上條館長の山城案内 埴原城
埴原城 はいばらじょう(松本市中山埴原北)
昭和45年10月22日長野県史跡に指定
今回は埴原城(はいばらじょう)です。ここは山辺地区ではありませんが、昭和45年長野県史跡として認定された小笠原氏城跡群[山家城(やまべじょう)、桐原城(きりはらじょう)、埴原城]の一つです。埴原牧(はいばらまき)として馬の育成をしていた埴原氏が後に村井氏となり、村井城(むらいじょう)を築いたのですが、その詰城(つめじろ)として築かれたものだと推測されます。のちに小笠原氏の支配下となり、修築されていったと考えます。天文17年(1548)に塩尻峠(しおじりとうげ)の戦いに勝った武田晴信(たけだはるのぶ)が、村井城まで侵攻し、小笠原氏攻略のため、中山の和泉(いずみ)に陣を取ったという記述から、やはり、この時、埴原城も落ちたと考えるのが普通のような気がします。村井氏は塩尻峠の戦いで滅亡しますし、埴原城に敵兵がいながら和泉に陣を張るのは無謀です。ですから、天文19年(1550)の高白斉記(こうはくさいき)に書かれている「イヌイの城」は、戌亥(いぬい)という方角から考えても、犬甘城の方(イヌカイのカが抜けた記述と推測する考えからも)がふさわしいような気がします。
その点はこれからの研究を待たなければなりませんが、小笠原氏城跡群の重要な城であったことは間違いないと思います。北の山を越えれば、林大城(はやしおおじょう)、宮原城(みやはらじょう)などは上からの攻撃になり、ひとたまりもないので、小笠原貞慶(おがさわらさだよし)の時代に大規模な改修が行われ、大きな防御基地として考えたのではないかと思われます。いろいろな尾根筋に曲輪が数多くあり、規模が大きく、全部見て回るのはかなりの時間が必要です。
埴原城の全景です。右に見える赤い屋根が蓮華寺(れんげじ)になります。ここを目指して進みます。
松本市街地から中山地区に向かって車を進めてください。中山小学校南の信号から南東へ約1kmぐらいです。
蓮華寺という看板がありますので、ここを左折してください。
少し狭い道ですが、家が少ないので車でも大丈夫だと思われます。蓮華寺の舗装されていない場所に車を止めて、左側の方に歩いていきます。
すぐに3つの御屋敷跡の看板が立っています。
その先に「長野県史跡、小笠原氏城跡、埴原城」の看板。さあ始まりだ、という感じがしていいです。
そして、いつもの鳥獣除けフェンスがお出迎えです。 開けて入っていきましょう。
道はきちんと整備されています。ある程度、しっかりしているのは地元の方の整備や木材の切り出し用の通路、電力会社の運搬用道路も疑われますので、遺構かどうかは難しいところです。
登山道をゆっくり、登っていくと、左手には堀(ほり)らしき窪みが 現れます。
そして、大きな堀切(ほりきり)を右に曲がると、段郭(だんくるわ)群に入っていきます。
一つ一つはそんなに大きくないのですが、小笠原の山城らしく次から次へと続いていきます。林大城のように平曲輪(ひらくるわ)の間ではなく、裾を通っていく登山道です。もしかすると本来は、曲輪の間を通っていくのが本道だったのかもしれません。途中、南西尾根の方にも寄ってみましたが、こちらも堀切が深く、高さがあるので、なかなか攻めにくい縄張りだと思います。
そこを過ぎると、視界が開け、水場(みずば)に到着します。ここにはお姫様の化粧水という看板が立っています。林大城にもありました。実際はその目的で使うことはなかったでしょうが、今でも水が静かに流れているのが不思議でもあります。
この井戸を左手に進んでいくとたくさんの曲輪(くるわ)が現れます。
まず、帯郭(おびくるわ)です。主郭(しゅかく)の下をずっと巻いています。馬場(ばば)にでも使えそうです。
そして、かなりの石が転がっています。主郭から落ちてきたのでしょうか。その先にもいくつか曲輪があり、数段下がった所に二ノ郭(にのくるわ)があります。
宮坂本では3の郭となっていますが、地元の保存会の方々に従いましょう。二ノ郭から西側の主郭の裾に沿った道を通ると西小屋の郭群が下方に見えます。
さて、主郭に登ります。先ほどの帯郭から斜め上に登る道がありますので、そちらに進んでください。
