が出土しました。生活道具がほぼ確認できなかったことからこの一帯は何らかの祭祀を行った空間であったと考えられます。

獣骨出土の様子

獣骨出土の様子

発掘された松本2022④ 「松本城三の丸跡土居尻第15次調査」

 前回(発掘された松本2022③ 「松本城三の丸跡土居尻第14次調査」)に続き、発掘された松本2022の調査結果を紹介していきます。今回は松本城三の丸跡土居尻第15次調査です。

松本城三の丸跡土居尻第15次調査

  土居尻は、松本城三の丸のうち史跡松本城跡の南側、大名町の西側の一帯で、江戸時代には松本藩の武家屋敷地のうち中級家臣の屋敷地として利用されてきた場所です。
 第15次の調査地は、西不明門(にしあかずのもん)に隣接する屋敷地や総堀、土塁にあたります。

絵図で見る土居尻の調査位置

絵図で見る土居尻の調査位置

 調査の結果、江戸時代中頃以降に調査地一帯で盛土造成を行い、武家屋敷地として利用され始めたことがわかりました。また、屋敷を建て替える際は、整地土を削平した後に同じように整地したことがわかり、今回の調査では幕末の整地土のみが残っていました。今回の調査地から近い第6次調査でも同様の盛土造成が確認されており、土居尻地区の北西部は地形に起伏があり、屋敷地を造るためには造成工事が必要であったことがうかがえます。
 
 武家屋敷地の幕末の地面を削ると江戸時代後半のゴミ穴跡、塀の基礎、半地下状遺構、水道施設跡といった遺構が確認できました。半地下状遺構は長方形状に丁寧に掘られており、貯蔵用等のために掘った半地下状の蔵である可能性があります。松本城近辺の調査ではこうした遺構は初めて見つかりました。
 また、特筆すべき遺物として“金箔カワラケ”がゴミ穴跡から出土しました。金箔カワラケは中世の頃から饗宴の場や特別な儀式の際に使用される酒器です。全国的にも出土例は少なく、大名クラスの城・居館等での出土が確認されています。

金箔カワラケ

金箔カワラケ

 江戸時代の盛土造成土を除去すると松本城築城以前の地面が見つかり、石組みの井戸跡だけが見つかりました。この井戸跡は直径(内径)約65cm、深さ約3mで石を丁寧に積んで造っている様子がわかります。井戸の底は湧水の多い砂礫層まで掘り下げていました。井戸跡から遺物が発見できなかったためいつ造られたのかは不明ですが、周辺の調査成果から古代から中世にかけてのものと考えられます。

石組みの井戸跡

石組みの井戸跡

発掘された松本2022③ 「松本城三の丸跡土居尻第14次調査」

 前回(発掘された松本2022② 「史跡松本城南外堀第5次調査」)に続き、発掘された松本2022の調査結果を紹介していきます。今回は松本城三の丸跡土居尻第14次調査です。

松本城三の丸跡土居尻第14次調査

 土居尻は、松本城三の丸のうち史跡松本城跡の南側、大名町の西側の一帯で、江戸時代には松本藩の武家屋敷地のうち中級家臣の屋敷地として利用されてきた場所です。
 昨年度から継続して実施されている第14次調査。今年度は昨年度の東側を調査しました。この調査地は、幕末には木村家・西郷家両家の屋敷として、古絵図にも記載のある箇所です。

南外堀の調査地

南外堀の調査地

 木蓋を伴う木組み水路が確認されました。正確な用途は不明ですが、現在の道路と直交していること、近世の陶磁器片・木製品などが出土していること、大きな掘り込みであることなどから、木村家・西郷家の屋敷境、あるいは大名小路と土居尻町の町境といった可能性が考えられました。しかしその位置は江戸時代の各絵図とは異なるため、描かれなかった屋敷境があったのかもしれません。

木組み水路

木組み水路

発掘された松本2022② 「史跡松本城南外堀第5次調査」

 前回(発掘された松本2022① 概要と「史跡弘法山古墳第4次」)に続き、発掘された松本2022の調査結果を紹介していきます。今回は史跡松本城南外堀第5次調査です。

史跡松本城南外堀第5次調査

 南・西外堀復元事業に伴い、南外堀の範囲や構造を確認するために二の丸から三の丸までを横断する発掘調査を実施しました。二の丸から三の丸までを横断する調査は今回が初めてとなります。
 松本城を構成する外堀の明確な成立時期は不明ですが、おそらく築城期に整備されたものと考えられます。明治時代になり、松本城が政庁・軍事的拠点としての役目を終える中で、外堀の一部が大正8(1919)年から昭和初年にかけて埋め立てられ、宅地化しました。

