松本市内遺跡紹介⑰ 「神林地区の遺跡~下神遺跡~」
神林地区は、松本市の南部、奈良井川支流の鎖川流域に位置し、鎖川扇状地の最末端にあたる標高600m代の比較的平坦な土地です。地中の複雑な土層からは、地区内を流れる鎖川や三間沢川が氾濫と安定を繰り返していたことがうかがえます。また、現在でも、梓川から引水した和田堰と神林堰を水田用水に用いていることから、鎖川や三間沢川が水利に適していないことが分かります。
神林地区では、昭和30年代に入り、開田事業や製瓦用粘土の採掘の際に縄文土器などが出土し、遺跡の存在が知られるようになりました。そして、昭和58(1983)年のほ場整備事業に伴う下神遺跡の発掘調査を皮切りに、昭和60(1985)年の長野自動車道建設、平成10(1998)年の新臨空工業団地造成などの事業により発掘調査が実施され、縄文時代から平安時代の遺跡が明らかになっています。
下神遺跡
昭和58年に、ほ場整備事業に伴う緊急調査が行われ、総計24,000㎡の調査面積で竪穴住居跡67棟、掘立柱建物跡31棟などが確認され、奈良三彩の小壷や佐波理鋺、銙帯(かたい)など、有力者の所有物と思われる希少品が出土しました。
昭和60年から長野県埋蔵文化財センターによって長野自動車道建設予定地約39,400㎡が調査され、竪穴住居跡138棟や掘立柱建物跡50棟のほか、溝や柵が確認されました。床面積155㎡の巨大住居や、集落を区画する中央に柵がある2重の溝など、通常の集落では見られない遺構が確認されました。出土遺物では、「草茂」と記された墨書土器などの文字資料が豊富に出土しました。
・奈良三彩の小壷
やきものの表面に緑色、黄色、褐色などの釉薬をかけて焼いた陶器です。中国の唐時代に作られたものを唐三彩といい、それに対し、奈良時代以降にこの技術を受けて日本で作成されたものを奈良三彩といいます。
・佐波理鋺
青銅製の椀の一部です。食卓で使用する器は、素焼きの土器が主流だったこの時代、青銅製の椀は、権力の象徴として有力者が所有したものだと考えられます。
下神遺跡の文字資料
下神遺跡から「草茂」と書かれた土器が17点、画像の不明文字(※変換不可能文字)が書かれた土器234点出土しています。また「而」や不明文字の墨書土器も見つかっており多くの墨書土器が出土しています。
また、8世紀代の住居から出土した須恵器坏の底には「□□小長谷部真□」と読める文字が書かれていました。小長谷部の同例は、正倉院の白布墨書名の中に記載があります。更に3点の漆紙文書の出土も確認されています。漆紙文書とは漆を入れた器の蓋として、反故を使用したもので、漆がしみ込んでいたため紙が残ったものです。3点のうち文字が確認できたのは1点で、「調丁」「交易物」といった文字が読み取れることから調の交易に関する文書とみることができます。
草茂の庄とは
平安時代に記された『多武峰(とうのみね)略記』の887年に
“「筑摩郡蘇我郷字草茂庄一処、右大納言藤原冬緒卿、所奉施入也」(一部略)”
とあります。ここから、「草茂」とは、大納言藤原冬緒が所有した筑摩郡蘇我郷の荘園であり、887年に多武峰の妙楽寺に施入した「草茂庄」を示すものであるとみられます。
かつては、草茂庄は塩尻市洗馬周辺ではないかと考えられていましたが、下神遺跡からこの墨書土器が出土したことで、草茂庄の所在が明らかになりました。
この地を開発した有力者は、8世紀に信濃国府が上田から松本に移転したのを機に、国司との結びつきをもちながら、開発地やその周辺の未開地を荘園として藤原氏に寄進したと考えられ、その管理・経営の拠点となったのが、下神遺跡の集落であったと推測されます。
9世紀初頭にかけ爆発的な発展をみせた下神遺跡は、9世紀後半に衰退します。それは、ちょうど藤原冬緒が草茂庄を妙楽寺に施入した時期と一致します。藤原氏の手を離れたことで開発が停滞したのか、または、自然災害等によるものなのか、その理由は明らかではありません。
