今月の短歌 ~窪田空穂の歌の魅力をご紹介します~

〔10月の短歌〕

覚めて見る一つの夢やさざれ水庭に流るる軒低き家

 (さめてみる ひとつのゆめや さざれみず にわにながるる のきひくきいえ)

                     歌集『さざれ水』所収 

  1歌集の巻頭にある歌で、「庭」と題した五首連作の第一首です。
 「さざれ水」はさらさらと音を立てて流れる水。「さざれ」は「小さい」「細かい」意で「さざれ石」「さざれ波」という語もあり、万葉集以来の古語。「さざれ水」というと自然にこれらの語が連想され、そこの浅い清く澄んだ小川の底に小石が透いて見え、小さい波がたっているイメージが浮かびます。窪田空穂の長男で歌人・国文学者の窪田章一郎は「窪田空穂の短歌」で次のように記しています。

「覚めて見る一つの夢」は、憧れの心をもって眼前に浮かべる一つの情景で、それは軒の低い家の庭に、さらさらと音を立てて流れている小川なのである。明るい光と静けさとを感じさせる歌である。都会の小さな家では求められない庭の景で、おそらく信濃の故郷の家を思っていたのであろう。その庭はかなり広く、泉水があって、築山からは細い水を落としていた。しかし、連作はこの家そのもの描いてはいない。

 水の流れる音の聞こえる家に住みたいと、或る時漏らしたことがあった。若い日のことで、突然不可思議なことを聞く思いで記憶にとどめたのであるが、その憧れをついに現実のものとすることのなかったのを今思っている。さらさらと流れる水の音を聞いて暮らしたいというのは、この作者が一人の胸に秘めたもので、個性的である。歌には「さざれ水」とだけあって、水の音は直接言葉としていないが、作意の中心はそこにあるのである。なお、「軒低き家」は雪国の家構えの常でもある。

 郷里や父母について、多く詠った空穂。故郷の家を思いつつ、憧れの心をもって、水の流れる音の聞こえる家に住みたいと漏らした空穂。軒低き家と、さらさらと音を立てて流れる小川に憧れたのでしょう。
 なお、窪田空穂記念館創設に関係した大勢の方々のご要望から、窪田空穂記念菓子「さざれ水」が創作されています。

令和4年度「収蔵資料公開展」を開催します

 概要

R4チラシ(HP用) 窪田空穂は、明治10年(1877)生まれで、明治・大正・昭和の3時代に渡って活躍した歌人です。89年間の生涯において、1万4千首余りの短歌を残しました。空穂の歌は「境涯詠」(みずからの生きる心境を詠い込んだもの)といわれています。また、他にも草木花の歌、旅行詠、時事詠、社会詠、風俗詠など広く社会現象をとらえていました。
 本公開展では、収蔵されている多くの掛け軸、短冊、色紙の中から「地球」「天地」「星」「月」、そして「父母」をテーマとして、平和の大切さ、命の尊さ、空穂の両親に寄せた尊敬と感謝の念に触れていただきたいと思います。
 最新収蔵資料は、寄贈者・安田治生氏の祖母・石井栄氏が、窪田家で働いていたことに係る資料で、空穂の作歌過程を見ていただける展示です。また、空穂の三高弟(松村英一、半田良平、植松寿樹)に関係する記念館収蔵資料を公開します。ぜひ、ご覧ください。

〇最新収蔵資料
 寄贈者の祖母が、窪田家で働いていたことに係る資料で、空穂の作歌過程を見ていただける展示です。
〇空穂の歌セレクション
 尊い生命を受けついでいる「地球」、森羅万象を包みこむ広大な「天地」、宇宙にひろがる「星」「月」、そして心の琴線に触れる「父母」を詠んだ歌をセレクションしました。平和の大切さ、命の尊さを考え、両親に寄せる尊敬と感謝の念に触れる機会とします。
〇空穂の三高弟の歌と書
 空穂の三高弟という名士があり、松村英一、半田良平、植松寿樹に関係する記念館収蔵資料を公開します。
 是非、ご覧ください。

