常設展展示紹介⑪ 「松本の古墳時代2」

松本市内の古墳

  古墳時代前期、松本市内ではこの時期の古墳は非常に少なく弘法山古墳と中山36号墳が知られているだけです。続く古墳時代中期には、城山、浅間、里山辺、出川など開発が進んだ地域に古墳が作られました。
 古墳時代後期には、入山辺には大きな横穴式石室をもつ南方古墳が作られ、中山には小さな古墳が盛んにつくられ、墓地として利用されました。
 古墳時代の終わり頃になると、奈良井川西岸域の開発を進めた人々の墓と考えられる古墳群が新村地域につくられています。

弘法山古墳

  3世紀前半から7世紀まで、大規模な墳丘を持つ豪族の墓・古墳が全国で造られました。
 弘法山古墳は全長60メートルを超す松本市内最大の前方後方墳です。3世紀末、古墳時代の初めに造られた東日本でも最古級の古墳の1つです。中山丘陵の尾根の先端に位置し、墳頂部からは松本平を一望できます。
 遺体を納めた竪穴式の礫槨(れきかく)の内部には、鉄器(剣・鏃・工具)・青銅器(鏡・鏃)・ガラス小玉が副葬され、被葬者の力の強さがうかがえます。

史跡弘法山古墳 遠景

史跡弘法山古墳 遠景

鏡とガラス小玉(弘法山古墳)

鏡とガラス小玉(弘法山古墳)

 

コラムクイズ

古墳には主な形が4種類(前方後円墳、前方後方墳、円墳、方墳)あります。
弘法山古墳はどんな形の古墳でしょうか。

3つの中から選択してください

秋季企画展「わが地区の逸品 新村地区の遺跡」(10月3日~11月29日)

毎年、市内の各地域の遺跡を紹介している企画展「わが地区の逸品」。今年は新村地区を紹介します。

新村地区は梓川によってつくられた肥沃な土と、豊富な水に恵まれた稲作地帯です。

安塚古墳発掘の様子

安塚古墳発掘の様子

室町時代の説話「ものぐさ太郎」の中に「あたらしの郷」の名が出てきますが、中世すでにこの地区が豊かな里であることが都まで知れ渡っていたのかもしれません。地区内の遺跡発掘調査で見えてきた、奈良時代から中世までの歴史や、遺跡から発掘された「逸品」をご紹介します

 

会期:10月3日(土)~11月29日(日)

休館日:月曜日(休日の場合は翌日)

会場:松本市立考古博物館 第2展示室

料金:大人200円、中学生以下無料(団体20人以上で150円)

お問い合わせ:考古博物館まで(86-4710)

考古博物館ニュース② 「学芸員のおすすめ資料」

有孔鍔付土器

  有孔鍔付土器とは、縄文時代中期に発達した大型のつぼ形の土器です。口縁部(つぼの口の部分)につばがあり、この部分の近くに小孔列(小さな穴の列)がうがたれているのが特徴です。酒造などに用いられたともいわれ、また、太鼓として使われたという説もあります。
 画像にある資料は口縁部と底部が欠けているものの、ほぼ完形で、たる形とはち形の中間の形です。土器の内部には、赤色塗料が塗られた痕跡が残っています。

有孔鍔付土器(大村塚田遺跡)

有孔鍔付土器(大村塚田遺跡)

柏木古墳出土の装身具

  柏木古墳は大正14年(1925)に道路を広げる工事の時に偶然発見された古墳です。古墳は残っていませんが、石室の図面が描かれ、当時としては珍しく学術的に行われた発掘でした。出土品はすべて地主の小笠原氏の所有でしたが、購入の要望があり、出土品が村を離れる危機が訪れました。昭和6年(1931)、出土品は中山村に100円で買い取られ、中山考古館に寄贈されました。当時、主な産業の養蚕が不況で村の財政状態は悪く、出土品に高額なお金を使う決断をするのは容易ではなかったでしょう。私たちがこの出土品を現在見ることができるのは、村民たちの文化財を守る強い思いがあったからといえます。

柏木古墳出土の装身具

柏木古墳出土の装身具

 