松本市内遺跡紹介⑯ 「本郷地区の古墳~桜ヶ丘古墳~」
本郷地区は、松本市の北東、女鳥羽川流域に位置します。昭和49年に松本市と合併しました。合併前の本郷村は9か村からなる大きな村だったため地区の範囲も広く、地区内には古代~中世にかけて多くの遺跡も確認されています。また、平安時代の遺物や廃寺跡が発見されていることから国府所在地が推定されている場所でもあります。
地区内の浅間温泉は、江戸時代には城主も利用していたといわれ、明治期以後は温泉宿も増加し松本の奥座敷とも言われるようになりました。
桜ヶ丘古墳
桜ヶ丘古墳は、浅間温泉街の南東に突き出た丘陵の突端に位置します。自然の浸蝕作用や人為による破壊が墳丘全面に及んでいましたが、昭和29年に女鳥羽中学校の生徒によって偶然発見されました。翌年に行われた学術調査では、古墳の上部は崩れていたものの、主室と副室の大小2つの石室が確認され、出土遺物から5世紀後半に築造された竪穴式石室の円墳であると推定されます。武具・武器を副葬品の主体とする桜ヶ丘古墳は典型的な中期古墳ですが、深志盆地を俯瞰する山頂に立地し、粘土で被覆された石室構造をもつことから古式古墳の残映もうかがえます。墳丘規模は、直径約30m、高さ約5mとみられ、石室は長さ2.5m、幅1.2m~1.3mと推定されます。
長野県宝指定の出土遺物
本古墳の遺物は、金銅製天冠や玉類などの装身具類と、刀、剣、鉾、鏃、甲冑一式(三角板革綴衝角付冑・革綴頸甲・長方板革綴短甲)などの武器・武具類で、竪穴式石室に一括で副葬されていました。武具・武器が中心のことからこの地域の豪族であった被葬者が武人的な性格を兼ね備えていたことを示したと推察されます。
出土遺物の中でも“天冠”は近畿地方を中心に全国で40例(※1)ほどしか発見されておらず、長野県では桜ヶ丘古墳でしか見つかっていない貴重なものです。この天冠は両面に金鍍金を施した厚さ約1ミリメートルの銅板を素材とし、鉢巻き状の冠帯(細帯式)に3本の立飾りがついています。冠帯は中央の立飾りと一体で、上辺は緩やかな山形を呈しています。中央の立飾りは3つに分岐する花形装飾があったと推定され、左右には鳥翼状立飾りがつきますが、右側の飾りは埋葬当時から欠損していたようです。
古墳時代の冠は朝鮮半島に起源をもち、政治的な権威を示す象徴品と考えられています。桜ヶ丘古墳の天冠は、中央の花形装飾と鳥翼状立飾りが伽耶諸国(※2)の冠に類似することが指摘されており、被葬者が朝鮮半島と何らかの関係にあった可能性が示唆されていますが、詳しいことはわかっていません。
金銅製天冠は昭和44年5月に長野県宝に指定され、その他の出土遺物63点は平成22年10月に一括で県宝に指定されました。出土品は考古博物館にて展示されています。
※1:平成10年刊行の「松本のたから」を参照。
※2:1世紀~6世紀中ごろにかけて朝鮮半島の中南東部に散在していた小国連盟。
コラムクイズ
桜ヶ丘古墳は中学生がとある研究の途中に発見されました。中学生はなんの研究をしていたでしょう。
松本市内遺跡紹介⑮ 「内田地区の遺跡~エリ穴遺跡2~」
前号に引き続きエリ穴遺跡です。出土品を中心に紹介いたします。
日本一の一括出土量を誇る土製耳飾り
エリ穴遺跡で最も有名とも言えるのが“土製耳飾り”です。2,643点出土しており、一括で出土した量としては日本で一番多い数となります。
土製耳飾りは縄文時代後期の終わりから晩期の初めにかけて、甲信から西関東地方を中心に東日本の各地で出土しています。耳たぶに穴を開け、その中にはめ込んで着けていたとされ、出土した土偶にも耳飾りの装着を示すものがあります。現代のピアスに比べてとても大きく、直径が3~5cmのものが多く、中には9cmを超える大型品もあります。形は臼のような形をした臼形、リング状の環形に分けられます。精巧な彫りが施されるものから装飾の無いものと様々です。朱で赤く彩色されたものが多く、おしゃれだけではなく、儀式を行うときにも着けていたと考えられます。