詳細

開催名: 窪田空穂記念館 収蔵資料公開展「最新収蔵資料公開・空穂と三高弟の歌セレクション」
会 期: 令和4年9月13日(火) ~ 10月30日(日) 
休館日: 月曜日(休日の場合は、翌日休館)
開 館: 午前9時~午後5時(入館は午後4時30分まで)
観覧料: 大人310円 中学生以下 無料
展 示: 掛軸、書簡、色紙、短冊など、パネル解説 

 

 

 

今月の短歌 ~窪田空穂の歌の魅力をご紹介します~

 〔9月の短歌〕

もろもろの野の獣(けもの)さへねらふ果実(このみ)をあまたわが得し

                                                             第19歌集『丘陵地』所収                        「秋の果実 」と題された中の一首です。                                                                                          秋になると各地から知友から空穂のもとへ贈られてくる果実から視点を転じています。                                                      

DSC04063 野の鳥や山の獣らが欲しくてたまらない果実が、坐りながら人間の我はこのように沢山、都会に住んでいながら手に入れているのだと思わされたのである。                           秋の山野は鳥や獣らには書き入れ時であり、その季節が来るのを待つ宝庫である のを心にえがいている。                                  果実園で栽培する果実は人間が食べるために収穫するのが実状であるが、本来に立ちかえれば人間が山野に行き、鳥獣と喜びをわかちあうものだったのである。                                    このような気持ちが背後にある、微笑を誘う空穂らしい一首である。     

山  微笑を誘う一首ではありますが、何か私達が忘れてしまった大切なことを詠っているような気がします。               今、ニュースなどで山からおりてくる生きもの、例えばクマ、サル、イノシシ。皆さんは見てどの様に思われていますか?                                                                                                                                                        空穂の視点は、昔はあったであろう人と生きものとの関係の豊かさを詠っているようです。 

 

今月の短歌 ~窪田空穂の歌の魅力をご紹介します~

〔8月の短歌〕

    母は死に伜(せがれ)生れし八月一日

              今年も旅にめぐりあへるかな

   (はははしに せがれうまれし はちがつついたち(はづきひとひ) 
                     ことしもたびに めぐりあえるかな)

                     歌集『清明の節』所収 

 

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昭和38年 軽井沢にて

  「軽井沢 八月一日」と題された、空穂89歳の頃の歌です。8月1日は母の命日であり、また息子章一郎の誕生日でもありました。
 空穂が母の危篤を聞いたのは、勉学を挫折して東京専門学校(現 早稲田大学)を中退し、大阪の米問屋で働いていた時のことでした。農家の次男に生まれた空穂ですが、当時は長男が家を継ぎ、次男は他の家の養子になることが一般的であり、そうして故郷に骨を埋めるか、身を立てて何者かになろうとするか、もがいている最中でした。20歳でした。帰郷した空穂は母の看病にあたり、一か月後に看取ります。
 章一郎が生まれたのは空穂が31歳の時でした。再入学した東京専門学校を卒業し、同郷の妻を娶り、少しずつ文筆業で東京の生計を立て始めていました。帰郷した際には生家隣家の老女に、きっと母の生まれかわりだと諭されたと述懐しています。
 空穂は81歳から毎年夏を軽井沢で過ごしており、歌中の「旅」とはそのことを指しています。この歌を詠んだのが軽井沢への最後の「旅」となり、空穂は翌年亡くなります。遺歌集『清明の節』は空穂没後に、空穂と同じ道をたどり歌人となった章一郎の手により編集され、刊行されました。

 

七夕展示『星に願いを』を開催します

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 窪田空穂記念館では、明治期の面影残る空穂生家の縁側で七夕人形や笹を飾っています。
 生家のお庭と七夕人形を眺めながら、願いを込めて短冊を書いたり、ゆったりとした時間を過ごしてみませんか?