コラムクイズ

写真は中山小学校の校舎に掲げられている校章です。昭和24年(1949)に作られたこのデザインは、都に献上する馬を育てた埴原牧と、古墳から出土した遺物をデザインの中に取り入れています。デザインに用いられた遺物は矢じりと管玉のほかにもう一つありますが、それは次のうちどれでしょう。

中山小校章

3つの中から選択してください

常設展展示紹介⑩ 「松本の古墳時代1」

古墳文化のはじまり

  古墳時代は、弥生時代に続き3世紀末頃から7世紀頃までの古墳が盛んにつくられた時代です。古墳は大王(おおきみ)や豪族が自分のために造った大きな墓で、前方後円墳はその代表的なものです。また、この時代は大和朝廷を中心とする政治権力が強まり、地方の豪族と手を結ぶことでクニをまとめ、国家が造られていきました。
 人々は竪穴住居に暮らしていましたが、5世紀には大陸から新しい文化が伝わって、カマドで炊事をしたり、弥生時代前にはなかった個人の使う食器が登場したり日常生活に変化がおきました。また、農具や土木技術の発達によって土地の開発も進みました。

松本の古墳時代

  古墳時代の前期(3世紀から4世紀頃)の松本では、ムラは小さくあちこちに散在していました。しかし、中期(5世紀から6世紀頃)になると、水田に適した湿地のまわりに大きなムラが作られます。この頃から竪穴住居にカマドが設けられ、人々の生活も大きく変わっていきました。さらに、後期(6世紀初めから7世紀半ば頃)には、水を引く技術の進歩によって開発が進み、各地に大きなムラが次々と現れます。家や倉庫として使われた、新しい建物(掘立柱建物)も建てられるようになっていきました。

古墳時代のムラ(出川南遺跡の想像図)

古墳時代のムラ(出川南遺跡の想像図)

 

コラムクイズ

古墳時代の焼物に「須恵器」があります。須恵器は古墳時代中期に朝鮮半島から伝えられ、専門の職人によって窯で焼かれました。「須恵器」の読みはつぎのうちどれでしょう。

須恵器(平田里古墳)

3つの中から選択してください

常設展展示紹介⑨ 「弥生時代の葬送」

 人間だれにでも死が訪れ、死者を弔(とむら)うことは、先祖との繋がりを維持するための非常に大切な儀礼(ぎれい)です。弥生時代には、松本でも新しい葬送儀礼(そうそうぎれい)が現れます。

再葬墓って何?

 再葬墓とは、壺のなかに遺骨を納め、1つの穴にいくつもの壺を埋めたお墓です。壺のなかに複数人の骨が納められることもあります。縄文時代末から弥生時代初めの東日本でみられるもので、針塚遺跡では、5つの墓穴に16個の土器が納められていました。
 縄文時代から土器に遺骨を納める習慣はありました。土器を母親のお腹の中にみたて、遺骨を入れることで、もう一度産まれることを意味するのではないかと考えられています。同じ穴に複数の壺を埋めることは、家族と同じ墓に入ることと同様に、先祖との繋がりを大切にしていたからだと言われています。

再葬墓の出土状況(針塚遺跡)

再葬墓の出土状況(針塚遺跡)

礫床木棺墓(れきしょうもっかんぼ)

  針塚遺跡のような再葬墓は、弥生前期から中期前半までの約100年間の限定的なものです。その後は、この地域(弥生時代中期の長野県と群馬県)に特有の礫床木棺墓などが主流になります。穴の底に小石を敷き詰めた上に木棺を設置する形式のお墓です。
 横田古屋敷遺跡の礫床木棺墓からは、6~10歳、20~39歳、40~59歳の3人分の骨が出土しました。いずれも、白骨化した後に火葬され、骨だけが埋葬されたようです。再葬のプロセスとの類似性が感じられます。

礫床木棺墓(横田古屋敷遺跡)

礫床木棺墓(横田古屋敷遺跡)

 

コラムクイズ

出川南遺跡では、土偶(どぐう)のような顔をもつ「土偶形容器(どぐうがたようき)」や、人の顔をかたどった「人面付土器(じんめんつきどき)」が出土しています。このような土器に入れられていたと考えられるのは次の内どれでしょう。

人面付土器(出川南遺跡)

3つの中から選択してください

縄文土器づくり講座(10月10日 11月7日)

縄文土器づくり講座

 

縄文土器、作ってみませんか?