エリ穴遺跡では関東地域を本場とする耳飾りも出土しており、周辺の集落だけでなく広域から人々が集まる何らかの儀式が行われていたのかもしれません。儀式後、役目を終えた耳飾りは自分たちの集落へ持ち帰らずにエリ穴の集落の廃棄場に廃棄されたのでしょうか。
耳飾り以外の特徴的な遺物
エリ穴遺跡では、耳飾り以外にも特徴的な遺物が多く出土しています。
土偶は顔面付き分銅形土偶25点を含む454点、釣手土器40点、異形台付き土器9点、香炉形土器62点、多孔底土器7点、手燭形土製品15点、人面付き土版を含む土版13点、中空動物形土製品14点と多くの出土品が確認されています。これらは信仰にかかわる祭祀具として使われていたと考えられます。
土版は四角い粘土板に文様をつけて、焼かれたもので東日本の広い範囲で出土しています。エリ穴遺跡の人面付土版は女性の全身が表された珍しい例です。体の中央で割られ、重ねられた状態で出土しました。祭祀行為に伴い破壊され、埋葬されたと考えられます。この他にも内側に仕切りのある土器や多数の穴が開いている土器、異形台がついた土器が出土していますがこれらは用途がはっきりとしていません。
土製品以外には石製品も出土しており石棒や石刀は折れているもの、火を受けた跡があるものが確認されており、これらも祭祀に使われていたのかもしれません。
コラムクイズ
内田地区には松本市重要無形民俗文化財に指定されている踊りがあります。なんでしょう。
松本市内遺跡紹介⑮ 「内田地区の遺跡~エリ穴遺跡~」
内田地区は松本市内南東部にあり、北には中山地区、南には塩尻市が隣接します。前鉢伏山と高ボッチ山の間にはさまれた横峰の西山麓斜面上、標高660mから800m間に位置する、水田や麦畑が広がる緑豊かな集落です。
地区内には国指定重要文化財として、馬場家住宅、牛伏川本流水路(牛伏川階段工)、厄除観音として知られる牛伏寺の8体の仏像があり、文化財が多く歴史的遺産にも恵まれています。
エリ穴遺跡の概観
エリ穴遺跡は、鉢伏山の山麓から流れる舟沢川と塩沢川の二つの小河川に挟まれて形成された微高地上にあります。遺跡の範囲は、東京ドームとほぼ同じ面積となり、平成7年に遺跡の中心部の発掘調査が行われ、遺跡の性格が明らかになりました。
エリ穴遺跡は縄文時代後期の終わり頃から晩期の中頃(約4,500~約2,300年前)にかけて断続して営まれたとされる松本平を代表する集落遺跡です。集落は比較的小規模で、数軒の住居を中心に、配石や埋甕、墓を含む土坑などのマツリにかかわる遺構が発見されています。出土遺物は、全国最多数2,643点の土製耳飾りをはじめ、調理や食器として使われた土器や石鏃、打製・磨製石斧のほか、マツリに使われたとされる土偶や人面付き土版、異形土器、石製品などが発見されています。
集落の北端は、舟沢川によって浸食された谷状の低地になっていますが、エリ穴の集落の人々はこの低地を壊れた土器や祭祀具の廃棄場として使用していたとされます。土製耳飾りの6割がこの廃棄場から発見されています。
エリ穴遺跡の出土遺物のうち、学術的・美術工芸的に価値の高い484点(うち土製耳飾りは348点)が、平成31年に松本市重要文化財に、令和2年に長野県宝に指定されました。
エリ穴遺跡の出土品からみる文化の交流