 

 

 

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 記念館では小学生が願い事を書いた短冊を飾り、七夕を盛り上げてくれています。                                                                                          
 簡単な七夕人形をつれるコーナーもあります。
 ご来館おまちしております☆彡

        

    

1 会 期

  令和4年7月2日(土)~ 8月14日(日)
  月曜日休館(祝日の場合は翌日休館)

2 料 金

  通常入館料:大人310円、団体(20名以上)200円、中学生以下・70歳以上の松本市民は無料

3 内 容

 ①七夕縁側を再現DSC03808+
 生家では七夕人形の展示や笹飾りを行い、七夕の縁側を再現しています。
 短冊もご用意しています。ぜひ願い事を書いて笹に飾りつけてくださいね!

 ②星に願いを~芝沢小学校1年生の願い事~
 記念館2階の笹に芝沢小学校1年生が願い事を書いて飾ってくれています。
 素敵な願い事がたくさんあって笹もにぎやか♪

 ③簡単に作れる七夕人形作り 
 簡単な七夕人形を作れるスペースをご用意しています。
 期間中毎日開催しており、申し込みは不要、無料です。
 大人も子どもも参加できます!
 自分で作った七夕人形をご自宅に飾ってもよし、生家の笹に飾ってもよし!

今月の短歌 ~窪田空穂の歌の魅力をご紹介します~

〔7月の短歌〕

 この家と共に古りつつ高野槇二百とせの深みどりかも

 (このいえと ともにふりつつ こうやまき ふたももとせの ふかみどりかも)
                               歌集『冬日ざし』所収

 

 生家『冬日ざし』は空穂の第14歌集で、昭和14年の空穂63歳の作品「故郷」「家居」と題された3首の内の1つです。
 空穂生家は、父・寛則が明治8年(1875年)に改築をしたものです。空穂はこの家で、誕生から18歳まで、20歳から23歳まで、疎開時の68歳に生活しています。
 生家は、本棟造りといわれる建築で、江戸時代の後半から明治のはじめにかけて多く造られた、長野県の中南信地方に特有の様式です。生家は記念館と道路を挟んだ向かいにあり、緑に囲まれた庭には空穂が詠んだ大きな高野槙がそびえています。
 高野槙は日本固有の常緑高木で、幹が真直ぐ天を指して伸び、やがては老樹となります。槙(まき)は真木とも書き、万葉集などでは、杉・檜(ひのき)などの良材となる木を讃える総称ともなっており、木曾五木の中にも数えられています。和名は高野山真言宗の総本山である高野山に多く生えていることに由来し、高野山では霊木とされています。

 

 2生家歌を詠んだ当時、空穂は二百とせ(200年)と詠み、現在、樹齢300年ともいわれるこの高野槙は、生家の改築時には、樹齢150年と推測され、空穂生家の目印でもあったことでしょう。なお、高野槇は「大きく、まっすぐに育って欲しい」と、秋篠宮悠仁(ひさひと)親王の身の回りの品につける「お印」に、選ばれています。
 窪田空穂記念館では、7月2日(土)から8月14日(日)まで、「松本の七夕・2022」(星に願いを)と題し、空穂生家に七夕人形を飾り、七夕や星の短歌の紹介をしています。空穂生家が七夕飾りに彩られる夏のひと時、緑につつまれた縁側に腰をおろして、高野槇を見上げてみませんか。

6月28日 芝沢小学校の皆さんに清掃活動をしていただきました

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 6月28日、芝沢小学校の児童の皆さんに清掃活動をしていただきました。生家や駐車場など、暑い中、丁寧に掃除をしてくださいました。
 芝沢小学校は窪田空穂記念館から徒歩数分のところにあり、清掃活動や「子ども将棋教室」などイベントへのご参加、市内小中学校へ短歌を募集する「松本子どもの短歌」での多くのご応募など、多岐にわたり本館の活動にご協力いただいております。
 7月7日には芝沢小1年生の皆さんによる七夕の飾りつけが行われます。合わせて七夕人形が飾られますので、是非お越しください。