埴原城の主郭は面白い造りをしています。虎口(こぐち)は枡形(ますがた)に切られていたと推測され、そこから主郭に入れます。
入った所には大きな石がどんと据えてあります。これは「岩座(いわくら)」と考えられ、神の加護をとりいれたものと伝えられているものだそうです。
その東側に一段高くなった曲輪があります。こちらがやはり、本当の意味の主郭、作戦本部となると思われます。東側には大きな土塁(どるい)が築かれ、しっかりした作りです。
面白いのはその東側にもう一つ、郭があるということ。ここは詰郭(つめくるわ)と見た方がいいように思います。
ここにも東側に土塁があり、反対の堀切から見ると比高(ひこう)10mぐらいでしょうか、かなりの壁になります。
主郭南側には見どころの石積みがあります。
堀切から先には自然地形を利用し、加工を加えた面白い畝状竪堀(うねじょうたてぼり)や堀切がたくさんあります。「堀底状通路」と表示があります。
その先には水の手の石積みがあり、ここから先ほどの水場まで水を導いているのでしょうか。
帰りは井戸から南方面に埴原東地区の方へ広い道を通って下りてきました。西小屋方面、西尾根から古墳群、南西尾根、南尾根など郭や竪堀、堀切が数多くあります。こちらも探索してみたいと思いました。
主郭までは30分ほど、歩きやすく、面白い造りがみられる広大な山城です。ぜひ、挑戦してください。
上條館長の山城案内 霜降城
霜降城 しもふりじょう(松本市入山辺桐原)
今回は霜降城(しもふりじょう)です。ここは桐原氏の支城として築かれ、その後、小笠原の城郭群として整備されたのではないかと考えます。宮坂本の記載の中にもある「下振、上振、及び弘法山(宮原城)の物見跡」は桐原城(きりはらじょう)と、山家城(やまべじょう)をつなぐ重要な役割があったと思われます。最初はただの砦、狼煙台(のろしだい)程度の役割かなと思いましたが、登ってみると案外縄張りとしてはしっかりしているようにも感じました。
さて、道順ですが、
県道松本和田線を美ヶ原方面に向かいます。旧山辺学校校舎を過ぎるとJAがある交差点がありますので、ここを左折します。
しばらく行くと左に1軒家が建っていますので、そのT字路を右折します。
すぐに左折、右折を繰り返し、東へと登っていきます。
墓地前を右折し
桐原城海岸寺沢(かいがんじざわ)入り口に車を止めます。
現在、砂防ダムの工事が行われています。コンクリートの道を登っていきます。
敷地内には入れませんが、ゲート入り口の右側に鳥獣除けフェンスがありますので、そちらから入ります。
まっすぐ行くと工事現場ですので、工事終了までは遠慮してフェンス沿いに右側に進み、土手をよじ登っていくと砂防ダムの上の広い道に出ます。
その道を50mほど進むと道標がありますので、ここを登っていきます。道はしっかり整備されています。
地元の方が力を入れてくださると始めは考えていましたが、上までいって気が付きました。実は霜降城の上に中部電力の鉄塔が立っています。この作業路として整備された道だと考えると合点がいきます。
同じ道幅の道がずっと続いていますし、掘りの深いところもあります。人力では大変な仕事です。両側に石垣があちこちありますが、これも道を作るときの石を積んでいったと考えた方がいいようにも思います。当時の石垣ならばすごいのですが、作業道であるという確証もありません。
ただ、登りながらみていると溝がいたるところにあり、遺構かとも思いますし、雨水の流れた跡とも考えられ、これは難しいところです。
この場所でこの辺から城跡だろうと考えて、この溝を直登していきましたが、失敗でした。この写真の右側に進んでいけば、主郭(しゅかく)まで行けます。宮坂先生の直登図が私をいざなったので、もしかすると昔は道があったかもしれません。はいつくばって登っていきました。ここからが急斜面の入り口です。
そうこうするうちにようやく、本道?に戻ってきました。この道案内を見たときはほっとしました。
しばらく行くと深い堀切(ほりきり)と思われる場所があります。
ここが主郭の後ろでした。
主郭は27m×17mの平地です。南側には二郭(にのくるわ)が見えます。