日本列島は南北に長く、地形も変化に富んでいることから縄文時代の生活環境には大きな地域差がありました。そのため地域ごとに独特な文化が育まれ、地域差は土器や土偶などの形や文様に表れます。エリ穴遺跡が継続的に営まれた縄文時代後期の終わり頃から晩期の中頃にかけて、西日本では装飾の少ない土器が用いられますが、東日本では縄文や彫刻的な文様で飾られた土器が盛んに作られました。東日本では東北・関東・甲信・北陸にそれぞれの環境に適した文化圏が成立し、近隣との交流が行われていたとされています。エリ穴遺跡でも、他の文化圏の土器や土偶などの影響を受けたとされる遺物が出土しており、盛んな交流を裏付けています。
<例えば>
○土製耳飾り・・・関東系土製耳飾りは縁に文様があることが特徴ですが、エリ穴遺跡からも縁に文様のある耳飾りが多数出土しています。
○土偶・・・遮光器土偶は東北地域の文化圏が本場です。亀ヶ岡遺跡出土の遮光器土偶は国重要文化財に指定されています。エリ穴遺跡では、遮光器土偶をまねた土偶が出土しています。しかし、本場の土偶とは顔の表現が異なり、遮光器の上に目・鼻・眉がついています。
また、西日本の分銅形土偶に山形土偶の顔をつけたエリ穴遺跡独自の分銅形土偶も出土しています。
○中空動物形土製品・・・北日本を起源とするこの土製品は、通常全身が中空ですが、エリ穴遺跡のものは頭部のみが中空です。
○蓋・・・蓋は北陸地方の文化圏が本場で、他の地方ではあまり出土していませんが、エリ穴遺跡からは多数の蓋が出土しています。
コラムクイズ
内田地区にある松本市立博物館分館の馬場家住宅。今年博物館として開館何周年を迎えたでしょう。
縄文土器づくり講座のご案内(10月15日)
縄文土器づくり講座
市内で出土した縄文土器を参考に、
楽しく学びながら縄文土器を作る講座です!
今年は焼かない粘土で作るため、野焼きは行いません。
○ 日 時
10月15日(土)9時~12時
○ 会 場
松本市立考古博物館 体験学習室
○ 参加について
・先着12名
・小学校4年生以上(要保護者付き添い)
・大人の方の参加も可
○ 参加費
500円
○ 申し込み
9月28日(水)朝9時から電話で考古博物館まで
○ お問い合わせ
松本市立考古博物館(86-4710)
※今年は野焼きは行いません。
※マスクの着用等感染対策の上ご参加ください。
※汚れてもいい服装で、水分補給等の準備の上ご参加ください。
※コロナウイルス感染拡大防止のため中止になる場合もあります。
考古博物館雑記③ 「中山地区に誕生した考古館」
中山考古館は、昭和32年から昭和61年まで中山小学校校地の南端に開館していた博物館で、松本市立考古博物館の前身施設にあたります。昭和61年に松本市立考古博物館が開館した後は、埋蔵文化財発掘機材の保管庫として活用されてきましたが、老朽化が進んだためやむなく令和3年8月に解体されました。
今号では、中山考古館のあらましと松本考古学の原点とも言われる中山地区と考古学の関係性を紹介いたします。
中山考古館の設立
松本市中山地区は、古くから縄文時代の遺跡や古墳の存在が知られており、住民が耕作中に土器片などを見つけることも多くありました。大正時代には出土品を文化財として保護しようという動きが始まり、中山尋常高等小学校内の一室に考古室が設置されました。設立時の展示品は、地元住民から寄贈されたものが多かったようです。
昭和20年代になると住民からの寄贈資料が増えたこともあり、考古室を中山小学校から独立させ、新しく博物館を開館させようという動きが始まります。昭和29年に中山村が松本市と合併した後もこの動きは引き継がれ、松本市立博物館の分館として中山考古館を新築することになりました。
昭和32年7月に中山小学校南側の校地の一角に、瓦屋根・白壁の中山考古館が新築開館しました。開館に先立ち三笠宮殿下が見学に訪れ、地区の公民館報でも特集記事が掲載されるなど、当時の人々の喜びはたいへんなものでした。
中山考古館には、市内の小学校児童や考古学の研究者など多彩な人々が訪れ、昭和61年に新築された松本市立考古博物館にその役割を譲るまでの29年間、地域の考古学の拠点としてその役割を果たしました。