南外堀の調査位置

南外堀の調査位置(クリックで拡大します)

 調査地南端から、三の丸側の岸(南外堀と三の丸との境界)に設置されていた石垣が出土しました。石の面が揃えられており列をなしていることから設置された当時の位置を保っているものと思われます。また、過去の調査で見つかっている三の丸側の石垣の出土地点を結ぶことで、過去の調査結果から推定されていた外堀ラインと重なり、南外堀の三の丸側の岸が確認できました。
 横断調査の結果、南外堀は大正時代からの埋め立て層と外堀の堆積層の2層に分かれていることがわかりました。今回の調査地点では、南外堀の最大深度が現在の地表から3m程度であることがわかりました。また、堀底の形も判明しました。これまでは三の丸側が深くなっている「片薬研堀」であると考えられていましたが、横断調査の結果「箱堀」であることがわかりました。

南西から見た調査区の様子(赤い線は堀の底)

南西から見た調査区の様子(赤い線は堀の底)

発掘された松本2022① 概要と「史跡弘法山古墳第4次」

令和4年発掘調査の概要

 令和4(2022)年の発掘調査では、これまでに続いて松本城周辺の調査が精力的に進められ、かつての松本城の姿や築城以前の様子を紐解く手がかりとなる発見がありました。
 また、長野県埋蔵文化財センターによる松本波田道路建設に伴う調査では、波田地区、島立地区で、新たな古墳や中・近世の墓群、古代の集落が発見され、注目が集まりました。
 今回は一昨年より実施されている弘法山古墳第4次調査を紹介いたします。次回以降も数回にわたり、令和4年発掘調査の速報をお届けします。

史跡弘法山古墳第4次調査

 弘法山古墳の再整備に向けて、令和2年度から継続して調査が行われています。今年度は前方部とくびれ部(前方部と後方部が結合する部分)にトレンチを3カ所設定し、発掘調査を実施しました。調査では、古墳の形や規模などを明らかにするために、土の違いを観察しながら、古墳が造られた後に堆積した土を取り除いています。

発掘調査位置図

発掘調査位置図(クリックで拡大します)

 古墳の前方部の形状は、台形の他に、撥形(ばちがた)や柄鏡形が見られます。弘法山古墳の前方部がどのような形状かを確認するために設定したFトレンチでは、古墳の築造後に堆積した土や大量の石を取り除いたところ、古墳の上面、墳裾部の様子やくびれ部の形状が明らかになりつつあります。

Fトレンチ 作業風景

Fトレンチ 作業風景

松本市内遺跡紹介㉓ 「岡田地区の遺跡~塩倉池遺跡・塚山古墳群~」

 岡田地区は、縄文時代から中世(鎌倉・室町時代)にかけて多くの遺跡が分布しており、中でも縄文時代と平安時代の遺跡が多数見つかっています。
 縄文時代では、早期から晩期までの遺構・遺物が発見され、長い年月にわたって集落が営まれていたことがうかがえます。また、平安時代には田溝池周辺に須恵器を生産した窯跡・北部古窯址群(ほくぶこようしぐん)が広がり、県下最大級の須恵器生産地帯でした。そして、土師器焼成坑(はじきしょうせいこう)や粘土貯蔵用土坑の存在から、地区内には土師器を生産していた集落もあったと考えられ、岡田地区の奈良・平安時代は北部古窯址群の須恵器生産とともに集落が変遷していったと推定されます。