背後もいろいろな畝(うね)状の筋が見えますが、登っていくと鉄塔と工事用のはっきりとした道が隣の山に向かっていますので、遺構なのか、あとからのものか、もしかすると、もともとあった遺構を壊してつくったものかとも疑われます。
それでもこの主郭は規模は小さいもののしっかりとした砦であったようにも思えました。
今は木が茂って見えませんが、ここからは対岸がよく見えたと思われます。桐原城から手を振れば見える距離ですし、東の山にもう一つ砦があれば、十分に山家城にもつながると思えます。地図上でいえば、中村の地区の北の山あたりが上振城(かみふりじょう)跡だと推測します。ただ、武石(たけし)古道との関係や古地図を見るともっと、北側に位置しており、番所との連絡を考えると北側の尾根にあったのかもしれません。文献には明確にでていないようなので難しいところです。
帰りはつづら折りのはっきりとした道をるんるんと下りてくると写真の場所(分岐点A)に着きました。
下りてきて、砂防ダム付近で雪をかぶる乗鞍岳(のりくらだけ)、大滝山(おおたきやま)が見えました。目の前には林大城(はやしおおじょう)です。山辺からの北アルプス最高です。
霧降城は迂回したルートを通れば、道に迷うことはありません。比高(ひこう)は高く、少し登りは息が切れます。枯れ葉が多くて大変なところはありますが、チャレンジしてみてください。
上條館長の山城案内 宮原城
宮原城 みやはらじょう(松本市入山辺宮原)
さて、今日は宮原城(みやはらじょう)です。
山家城(やまべじょう)の対岸に位置しています。もともとは小笠原氏が諏訪系の神氏(後に山家氏を名乗る)を監視するために作った砦だと推測されますが、その後、播州姫路(ばんしゅうひめじ)より来住した折野薩摩守昌治(おりのさつまのかみまさはる)が山家氏と改名し、山家城を中心にこの地区を支配した際、改修したのではないでしょうか。そうすると小笠原城郭群として桐原城(きりはらじょう)、宮原城、山家城がつながるような気がします。山家氏は始めは小笠原氏に属していましたが、林大城(はやしおおじょう)の自落の後、村上氏を頼った小笠原氏とは袖を違え、武田氏に属し、川中島の戦いでも戦功があったとされています。この城は長野県町村誌には要害城址(ようがいじょうし)と記載されています。
さて、道のりですが、薄川南の道をどんどん東に進むと舟付(ふなつけ)の集落があります。この入り口の左側に長野県最古の発電所である薄川一発電所(すすきがわだいいちはつでんしょ)があります。ぜひ、立ち寄ってみてください。
その道を進むと右手に宮原神社(みやはらじんじゃ)が見えてきます。
もうしばらく行くと、右側に宮原の道祖神(どうそじん)があります。
この道祖神は抱肩握手像(ほうけんあくしゅぞう)といい、二神が握手して立っている双体像(そうたいぞう)です。下の彫刻は全国的にも珍しい男女の合体像で、縁結びの神として広く信仰されています。ここも立ち寄ってほしい場所です。
ここをあと100mほど進むと、右手に「宮原城登山口」の看板が見えてきます。この入り口に車を止めさせてもらいます。
小さな川沿いに上るのですが、夏はかなりの草藪になってしまいます。雨が降ると沢が荒れるので要注意です。
少し行くと、いつもの鳥獣フェンスがみえてきます。この入り口は奥の金具を持ち上げる形式です。少し、コツがいりますが、開けて入ってください。
右側に大山神社(おおやまじんじゃ)という小さな社が見えてきます。道標は山手に向かう道を指示していますが、おすすめできません。むしろ、大山神社の上の方に登っていった方がいいと思います。
大山神社脇の道標に従って沢筋を登ると、次の道標が見えてきます。ここからも直登できるのですが、こちらの道はおすすめできません。
大山神社のすぐ上(西)の段には石積みがありますが、これは城域ではなく、昔の畑跡だと思われます。農業で使った廃材が散らばっています。
この畑沿いを歩いていくと、いよいよ右手の山が待ち構えています。正直、道はほとんどわかりませんが、地元の方が歩いたであろう道筋があちこちに見えます。ピンクのテープが巻いてある松がヒントかもしれません。
