考古博物館雑記② 「考古資料から見る戦争」

 前号(考古博物館雑記① 「中山地区の戦争遺産」)は中山地区と戦争のかかわりについて紹介をしました。今号は、戦争の歴史を考古資料から読み解き、考えてみたいと思います。

考古資料から見る戦争

 戦争というと日中戦争や太平洋戦争を思い浮かべる方が多いと思いますが、争いの歴史は古く、「魏志倭人伝」に倭国大乱の記載があることから弥生時代にはすでに争いが起きていたことがわかります。
 縄文時代の遺跡からは、石を打ち欠いて加工をした「打製石器」が出土しています。また、縄文時代から弓矢(や槍といった道具)が使われ、先端部につけられていた黒曜石が発掘調査で見つかっています。これらの道具は人を攻撃するためのものではなく、動物を捕獲するために使われていたというのが通説です。弥生時代になると石を磨いて加工する「磨製石器」と呼ばる石器が作られるようになります。この磨製石器は打製石器と比べると大変鋭利で、殺傷力が増幅していることは間違いなく、武器として作られたといわれます。

打製石器(左)と磨製石器(右)

打製石器(左)と磨製石器(右)

 この他、弥生時代には「環濠(かんごう)」という集落への外敵からの侵入を防ぐ溝が造られるようになります。稲作が伝来し、松本平でも稲作が始まるようになりますが、松本平の地形では、水田耕作が可能な平坦で、利水性に富む土地は限られます。この限られた土地と食料そのものを巡り、社会は武器が必要なほど緊張していたと推察されています。
 古墳時代になると埋葬者の副葬品としての武具が登場します。弘法山古墳や南方古墳で鉄剣や槍鉋(やりがんな)、桜ヶ丘古墳では甲冑が出土しています。時代が進む中で、ムラの発展、集落の形成が進み、各々が自分の生活を守るために武具を手にしていったのでしょうか。

環濠(百瀬遺跡)

環濠(百瀬遺跡)

甲冑(桜ヶ丘古墳)

甲冑(桜ヶ丘古墳)

最後に

 弥生時代に武器が作られて、以降の松本平の歴史資料には、まんべんなくどの時代にも武器が確認されます。しかし、弥生時代の前、縄文時代には武器が確認されていません。弥生時代は今から約2,000年前であり、それ以前の人類の営みは数万年を超え、人類の歴史は、武器や戦争と縁遠い時代の方が長くあります。
 太平洋戦争時の松本市は陸軍歩兵五十連隊の誘致、陸軍飛行場や軍需工場の建設など「軍都」としての道を歩みました。戦後、連隊跡地は信州大学が開校し学都松本の基盤となり、軍需工場は松本の発展を担う原動力となりました。戦争の遺産を「負の遺産」として扱うのではなく、新たな平和な時代に進むために活用してきた歴史があります。
 松本市は昭和61年9月25日に「平和都市宣言」を行いました。その後多様な平和事業の取り組みが行われています。平和祈念式典をはじめとした平和事業は継続して行われ、平成23年には「第23回国連軍縮会議in松本」が、平成26年には「第4回平和首長会議国内加盟都市会議」が松本市で開催されました。平成27年には松本市役所庁舎前に「平和の灯(ともしび)」モニュメントが設置されました。また、中山地区や里山辺地区、旧陸軍歩兵第五十連隊糧秣庫(信州大学)、旧陸軍飛行場跡(菅野小前)に戦争を伝える記念碑が建立されています。

「平和の灯」

「平和の灯」

 現代を生きる我々は伝え残る戦争の歴史を学び、先人たちの残してきた遺産を受け継ぎ、平和を未来へ継承していけるように、博物館としてどのような活動ができるか考えていければと思います。皆さんも折に触れて平和について考えてみてください。
 
まつもと平和ミュージアムもご覧ください。