アルバム1109○ 日 時
  成形 :10月10日(土) 9時~12時
  野焼き:11月7日(土) 9時~12時
○ 会 場
  松本市立考古博物館(体験学習室及び駐車場)
○ 参加対象(先着15名)
 ・両日参加できる方
 ・小学校4年生以上(小学生は保護者付き添いが必要)
 ・大人の方の参加も可
○ 参加料
  800円
○ 申し込み
  9月16日に定員に達しました。   
○ お問い合わせ
  松本市立考古博物館(86-4710)

考古博物館ニュース① 「空飛ぶお客様」

鳥乙?玄鳥? 夏に訪れるカップルたち

  鳥乙、玄鳥のどちらも「ツバメ」と読みます。どちらの漢字も、日常生活でよく使う「燕」と同じ鳥を表しています。さて、考古博物館では、毎年夏になると何組ものツバメのカップルが巣作りをして子育てをしています。人の出入りがあることや、比較的高い位置に巣をつくることができることなど、外敵に襲われる危険度が低い優良物件としてツバメたちに人気なのかもしれません。親ツバメと共にひなたちの成長を見守ることが考古博物館の夏の風物詩となっています。

そろそろ巣立ち(2018年撮影)

そろそろ巣立ち(2018年撮影)

緊急事態発生!

  今年も多くのツバメたちが考古博物館から巣立っていきましたが、お盆も近づく8月の早朝緊急事態が発生してしましました。成長が遅い雛が兄弟ツバメ(姉妹かもしれませんが)に押し出されて巣(5m超の高さ)から落下してしまったのです。羽ばたきで落下の衝撃を緩和できたのか、命に別状はなかったものの、自力で巣に戻ることができなくなってしまいました。
 しばらく様子を見ていると、外敵から身を守ることのできるキャビネットの下に入り込みました。また、親ツバメたちも落ちた雛に餌を運び始めました。
 アクシデントがあっても生き抜こうとする姿に感動を覚えました。そして、自然の厳しさに負けず命をつなぐ雛の姿に「私たちもコロナ禍に負けず頑張ろう!」と励まされています。何とか無事に巣立ってほしいものです。

身をひそめる雛

身をひそめる雛

考古博物館事務室外観 画像上部の壁裏から落下。画像中央のキャビネット下に雛が隠れている。

考古博物館事務室外観
画像上部の壁裏から落下。画像中央のキャビネット下に雛が隠れている。

 

コラムクイズ

古墳時代の素焼きの土製品である「埴輪(はにわ)」。古墳の墳丘やその周辺で発見されることの多い埴輪には様々な形のものがあります。中には動物の形をしたものもあります。松本市の平田里(ひったり)1号墳からも右の画像のような埴輪が出土していますが、どのような動物をかたどったものでしょうか?

平田里1号墳出土の埴輪

3つの中から選択してください

常設展展示紹介⑧ 「弥生時代の土器」

弥生土器ってどんな土器?

  1884年(明治17)、東京府本郷区向ヶ丘弥生町(現:東京都文京区弥生)から見つかった土器は、これまでに発見された土器(縄文土器)と異なった特徴を持っていました。縄文時代より上の地層で見つかったこの土器は、発見された地名から弥生式土器(現在は弥生土器)と名付けられました。
 弥生土器は、稲作文化とともに発達した土器で、縄文土器と比べて形や文様がとても簡素です。回転台を使ってつくられたことと、櫛で描いた文様が特徴です。また、弥生土器は用途に応じて、はっきりと形が決まっていました。
 ※回転台:土器の形を整えたり、土器の紋様を整えるときに使う。土器の向きを変えたり、回転させるために使う台

弥生土器 (境窪遺跡)

弥生土器 (境窪遺跡)

遠賀川式土器

 「遠賀川式土器」は福岡県遠賀川下流の立屋敷遺跡で出土した弥生土器で、出土地にちなんで名づけられました。弥生時代前期に九州から東海地方に広く分布し、弥生文化がその地域へ伝わった目安となる土器です。
 針塚遺跡からは、「遠賀川式土器」を用いた墓(再葬墓)が発見されています。

遠賀川式土器(針塚遺跡出土)

遠賀川式土器(針塚遺跡出土)

 

コラムクイズ

弥生時代中期から後期の大きなムラの跡である百瀬遺跡からは、集落の周囲に濠(深く掘り下げた堀)を巡らせた「環濠(かんごう)」の跡が発見されています。弥生時代の「環濠」の役割として考えられるのは次のうちどれでしょう?