ジグザグにゆっくりと登っていくと次の道標に出会います。
少しずつ平場(ひらば)もあり、そこを過ぎると空堀(からぼり)の道標があります。いよいよ城郭の雰囲気がでてきました。
少し行くと三郭(さんくるわ)、二郭(にくるわ)に着きます。二郭には土塁(どるい)が築かれ、堀切(ほりきり)で主郭(しゅかく)とつながります。
主郭は16m×8mの広さです。
主郭の北側に積石(つみいし)が散乱しています。南側にもその姿は見られます。
東側には入り口である虎口(こぐち)跡らしきものもあります。
南側は水番城(すいばんじょう)と同じく、比高(ひこう)が高い山につながっていますので、山辺の城らしく四重の竪堀(たてぼり)がどんと作られています。(四重目は少し離れています。)
宮原城は少々、道が整備されていないので、登りにくいですが30分ほどで、小笠原城郭群の片鱗が見えますので、登ってみてください。
上條館長の山城案内 山家城
山家城 やまべじょう(松本市入山辺中入)
昭和45年10月22日長野県史跡に指定
今回は山家城(やまべじょう)です。
この山辺地区は古くは諏訪氏(神氏)が支配していました。その一族の山家氏が鎌倉時代に居城を築いたとされます。その後、小笠原氏に滅ばされたあと、16世紀に折野薩摩守昌治(おりのさつまのかみまさはる)(のちに山家氏を称す)が播州姫路(ばんしゅうひめじ)からこの地に来てこの地を治めました。その時、城の基礎が作られ、武田氏が改修、増強しながら使用されたと思われます。
さて、登城口は徳運寺(とくうんじ)の墓地の横からと徳運寺の東の道を上がった所と2か所ありますが、後者はかなり、道が荒れているので、徳運寺側から登ったほうがよさそうです。(R3,8月現在)
まず、徳運寺を目指します。旧山辺学校校舎から東へ約4.5km、車で7,8分で徳運寺入り口になります。この路地を左折します。
徳運寺になります。
城には門の左手の墓地の道をのぼっていきます。
墓地を抜けると草藪が。写真の位置を左側にのぼります。
8月は草ぼうぼうで、わかりにくかったです。横に生えているキウイのつるも邪魔をします。この道、左側の路肩が欠けていますので、十分注意して登ってください。きっと、秋祭りの時には整備されると思います。
フェンス沿いの道をのぼります。
鳥獣除けフェンス入り口に着きますので開けて入っていきましょう。
すぐに白山大権現(はくさんだいごんげん)の社が見えてきます。その上にも鳥居と稲荷社がありますので、そちらに向かってください。
そこからは山道を登っていくのですが、結構な坂ですので休み休みいきましょう。
途中の堀切(ほりきり)は深く長く、横堀(よこぼり)の役割をしています。
アップダウンしながら登っていくと、西尾根の曲輪(くるわ)に着きます。ここは55×18mの広いスペースです。
ここから深い横堀と高い土塁(どるい)を越えていきます。
するとすぐに中核となる主郭(しゅかく)地域に入ります。目の前に高くせりあがっている東尾根があるため、堅牢に見えます。ここを右に回り込み、南西から主郭に入ります。地元の方が道を作ってくださったので何とかなりますが、結構急なのぼりです。
主郭は27×19m。背後には高い土塁が。三方に土塁が築かれています。
小笠原の城の特徴の石積みが見られます。
特に東側はとてもきれいに残っています。ここが見所です。
主郭からは林大城(はやしおおじょう)、林小城(はやしこじょう)がよく見えます。
桐原城(きりはらじょう)にもありましたが、背後に五条の連続堀(れんぞくぼり)が見事に残っています。深さも高さも桐原城をはるかに凌いでいます。ここも見所です。
その奥に秋葉神社(あきばじんじゃ)があり、奥にも後郭(うしろくるわ)が見られ、竪堀(たてぼり)などが整備されています。こちらは武田氏によって増築されたのでしょう。
西尾根の曲輪からへ下る道が宮坂先生の縄張り図にもあったので、下りてみましたが、倒木がひどく、道もほとんどわかりません。ジグザグに沢に下りていきましたが、やはりこちらの道は整備されるのを待った方がいいみたいです。
ちなみに徳運寺から山手に向かうコンクリートの道をあがり、写真の位置を左に向かうと
