松本市内遺跡紹介⑰ 「神林地区の遺跡~下神遺跡~」

 神林地区は、松本市の南部、奈良井川支流の鎖川流域に位置し、鎖川扇状地の最末端にあたる標高600m代の比較的平坦な土地です。地中の複雑な土層からは、地区内を流れる鎖川や三間沢川が氾濫と安定を繰り返していたことがうかがえます。また、現在でも、梓川から引水した和田堰と神林堰を水田用水に用いていることから、鎖川や三間沢川が水利に適していないことが分かります。
 神林地区では、昭和30年代に入り、開田事業や製瓦用粘土の採掘の際に縄文土器などが出土し、遺跡の存在が知られるようになりました。そして、昭和58(1983)年のほ場整備事業に伴う下神遺跡の発掘調査を皮切りに、昭和60(1985)年の長野自動車道建設、平成10(1998)年の新臨空工業団地造成などの事業により発掘調査が実施され、縄文時代から平安時代の遺跡が明らかになっています。

下神遺跡

 昭和58年に、ほ場整備事業に伴う緊急調査が行われ、総計24,000㎡の調査面積で竪穴住居跡67棟、掘立柱建物跡31棟などが確認され、奈良三彩の小壷や佐波理鋺、銙帯(かたい)など、有力者の所有物と思われる希少品が出土しました。
 昭和60年から長野県埋蔵文化財センターによって長野自動車道建設予定地約39,400㎡が調査され、竪穴住居跡138棟や掘立柱建物跡50棟のほか、溝や柵が確認されました。床面積155㎡の巨大住居や、集落を区画する中央に柵がある2重の溝など、通常の集落では見られない遺構が確認されました。出土遺物では、「草茂」と記された墨書土器などの文字資料が豊富に出土しました。
・奈良三彩の小壷
やきものの表面に緑色、黄色、褐色などの釉薬をかけて焼いた陶器です。中国の唐時代に作られたものを唐三彩といい、それに対し、奈良時代以降にこの技術を受けて日本で作成されたものを奈良三彩といいます。
・佐波理鋺
青銅製の椀の一部です。食卓で使用する器は、素焼きの土器が主流だったこの時代、青銅製の椀は、権力の象徴として有力者が所有したものだと考えられます。

奈良三彩小壺

奈良三彩小壺

下神遺跡の文字資料

 下神遺跡から「草茂」と書かれた土器が17点、画像の不明文字(※変換不可能文字)が書かれた土器234点出土しています。また「而」や不明文字の墨書土器も見つかっており多くの墨書土器が出土しています。
 また、8世紀代の住居から出土した須恵器坏の底には「□□小長谷部真□」と読める文字が書かれていました。小長谷部の同例は、正倉院の白布墨書名の中に記載があります。更に3点の漆紙文書の出土も確認されています。漆紙文書とは漆を入れた器の蓋として、反故を使用したもので、漆がしみ込んでいたため紙が残ったものです。3点のうち文字が確認できたのは1点で、「調丁」「交易物」といった文字が読み取れることから調の交易に関する文書とみることができます。

墨書土器:不明文字

墨書土器:不明文字

草茂の庄とは

 平安時代に記された『多武峰(とうのみね)略記』の887年に
“「筑摩郡蘇我郷字草茂庄一処、右大納言藤原冬緒卿、所奉施入也」(一部略)”
とあります。ここから、「草茂」とは、大納言藤原冬緒が所有した筑摩郡蘇我郷の荘園であり、887年に多武峰の妙楽寺に施入した「草茂庄」を示すものであるとみられます。
 かつては、草茂庄は塩尻市洗馬周辺ではないかと考えられていましたが、下神遺跡からこの墨書土器が出土したことで、草茂庄の所在が明らかになりました。
 この地を開発した有力者は、8世紀に信濃国府が上田から松本に移転したのを機に、国司との結びつきをもちながら、開発地やその周辺の未開地を荘園として藤原氏に寄進したと考えられ、その管理・経営の拠点となったのが、下神遺跡の集落であったと推測されます。
 9世紀初頭にかけ爆発的な発展をみせた下神遺跡は、9世紀後半に衰退します。それは、ちょうど藤原冬緒が草茂庄を妙楽寺に施入した時期と一致します。藤原氏の手を離れたことで開発が停滞したのか、または、自然災害等によるものなのか、その理由は明らかではありません。

墨書土器:「草茂」

墨書土器:「草茂」