環濠のある弥生時代後期のムラ(百瀬遺跡の想像図)

3つの中から選択してください

常設展展示紹介⑦ 「弥生時代の松本平2」

弥生時代の遺跡(針塚遺跡・百瀬遺跡)

 針塚遺跡と百瀬遺跡は松本市内にある弥生時代の代表的な遺跡です。
 針塚遺跡は松本市内では数少ない、弥生時代が始まった頃の遺跡です。弥生時代の墓(再葬墓)が5か所から発見されました。骨壺として使われた土器には遠賀川式土器や東海地方の影響を受けた土器が含まれていました。このことから、松本平の弥生文化は東海地方経由でもたらされたことがわかります。
 百瀬遺跡は松本市内の弥生時代中期を代表する集落遺跡の一つです。松本平で初めて弥生時代の家の跡が発見されたのがこの遺跡です。家の中からは中期の甕、壺、高坏などが出土しました。百瀬遺跡から出土した土器は「百瀬式土器」と名付けられ、長野県の弥生土器研究の基準の一つとなっています。

稲作がもたらした階層社会

 稲作はムラや人々の間に貧富の差を生じさせ、ムラには権力をもつ指導者が現れて社会は階層化し、土地や水をめぐるムラ同士の争いも起こるようになりました。石剣・石戈(せっか)は武器である銅剣・銅戈をまねた祭器で、出土点数はわずかです。これらの道具は支配者の権力を示すものであったのでしょう。戦いの道具といわれる磨製石鏃(ませいせきぞく)が市内の遺跡からも出土しています。

磨製石鏃(竹渕遺跡出土)

磨製石鏃(竹渕遺跡出土)

石剣(宮渕本村遺跡)と石戈(平畑遺跡)

石剣(宮渕本村遺跡)と石戈(平畑遺跡)

 

コラムクイズ

弥生時代には大陸から新しい文化がいくつももたらされましたが、弥生時代以前に日本列島に住む人々が行っていたことは次の内どれでしょう?

3つの中から選択してください

常設展展示紹介⑥ 「弥生時代の松本平1」

弥生時代のはじまり

  弥生時代、米作りが大陸からもたらされ、全国各地に広がりました。松本市内では今のところ、米作りの跡―水田跡は見つかっていませんが、稲を刈る石包丁や炭化米たんかまい(遺跡から出土する米は、土中の酸素がない状況下で黒変した籾や米ないし焼けた籾や米で、これを炭化米と呼んでいます。)が出土しており、米をつくっていたことは明らかです。
 松本市内で弥生時代がはじまった頃、人々は米作りに適した湿地を求めて移り住んでいました。弥生時代の中期の終わり頃、大きな湿地が広がる現在の市街地に米作りの適地を見つけ、本格的な稲作文化を花開かせていきました。弥生時代に松本平に生きた人々は、安定して米を作れる場所を見つけて定住した後、米作りを定着していったようです。

籾痕のある土器と石包丁(宮渕本村遺跡出土)

籾痕のある土器と石包丁(宮渕本村遺跡出土)

大陸からきた新しい文化

  米作りの技術とともに、大陸から新しい磨製石器(石包丁や伐採用の石斧など)や金属器(青銅器と鉄器)、織物の技術がもたらされました。磨製石器は松本市内でも数多く出土していますが、金属器の出土はわずかです。
 織物に関連する遺物として、布目痕のある土器や糸を紡ぐために使われた紡錘車が出土しています。糸を紡ぎ、布を織る技術によって人々の衣服も大きく変化したことでしょう。

大型蛤刃石斧(宮渕本村遺跡出土)

大型蛤刃石斧(宮渕本村遺跡出土)

 

コラムクイズ

松本市内の遺跡から銅鐸の一部が出土しています。銅鐸は金属製の釣り鐘で豊かな実りを願うマツリに使われたと考えられています。では、銅鐸の材料は次のうちどれでしょう。

銅鐸の一部(宮渕本村遺跡出土)

3つの中から選択してください