入り口があります。
山家城は広大な城です。主郭まで30分ほど、全部の尾根を回るとそれから1時間は欲しいところです。 急坂も多いですが、ここ山辺では一番スケールの大きい山城かもしれません。ぜひ、トライしてみてください。
上條館長の山城案内 桐原城
桐原城 きりはらじょう(松本市入山辺桐原)
昭和45年10月22日長野県史跡に指定
今回は桐原城です。
15世紀、桐原氏によって築かれたといわれています。桐原氏は小笠原氏に属し、武田氏の侵入で小笠原諸城が自落した際、主人である小笠原長時と共に村上義清のもとに向かったといわれています。その後、小笠原氏が復活した際に共に戻ってきて、桐原城も改修されたともいわれています。
桐原城は追倉沢(おっくらざわ)と海岸寺沢(かいがんじざわ)に登り口があります。海岸寺沢に砂防堰堤が築かれ少し道が変わってきましたが、そこより上の登城道が荒れています。追倉からの道は整っていますので、こちらから登っていくほうがいいと思います。
県道松本和田線を美ヶ原方面に向かいます。
旧山辺学校校舎を過ぎるとJAがある交差点がありますので、ここを左折します。
しばらく行くと左に1軒家が建っていますので、そのT字路を右折します。
すぐに左折、右折を繰り返し、東へと登っていきます。突き当りが追倉地区です。
右手のビニールハウス前に車を止めさせてもらいます。葡萄の時期は鳥獣よけフェンス前でもいいかなと思います。
案内図をおくケースがありますが、最近は入っていません。右手の小さい鳥獣よけフェンスを開け、登城道を登ります。最初に訪れたときは林道を登ってしまい、しばらく気づきませんでした。
ここからは道が整っていますし、案内表示もあります。上にのびる竪堀(たてぼり)跡を楽しんでください。そして表示に従い、大手道を登っていきます。
土塁(どるい)が両側に積まれた城門跡と思われる場所もあります。
途中二重堀切(にじゅうほりきり)もしっかり残っています。
小笠原氏の山城の大きな特徴である平場曲輪(ひらばくるわ)が次々と現れます。ただ、規模は小さく、きっと柵を建てて、防御の一助にしたと思われます。
主郭(しゅかく)の表示があるところからいよいよ城内です。右に行くと海岸寺沢口へ、まっすぐ行くと主郭搦手(からめて)方面に行けます。主郭へは左に向かいます。
ここからいくつかの曲輪を抜けていくのですが、すべてに石積みが残存し、こんな山の中なのにすごいなと思ってしまいます。
山辺の山城の大きな特徴、扁平(へんぺい)な山辺石(やまべいし)を積んでできています。
主郭は29m×27mほどで、土塁がしっかり残っています。東の土塁は高さ4mぐらいでしっかりしています。主郭の四方に鉢巻石積みと腰巻石積みが残っている場所もあり、必見です。
主郭背後には長く深い堀が4本あり、石積みを配置した土塁もあり、敵の侵入に備えています。
この城の堀切、竪堀の規模が大きく山すそまで続いているようです。きっと、再び戻ってきた時に作った新しいもののような気がします。
この尾根筋は遠く、武石峠(たけしとうげ)まで続いているとあります。何かがあったときはこの尾根筋を越えていくつもりだったのでしょう。
帰りは海岸寺沢に下りようと向かいましたが、倒木も激しく、道も途切れています。何とか滑り降りたものの、最後は砂防ダムで道が変わり、何とか鳥獣よけフェンスの入り口までたどり着くことはできました。
後日、こちらから登りました。堰堤もできつつあり、道も見えてきました。しかし、堰堤を越えてからの道がよくわかりませんでした。
ちなみにお墓のある交差点を曲がると海岸寺沢、海岸寺跡、霜降城(しもふりじょう)に行けます。
旧海岸寺のお堂には県宝の千手観音があります。地元の方が守られており、残念ながら通常は公開されていません。
桐原城はこの山辺の山城の中で、主郭を守る曲輪群の複雑な縄張り、各郭に残された石積み群、整備された道等、素晴らしいと思います。ここも20分ほどで登れます。おすすめの山城です。
上條館長の山城案内 林小城
林小城 はやしこじょう(松本市里山辺日向上)
平成31年2月26日 国史跡に指定
今日は林小城です。