松本考古学の原点、中山
明治時代には、古墳や遺跡からの出土品をはじめとする考古資料は骨董として売買の対象になり、副葬品が持ち出されてしまう盗掘被害が全国各地であったとされます。(中山古墳群の古墳も盗掘の被害にあっており、発掘時に副葬品がないという事例が確認されています。)そんな中で大正時代に幹線道路の拡幅工事により工事対象範囲に入っていた柏木古墳は破壊されることとなりました。未盗掘であった柏木古墳は中山村の有力者が中心となり発掘調査が行われ、石室内から勾玉や須恵器といった多量の副葬品が出土することとなりました。それらの出土遺物は村外から購入希望がありましたが、住民は、地元で保存すべきと当時の村長に働きかけ、その結果、柏木古墳出土品は中山尋常高等小学校内の考古室に収められることとなりました。
この他にも住民が農作業中等に手にした土器片などが寄贈され、これらの寄贈資料には、「坪ノ内」「桜立」「弥生山」というように出土した場所や古墳の名前が毛筆で書かれ保管されてきました。考古室は住民たちの手元にあった出土品、いわば「村のたから」を収めた大切な、そして中山村の誇れる一室として「中山考古館」の名で誕生し、第二次世界大戦後に至るまで多くの人々に地域の歴史を学べる場として活用されました。
中山考古館に出土品を託した住民の心の中には、出土品を地域の誇りとして残したいという気持ちとともに、刻々と変わりゆく中山村にあって、在りし日の古墳の記憶をすこしでも残したいという気持ちも込められていたのではないでしょうか。
コラムクイズ
中山地区二山から珍しい出土品が発見されています。それはなんでしょう。
松本市内遺跡紹介⑭ 「松南地区の古墳~平田里古墳~」
松南地区は、松本市のほぼ中央に位置し、南松本駅周辺をはじめ、各種工場・事務所、一般住宅が立ち並び、松本市南部の商工業の中心として栄えている地区です。出川西、出川南遺跡や多賀神社、自衛隊松本駐屯地があることで知られる地区でもあります。
第2次世界大戦の前後までは広い畑地で、小麦や桑が栽培されていましたが、戦後に国道19号線の開通に伴い市街化が進みました。
平田里古墳
平田里は“ひったり”と読み、古墳発見地の小字名から名前がつけられました。
平成3年に行われた出川南遺跡の発掘中に発見された古墳で、3基確認されました。いずれも墳丘と被葬者を納めた石室は既に破壊されていましたが、見つかった周溝から1号墳は直径24m、2・3号墳は1号墳より小さく直径8~12mほどの大きさとみられます。5世紀代から6世紀にかけて続けて築かれたと推察されます。1号墳の濠底には、葬礼の際に飲食に使用したとみられる土器が3か所ほどまとめて置かれていたのも確認されています。
また、葺石と埴輪列が確認されており、墳丘の上に並べてあった埴輪は濠の中に転がり落ち、壊れた状態で大量に発見されています。松本平の古墳で埴輪が出土した例は無く、初めての発見となりました。復元された埴輪は140点ほどあり、墳丘のなかほどを巡っていたとすれば1.5m間隔で林立していたことになります。埴輪は普通円筒・朝顔形埴輪・形象埴輪が確認され、人物埴輪は確認されませんでした。形象埴輪には水鳥や鶏、犬(あるいは猪)とみられる動物のものがあります。また、樽形ハソウをまねた器財埴輪も確認されています。埴輪の製造は5世紀後半と比定されます。
出土遺物は周溝内からは確認されており、須恵器の高坏やハソウ、子持ちハソウなどは優品で、5世紀後半から6世紀初頭とみられます。鉄器には鏃・刀子・U字形の鋤頭・馬具があります。馬具は楕円形鏡板付轡と鉸具一括で、馬骨はなかったものの馬の殉葬も考えられます。
平田里1号墳 石室のナゾ