塩倉池遺跡

 塩倉池遺跡は岡田地区の下岡田にある塩倉池の周辺一帯に広がる遺跡です。
 過去4回発掘調査が行われており、縄文時代中期から後期後半にあたる遺物を中心に、旧石器時代から平安時代までの長期間にわたる遺構・遺物が発見されています。
 第1次調査は平成7(1995)年に行われ、発掘対象面積20㎡と狭い範囲ながら縄文時代の敷石住居址1軒と土坑1基、後期堀之内式と思われる埋甕と炉胎土器を含む土器、石製品が確認されました。
 第2次調査は平成10年に市道の拡幅工事中に法面から遺構と遺物が発見され、法面観察中心の調査で調査範囲は8㎡にとどまりました。縄文時代中期と考えられる竪穴住居址1軒と土坑7基、縄文時代の土器と石器、古墳時代の竪穴住居址2軒、古墳時代の土器が発見されました。
 第3次調査は平成13年に行われ、66㎡にわたって調査が行われましたが、縄文時代と思われる土坑2基と少量の縄文土器と須恵器片が出土したのみとなりました。
 第4次調査は特別養護老人ホームの移転改築に伴い平成16年に行われました。調査範囲内には現存する塚山古墳がありましたが事業地に含まれるため古墳の記録保存を主たる目的として調査が行われました。
 古墳以外の遺構としては、縄文時代中期とみられる竪穴住居址含む計5軒と土坑3基、ピットや溝址・溝状遺構が確認されました。竪穴住居址のうち3軒は埋甕炉を伴っており、2基の埋甕炉が切りあって出土した住居址も確認されました。この住居址は覆土中に多量の炭化物が含まれており、少なくとも一度は建て替えが行われ、埋没過程中に炭や焼土の廃棄に利用されたと考えられます。また、この集落は塩倉池遺跡で初めて確認された集落でもあります。
 遺物は古墳周溝から出土したものが多く、住居址からは縄文土器、石器が出土しました。浅鉢や深鉢などが出土しているものの小片が多く接合できたものは5点のみでした。

第4次調査 調査区全景(右が北)

第4次調査 調査区全景(右が北)

塚山古墳群

 古くから「塚山」と呼ばれているように古墳がある場所として知られていました。1号墳のみ残されていましたが、かつては南側にもう2基存在し、明治15(1882)年頃に発掘され刀が2本出土したとされています。
 今回の調査により、かつて存在していたとされる2基の古墳の場所が特定され、1号墳も予想より大きいことが判明しました。1号墳は直径30mの松本市内でも有数の大型円墳であり平田里1号墳に次いで2番目に大きい円墳となります。
 
 1号墳は、墳丘が唯一残されていた古墳で、築造以来徐々に周囲から削平されたようで、調査前は直径7m、高さ1m余りの小さな墳丘が残されているだけでした。記録に残るところでは大正年間に墳丘が破壊されたとされ、長野県史には「鉄剣1、鉄鏃10、勾玉2、管玉2」が出土したと記載されています。
 遺物は墳丘と周溝から出土しました。墳丘からは縄文土器、土師器が出土していますが、これらは古墳築造時もしくは、後世の開墾などの際に混入したと考えられます。周溝からは多数の土師器と須恵器、石器、鉄器が出土しています。須恵器は土師器に比べ接合資料も多く良好な資料が得られましたが、中でも特に樽型ハソウは県内では2例目となる貴重な出土品です。石器は縄文時代と思われるものが多く混入しており、埋没過程で混入したのではないかと考えられます。

樽型ハソウを含む出土した須恵器

樽型ハソウを含む出土した須恵器

 2号墳は1号墳の南に隣接し、墳丘、主体部は失われており、周溝のみが残っていました。場所から判断して明治15年に発掘された古墳の一つであると考えられます。周溝はほぼ円形で、南西部分に幅4mの開口部をもちます。周溝の外周は直径約15m、幅は約2mで、1号墳に比べて全体の幅が一定しています。2号墳の周溝からは土師器が数多く出土しました。壷が多く、そのほぼ全てが二重口縁を持ちます。これらの壷はミガキがほとんど認められず、ハケのみで調整しており、法量や器形が定量化しているため、被葬者のために特別に作られた可能性も考えられます。
 3号墳は2号墳の南東に位置します。2号墳同様に墳丘、主体部は失われており、周溝のみが検出され、こちらも明治15年に発掘された古墳の一つであると考えられます。1号墳、2号墳よりやや東寄りに造られており、東側は農作業用の道路が通っているため調査ができなかったものの、周溝の外周は約14m、幅は約3mで巡るほぼ円形をし、南西部分に幅6mの開口部をもちます。3号墳は開口部の位置や周溝の規模、その形状など2号墳と非常に類似しています。3号墳から出土した遺物は少なく、僅かな量の土師器と須恵器、石器が出土したのみでした。石器は縄文時代のもの、須恵器は9世紀頃のものと考えられ、混入品と考えられます。
 
 これらの古墳3基ともに、出土した遺物から見て古墳時代中期、5世紀代に築造された古墳と考えられます。

出土した土師器

出土した土師器