考古博物館雑記③ 「中山地区に誕生した考古館」
中山考古館は、昭和32年から昭和61年まで中山小学校校地の南端に開館していた博物館で、松本市立考古博物館の前身施設にあたります。昭和61年に松本市立考古博物館が開館した後は、埋蔵文化財発掘機材の保管庫として活用されてきましたが、老朽化が進んだためやむなく令和3年8月に解体されました。
今号では、中山考古館のあらましと松本考古学の原点とも言われる中山地区と考古学の関係性を紹介いたします。
中山考古館の設立
松本市中山地区は、古くから縄文時代の遺跡や古墳の存在が知られており、住民が耕作中に土器片などを見つけることも多くありました。大正時代には出土品を文化財として保護しようという動きが始まり、中山尋常高等小学校内の一室に考古室が設置されました。設立時の展示品は、地元住民から寄贈されたものが多かったようです。
昭和20年代になると住民からの寄贈資料が増えたこともあり、考古室を中山小学校から独立させ、新しく博物館を開館させようという動きが始まります。昭和29年に中山村が松本市と合併した後もこの動きは引き継がれ、松本市立博物館の分館として中山考古館を新築することになりました。
昭和32年7月に中山小学校南側の校地の一角に、瓦屋根・白壁の中山考古館が新築開館しました。開館に先立ち三笠宮殿下が見学に訪れ、地区の公民館報でも特集記事が掲載されるなど、当時の人々の喜びはたいへんなものでした。
中山考古館には、市内の小学校児童や考古学の研究者など多彩な人々が訪れ、昭和61年に新築された松本市立考古博物館にその役割を譲るまでの29年間、地域の考古学の拠点としてその役割を果たしました。
松本考古学の原点、中山
明治時代には、古墳や遺跡からの出土品をはじめとする考古資料は骨董として売買の対象になり、副葬品が持ち出されてしまう盗掘被害が全国各地であったとされます。(中山古墳群の古墳も盗掘の被害にあっており、発掘時に副葬品がないという事例が確認されています。)そんな中で大正時代に幹線道路の拡幅工事により工事対象範囲に入っていた柏木古墳は破壊されることとなりました。未盗掘であった柏木古墳は中山村の有力者が中心となり発掘調査が行われ、石室内から勾玉や須恵器といった多量の副葬品が出土することとなりました。それらの出土遺物は村外から購入希望がありましたが、住民は、地元で保存すべきと当時の村長に働きかけ、その結果、柏木古墳出土品は中山尋常高等小学校内の考古室に収められることとなりました。
この他にも住民が農作業中等に手にした土器片などが寄贈され、これらの寄贈資料には、「坪ノ内」「桜立」「弥生山」というように出土した場所や古墳の名前が毛筆で書かれ保管されてきました。考古室は住民たちの手元にあった出土品、いわば「村のたから」を収めた大切な、そして中山村の誇れる一室として「中山考古館」の名で誕生し、第二次世界大戦後に至るまで多くの人々に地域の歴史を学べる場として活用されました。
中山考古館に出土品を託した住民の心の中には、出土品を地域の誇りとして残したいという気持ちとともに、刻々と変わりゆく中山村にあって、在りし日の古墳の記憶をすこしでも残したいという気持ちも込められていたのではないでしょうか。
コラムクイズ
中山地区二山から珍しい出土品が発見されています。それはなんでしょう。