かつて古城と考えられ、大城より先にできたという説もありましたが、大城と同時期に作られたと思われます。その後、武田氏が深志の地を押さえるのですが、山辺の山城は武田氏により手が入れられ、後に小笠原貞慶の旧領回復に伴い、小笠原流の山城へと大きな改修が加えられていったと考えられます。
主郭(しゅかく)には土塁(どるい)と石積み、連続竪堀(れんぞくたてぼり)も多くみられ、山辺の特徴的な縄張りを残しています。
小城には金華橋(きんかばし)からアプローチします。金華橋の交差点を川沿いに下りるのではなく、南下します。
途中、慈眼寺(じがんじ)の聖観音がありますので見てください。
そして、三差路を左折します。
右手の山が小城、左の山が大城(おおじょう)になります。真ん中にある地区が大嵩崎(おおつき)地区になります。
大城のすそ野には戦時の半地下工場跡群の碑がありますので、立ち寄ってもいいかと思います。
しばらく行くと標柱、案内が出ていますのでここが入り口です。
鳥獣よけフェンスの横に車は止められますが・・・。
鳥獣よけフェンスをあけて登城開始です。
すぐに地獄の釜があります。湿地帯です。
登城道は整備されているので、道沿いに進んでください。下から竪堀(たてぼり)の形がよくわかります。この堀は第3曲輪(くるわ)まで続いています。直登しようと思えばできるかもしれません。
道は等高線上に次の竪堀を越え、大きな特徴でもある平曲輪群(ひらくるわぐん)に進んでいきます。あちらこちらに平場(ひらば)があります。本当によく作ったなと思います。
感心していると目の前に4,5mほどの大きな土塁が。第3曲輪です。両側に道があります。
そして第2曲輪、本曲輪(ほんくるわ)と続きます。石積みがあちこちに散乱しています。もし、復元したらきっとすごい石積み群になるような気がします。
そして、いよいよ本曲輪。南に高い土塁、西にも残っています。
南側には深い竪堀が。南側に大きな竪堀が掘られているのが大きな特徴でもあります。
帰りは林(はやし)方面(広沢寺(こうたくじ)方面)におります。
道はきちんとついています。松の伐採が行われていて、少しわかりにくいところもありますが、開けた方に下りていけば大丈夫です。
これが、登り口です。
ここから10m先に富士浅間宮(ふじせんげんぐう)古宮(こぐう)跡の案内、山沿いに曲がっていくと竹渓庵(ちっけいあん)、林薬師堂跡の案内もありますので寄ってみてください。
後日、宮坂武夫先生の縄張り図を参考に大手口方面を探しに行きました。急坂で松のピンクテープを参考に下りていきましたが、よくわかりませんでした。北斜面はかなりの急坂です。もっと西側だと思います。次回、探してみます。
ただ、途中、井戸らしきものを発見しました。もしかしたら新発見?・・・。
小城もしっかりした縄張り、平曲輪、搦手(からめて)の竪堀、主郭周りの石積み等、見どころが多く、楽しく散策できると思います。大城よりも山城としてはおもしろく、遺構が残っているようにも思います。ぜひ大城とセットで登ってみてください。よく整備されているので30分ぐらいで簡単に登れます。楽しく散策できると思いますよ。
上條館長の山城案内 水番城
水番城 すいばんじょう(松本市入山辺南方)
今日は水番城です。
名前の通り、林大城の水源を守るために築かれたとされています。今はその痕跡はわからないようですが、水の管理、周りの城との連携等重要なお城であったと考えられます。
大手筋は橋倉地区から登るようですが、今回は南方諏訪神社(みなみかたすわじんじゃ)方面から登ります。
薄川南側の道路を林城から東に走り、御嶽(おんたけ)橋を右に曲がると南方(みなみかた)地区です。
ここをまっすぐ行くと三差路に案内看板があります。ここを左に。次の三差路も左に行くと南方諏訪神社になります。
車は神社の隅に止めさせていただきます。
登り口はちょっと戻った三差路です。ここを山に向かって登っていきます。
鳥獣よけフェンスと入り口があります。ここから入ります。
ここからつづら折れの山道をのぼります。枯れ葉がたまっていて歩きづらいので横を登っていくほうがよさそうです。