平田里1号墳は、須恵器の優品と馬具が確認されていながら、その内部主体に横穴式石室を採用していないといった不思議な点があります。一般に古墳中期まで、古墳の内部主体は、被葬者の地位により異なっていますが、後期にはいると前方後円墳も小円墳も一律に横穴式石室を採用するようになります。科野国造氏は6世紀前半、すでに本貫の地と考えられる飯田地方で横穴式石室を構築しています。したがって、筑摩郡内に国造一族が勢力をのばしていたら平田里古墳でも横穴式石室が採用されるはずなので、平田里古墳の築造者は科野国造氏以外の氏族ということになるのでしょうか。
コラムクイズ
埴輪には円筒埴輪や形象埴輪(動物や人物、家)といったさまざまな形がありますが、出現が一番早い埴輪はどれでしょうか。
考古博物館雑記② 「考古資料から見る戦争」
前号(考古博物館雑記① 「中山地区の戦争遺産」)は中山地区と戦争のかかわりについて紹介をしました。今号は、戦争の歴史を考古資料から読み解き、考えてみたいと思います。
考古資料から見る戦争
戦争というと日中戦争や太平洋戦争を思い浮かべる方が多いと思いますが、争いの歴史は古く、「魏志倭人伝」に倭国大乱の記載があることから弥生時代にはすでに争いが起きていたことがわかります。
縄文時代の遺跡からは、石を打ち欠いて加工をした「打製石器」が出土しています。また、縄文時代から弓矢(や槍といった道具)が使われ、先端部につけられていた黒曜石が発掘調査で見つかっています。これらの道具は人を攻撃するためのものではなく、動物を捕獲するために使われていたというのが通説です。弥生時代になると石を磨いて加工する「磨製石器」と呼ばる石器が作られるようになります。この磨製石器は打製石器と比べると大変鋭利で、殺傷力が増幅していることは間違いなく、武器として作られたといわれます。
この他、弥生時代には「環濠(かんごう)」という集落への外敵からの侵入を防ぐ溝が造られるようになります。稲作が伝来し、松本平でも稲作が始まるようになりますが、松本平の地形では、水田耕作が可能な平坦で、利水性に富む土地は限られます。この限られた土地と食料そのものを巡り、社会は武器が必要なほど緊張していたと推察されています。
古墳時代になると埋葬者の副葬品としての武具が登場します。弘法山古墳や南方古墳で鉄剣や槍鉋(やりがんな)、桜ヶ丘古墳では甲冑が出土しています。時代が進む中で、ムラの発展、集落の形成が進み、各々が自分の生活を守るために武具を手にしていったのでしょうか。
最後に
弥生時代に武器が作られて、以降の松本平の歴史資料には、まんべんなくどの時代にも武器が確認されます。しかし、弥生時代の前、縄文時代には武器が確認されていません。弥生時代は今から約2,000年前であり、それ以前の人類の営みは数万年を超え、人類の歴史は、武器や戦争と縁遠い時代の方が長くあります。
太平洋戦争時の松本市は陸軍歩兵五十連隊の誘致、陸軍飛行場や軍需工場の建設など「軍都」としての道を歩みました。戦後、連隊跡地は信州大学が開校し学都松本の基盤となり、軍需工場は松本の発展を担う原動力となりました。戦争の遺産を「負の遺産」として扱うのではなく、新たな平和な時代に進むために活用してきた歴史があります。
松本市は昭和61年9月25日に「平和都市宣言」を行いました。その後多様な平和事業の取り組みが行われています。平和祈念式典をはじめとした平和事業は継続して行われ、平成23年には「第23回国連軍縮会議in松本」が、平成26年には「第4回平和首長会議国内加盟都市会議」が松本市で開催されました。平成27年には松本市役所庁舎前に「平和の灯(ともしび)」モニュメントが設置されました。また、中山地区や里山辺地区、旧陸軍歩兵第五十連隊糧秣庫(信州大学)、旧陸軍飛行場跡(菅野小前)に戦争を伝える記念碑が建立されています。
現代を生きる我々は伝え残る戦争の歴史を学び、先人たちの残してきた遺産を受け継ぎ、平和を未来へ継承していけるように、博物館としてどのような活動ができるか考えていければと思います。皆さんも折に触れて平和について考えてみてください。