6月26日 お茶会が開かれました

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6月26日、窪田空穂生家でお茶会が開かれました。 
 表千家の講師をされている笠原隆行さんからご提案いただき、当日は松本大学の学生の方など、およそ20名の方が参加されました。
 普段はご自宅で開かれていたそうですがコロナ渦などで見送りが続き、およそ2年ぶりの開催となる今回は窪田空穂生家を利用していただきました。

 窪田空穂記念館ではこういった生家や会議室の貸し出しなどのご相談を承っております。
お気軽にお電話などでご相談ください。

Tel:0263-48-3440

※この度はお茶会の方々への貸し出しとなっており、参加募集などは行っておりません。

 

令和4年度 窪田空穂生家「将棋教室」開催のお知らせ

窪田空穂の生家で将棋教室を開催します。憧れのプロ棋士と対局してみましょう!

講 師 石川 陽生七段   田中 悠一五段syougi_kids
    日本将棋連盟塩尻支部の皆さん

日 時 令和4年 7月23 日(土)
    ★午前の部(小・中学生対象)  午前10時~正午
    ★午後の部(小・中学生対象) 午後1時~3時
    ※内容は午前午後共通です

定 員 各部20名(先着順)
    ※参加希望は午前か午後のどちらかのみになります

会 場 窪田空穂生家(窪田空穂記念館向かい)

料 金 無料

申 込 電話又はFAXで窪田空穂記念館まで
    ☎ 0263(48)3440 FAX(48)4287

●コロナ対策のお願い

・感染防止のため人数を少なくして実施します
・対象は小中学生のみとします
・感染状況によっては将棋教室を中止にする場合があります
・対局にあたり十分な距離を保てないためマスク着用をお願いします
・生家入り口で検温、手の消毒を行います

今月の短歌 ~窪田空穂の歌の魅力をご紹介します~

6月の短歌

この路地の東の果ての曲がりかど茂二郎生きてあらはれ来ぬか

                                                             (歌集 『冬木原』所収)

鬼怒川温泉

応招を前、空穂と茂二郎が鬼怒川温泉へ

 茂二郎(空穂の次男)が路地の曲がり角から現れてこないかと願いながら、幼い頃からの 茂二郎の面影を思い浮かべています。 
 1939年(昭和14年)第二次世界大戦が勃発し、その後1941年真珠湾奇襲攻撃によって太平洋戦争に突入します。昭和18年学生の徴兵延期制度が廃止となります。いわゆる学徒出陣です。
 空穂の次男茂二郎も応召となり中国北部へと出征します。出征後は便りなど思いのままにならず、茂次郎宛の手紙が返送されたことで茂次郎は戦線に向かったのだろうかと不安を募らせる空穂でした。

 

 茂次郎のことをいつも思っていた空穂ですが、その後は生死不明のまま終戦をむかえます。中国からの引き揚げも始まり、茂二郎が帰国してくることを期待しつづけた空穂でしたが、昭和28年最後の復員船にも茂二郎が乗っていないことを知り、落胆し、その悲しみを歌にしています。
 茂二郎は終戦の直前に、中国北部から満州へ移動させられ、終戦と同時に捕虜となり、シベリアに抑留され、そして昭和21年2月発疹チフスで病死していることが昭和22年5月のある日、茂二郎の戦友が訪れ明らかになります。

 

 今月の短歌での紹介は難しいのですが、空穂はシベリアの捕虜収容所で悲惨な死を遂げた茂二郎を悼み、悲しみ憤りをこめ壮大な挽歌『捕虜の死』を詠っています。
 戦争がもたらした事実への痛烈な憤りを表現し我が子への悲しみの声を吐露しています。戦争は多くの人々、生きているものが犠牲となり、怒り・憎しみ・悲しみ・落胆そして後悔や懺悔が残る、だれもが望んでいないのです。

(空穂の自由日記より「捕虜の死」記述)