5分ほど登ると小さな鳥居が、そして、もう5分ほど登ると南方秋葉神社(みなみかたあきばじんじゃ)があります。ここまで少しきつい勾配が続きます。
途中、川向うには桐原城(きりはらじょう)が見えます。
ここからはゆるやかな尾根筋になります。
少し行くと左右に堀切(ほりきり)が見えます。
そして、すぐにL字の尾根があります。右手が大手筋(おおてすじ)と標柱がたっています。ここからが城域だと考えられます。
堀切を越えると主郭(しゅかく)部分になります。土塁(どるい)が築いてあります。
主郭は30m×15mぐらいの広さです。
南側を見ると石垣が残っています。この山辺地区の城にみられる特徴の一つです。
この城の大きな特徴は搦手(からめて)の連続竪堀(たてぼり)です。東隣の宮原城にもあります。南からの攻撃に備えたものと考えられます。
帰りは大手筋から下っていきます。尾根伝いに下りたのですが、道がはっきりしません。左の沢に向かい、ジグザグに下りてきました。次回ははっきりさせたいと思いますが、下りていくと林道の終点らしきものがありました。ここから堀切沿いを登るか、大手筋にめがけてつづら折れで登るかだと思われます。
この林道への入り口は橋倉地区の最上部となります。
その後、橋倉の案内図を見ると水番城へとあるので、いってみましが、この入り口から登ると搦手筋に行きつくようにも思われます。
南方からの往復だとあまりきつくないので、おすすめです。
上條館長の山城案内 林大城
林大城 はやしおおじょう(松本市里山辺日向山)
昭和29年2月9日 国史跡に指定
まずは林大城です。
林大城は府中小笠原氏の小笠原清宗(おがさわらきよむね)が、松尾小笠原氏の小笠原貞宗(さだむね)の建てた井川館(いがわじょう)では防御が難しいこと、また、両家の確執もあったことから改修し完成させた城です。小笠原氏は土着の豪族とも手を結び、この地域を支配することになりました。小笠原氏が武田氏に追われ、その後再び戻ってきますが、小笠原貞慶(さだよし)がその時、多くの山城に手を入れたので、山辺の山城は似た様式を持ちます。
平成29年から31年度にかけて、井川城跡、林小城(はやしこじょう)とともに国の史跡「小笠原氏城跡」として指定されました。
林大城には金華橋、橋倉、大嵩崎側3か所から登り口があります。一番わかりやすいのはやはり、金華橋からで、整備もきちんとできているので安心です。駐車は教育文化センターか薄川北側の道端が公式の駐車場となります。登り口にスペースはありますが、ホテルが再開したのでちょっととめにくくなりました。薄川の駐車場は、道が一方通行なので下流の小松橋まで迂回し、金華橋手前に止めておくのがいいかと思います。
まず、整備された道を登っていきます。つづら折れの道を登り、6回目の折れでこのような絶景が。乗鞍から槍、常念、有明、白馬三山まで見晴らせます。市街地の様子もよくわかります。
この後、あと3回ほど曲がると堂平、伝一ノ門跡につきます。東屋もあります。
この後はなだらかな登りが続きますが、息は切れます。
左右に深い堀切が見えた先は、無数の平場が左右に続きます。時々、それて覗いてみてください。きっと、当時は塀とか丸太が建てられ、敵の侵入を防ぎ、上から狙い撃ちしたことでしょう。
堂平から2つ目の堀切を超えると、平場は広くなります。やがて北側に石積みが見えてきます。ここだけが四角い平場です。何か小屋とかがあったのではないでしょうか。
次の堀切を過ぎるといよいよ、中心部です。最後の堀切前は今はすっと直登できるのですが、土塁がしっかり築いてあるので、きっと当時は左に折れて入っていくようになっていたはずです。お城はまっすぐ入っていけることはほとんどありません。今の道は近世に入って、上の神社の参道として作られたもので、当時はもっと、くねくねした道だったかもしれません。
この看板があるところは馬出です。広いスペースがあります。
なんと、橋倉からここまで車道が整備されているので入ってくることができます。わたしも2,3度上ってきました。すれ違いはできないので運を天に任せますが、チャレンジしてもいいかなと思います。R4,7月には林道に倒木の情報がありました。お気をつけください。