まつもと平和ミュージアムもご覧ください。
第42回あがたの森考古学ゼミナール(9月10日・10月1日)
昭和54年から続く市民向けの考古学講座です。毎年松本市に関連の深い考古学のテーマを設け、専門家や発掘調査担当者が研究成果や調査結果を分かりやすく講演しており、今年は3年ぶりの開催となります。
本年、松本市立博物館では新築移転に伴う資料整理において、市立博物館で保管されていた他市町村出土の考古資料を各自治体に返却することとなりました。考古博物館では、それら資料の一部を展示するとともに今回の考古学ゼミナールで「ー過去へー 足跡(そくせき)をたどって」をテーマに、松本市及び近隣市町村の発掘調査の歴史や遺跡について、地元研究者だからこそ語ることができる話を伺います。
第一講 「発掘で振り返る塩尻の遺跡」
講 師:小松 学氏(塩尻市立平出博物館館長)
日 時:9月10日(土)午後1時から午後3時
第二講 「昭和の頃の遺跡、発掘、出土品 -松本市周辺の状況-」
講 師:直井 雅尚(松本市教育委員会文化財課職員)
日 時:10月1日(土)午後1時から午後3時
会 場:あがたの森文化会館講堂1階ホール(松本市県3-1-1)
定 員:各講100名
参加費:各講200円
申込み:8月16日(火)午前9時から電話で松本市立考古博物館へ
その他:会場駐車場に限りがあるので、公共交通機関を利用いただくようご協力お願いします。
お問い合せ:考古博物館まで
考古博物館雑記① 「中山地区の戦争遺産」
今号は考古関連のお話はお休みし、考古博物館のある中山地区と戦争について触れたいと思います。
戦争遺産とは
「戦争遺産」とは、軍事拠点、軍需工場、戦闘地、被災地、陸軍墓地といった遺跡や建造物などをはじめとする戦争に関わる様々なものを指します。
ひめゆりの塔を含む“沖縄戦跡国定公園”や“原爆ドーム”は、著名な戦争遺産として挙げられますが、私たちの身近にも戦争遺産と呼ぶべきものは多くあります。例えば、空襲に備えカモフラージュのために壁を黒や茶色で塗られた古民家、神社の境内や公民館の近くにある忠魂碑や慰霊碑なども戦争遺産になります。
また、歴史の枠組みを柔軟に考えれば、戦国時代に造られ戦備えのある松本城、中世の山城、それら以前の時代に行われた争いの武具や痕跡といったものも戦争遺産と呼ぶことができるのではないでしょうか。
太平洋戦争中の中山地区
中山地区は太平洋戦争中に軍需工場が設置され、地区内外から動員で人が集められ外国人労働者も含む多くの人が働いていました。松本市域では、中山地区の他にも里山辺地区で同様の軍需工場が設置され、飛行機の製造が行われていたとされます。現在の松本空港の近くには陸軍飛行場があり、ここから飛ばす飛行機を中山地区や里山辺地区で製造していたということで一連の関係性があったようです。
中山地区や里山辺地区に設置された工場は「半地下工場」と呼ばれ、上空から見た際に一目で工場と判別できないような構造になっていました。半地下工場のほとんどは埋め立てられて田畑となっていますが、当時の工場の基礎と思われるコンクリートが一部残っているところもあります。
また、弘法山古墳の墳頂周辺にも高射機関銃座があったと発掘調査の結果判明しています。弘法山の頂上ということで見晴らしがよかったためこの地に機関銃が設置されたのでしょうか。
松本市内には後世に戦争の痕跡を伝える碑が設置されています。中山地区にも碑があり、中山文庫敷地内に設置されています。
皆さんのお住まいの地域や身近なところにも戦争遺産があると思いますのでお散歩ついでに探してみてください。
次号は、戦争の歴史を考古資料から考えてみたいと思います。
→ 考古博物館雑記② 「考古資料から見る戦争」