遊歩道等整備されていますが、かなり、当時とは違うと思います。石段を登ると第2郭です。ここにも東屋が、名前は「松風亭」一休みできます。
今は石段があり、正面から直登していますが、 当時の二郭へは南側の虎口から入っていったと考えられます。
その後、堀切、平場を登るといよいよ主郭になります。大きさは50×25ぐらいでしょうか。土塁も積まれ、石積みも何か所か残っています。
11月中旬の主郭です。保存会の方が植えたカエデが見事な色づきです。とても素敵ですよ。
主郭の虎口は北側にあったものと考えられます。
東側の石積みは平積みと谷積みがみられます。時代が違うのではないでしょうか。
主郭を過ぎて後郭から左手に下りていくと化粧井戸があります。水番城方面からひかれてきたのでしょうか。
また、後郭の先には小笠原流の大きな竪堀が幾重にも掘られています。橋場方面、大嵩崎方面からの侵入に備えているものと考えられます。
今回は大嵩崎側に下りてみました。きちんと整備されています。案内も出ているので迷うことはありません。あちこちに堀切が見られます。ただ、勾配がきついので、登るのは大変かもしれません。途中、山の神の社がありました。
ここが大嵩崎側の登り口です。林道の横に車を置くスペースはあります。集落の一番上になります。下りていくと林小城の入り口につきます。
橋倉口はここです。橋倉公民館を右折します。林道ですので、道には迷いません。
尾根全体に続く大きな城跡です。地域の方も年に何度か整備を行っています。毎日、登っている方もいらっしゃるようです。松本の歴史を知る上でもぜひ、挑戦してみてください。
上條館長の山城案内
あいさつ
館長の上條です。私は松本城の外堀埋立地に産まれ育ち、小さい頃は松本城で遊んだりもしました。松本城は私の愛する城です。また、市内6年生に配っている副読本「私たちの松本城」の編集にも携わったことから全国のお城に興味を持ちました。現在日本城郭協会が行っている「日本百名城」「続日本百名城」のスタンプラリーに参加し,もうすぐ制覇するところにきています。
そんな城好きの私がこれから山辺地区の山城と小笠原氏関連の城及び松本市の文化財に指定されている山城等について、紹介していこうと思います。
山辺のお城はこの地区を治めていた小笠原氏と関連が深い城です。林大城、林小城は井川城とともに国の史跡、山家城、桐原城は埴原城とともに県の史跡に指定されています。大きな戦いは行われてはいませんが、規模の大きさ、特徴的な平石を積んだ曲輪や多数見られる平曲輪、長大な竪堀など見どころが多いのが特徴です。また、松本地区にも山城は数多く残され、地域の方々によって大切に整備されており、比較的登りやすいと思います。1時間もあれば登ることができる山城ですので、ぜひ、訪れてみてほしいと思います。そのために道案内を含めて、紹介したいと思います。
館長 上條 直利(在任:平成31年4月 ~ 令和5年3月)
旧山辺学校校舎から見る山城
6枚の写真を貼りあわせて画像を作成しています。山家城、宮原城は、写真に写っている山の向こう側に隠れています。
山城インデックス
1.林大城(松本市里山辺日向山) 2021(R3) 7月 1日公開
2.水番城(松本市入山辺南方) 2021(R3) 7月15日公開
3.林小城(松本市里山辺日向上) 2021(R3) 7月27日公開
4.桐原城(松本市入山辺桐原) 2021(R3) 8月 5日公開
5.山家城(松本市入山辺中入) 2021(R3) 9月 4日公開
6.宮原城(松本市入山辺宮原) 2021(R3)11月10日公開
7.霜降城(松本市入山辺桐原) 2022(R4) 1月 8日公開
8.埴原城(松本市中山埴原北) 2022(R4) 2月 6日公開
9.犬甘城(松本市蟻ケ崎城山) 2022(R4) 3月 31日公開
10.伊深城(松本市岡田) 2022(R4) 4月 28日公開
11.平瀬城(松本市島内下平瀬) 2022(R4) 6月 14日公開
12.稲倉城(松本市稲倉) 2022(R4) 8月30日公開
13.波多山城(松本市上波田) 2022(R4) 12月16日公開
14 会田城(虚空蔵山城)(松本市会田)2023(R5) 3月19日公開