今月の短歌 ~窪田空穂の歌の魅力をご紹介します~

6月の短歌

この路地の東の果ての曲がりかど茂二郎生きてあらはれ来ぬか

                                                             (歌集 『冬木原』所収)

鬼怒川温泉

応招を前、空穂と茂二郎が鬼怒川温泉へ

 茂二郎(空穂の次男)が路地の曲がり角から現れてこないかと願いながら、幼い頃からの 茂二郎の面影を思い浮かべています。 
 1939年(昭和14年)第二次世界大戦が勃発し、その後1941年真珠湾奇襲攻撃によって太平洋戦争に突入します。昭和18年学生の徴兵延期制度が廃止となります。いわゆる学徒出陣です。
 空穂の次男茂二郎も応召となり中国北部へと出征します。出征後は便りなど思いのままにならず、茂次郎宛の手紙が返送されたことで茂次郎は戦線に向かったのだろうかと不安を募らせる空穂でした。

 

 茂次郎のことをいつも思っていた空穂ですが、その後は生死不明のまま終戦をむかえます。中国からの引き揚げも始まり、茂二郎が帰国してくることを期待しつづけた空穂でしたが、昭和28年最後の復員船にも茂二郎が乗っていないことを知り、落胆し、その悲しみを歌にしています。
 茂二郎は終戦の直前に、中国北部から満州へ移動させられ、終戦と同時に捕虜となり、シベリアに抑留され、そして昭和21年2月発疹チフスで病死していることが昭和22年5月のある日、茂二郎の戦友が訪れ明らかになります。

 

 今月の短歌での紹介は難しいのですが、空穂はシベリアの捕虜収容所で悲惨な死を遂げた茂二郎を悼み、悲しみ憤りをこめ壮大な挽歌『捕虜の死』を詠っています。
 戦争がもたらした事実への痛烈な憤りを表現し我が子への悲しみの声を吐露しています。戦争は多くの人々、生きているものが犠牲となり、怒り・憎しみ・悲しみ・落胆そして後悔や懺悔が残る、だれもが望んでいないのです。

(空穂の自由日記より「捕虜の死」記述)

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〔5月の短歌〕

 初夏の夕べの空の水浅黄われ一人ゐて電燈つけぬ

 (はつなつの ゆうべのそらの みずあさぎ われひとりいて でんとうつけぬ)
                               歌集『青朽葉』所収

 

窪田空穂生家、離れにて撮影

窪田空穂生家、離れにて撮影

 「初夏の覚ゆる頃に」と題された3首の内の1つです。
 梅雨入り前のある日の夕暮れ時が詠われています。水浅黄(水浅葱)とは、藍色を薄めた浅葱色にさらに水色を混ぜたような、ややくすんだ濃い水色のことを指し、徐々に日が長くなり空がまだ暮れ残っている様子が見て取れます。ひとり電燈を点けるという何気ない動作は、孤独な様子ですがどこか安らぎが感じられます。
 空穂を象徴する作歌態度として「面白いもの」ではなく、「面白いと思ったこと」を詠うというものがあります。日々のこととして電燈を点けた際に、ふと安堵を感じた自分自身の姿を見つけ、そこに面白味を感じたのではないでしょうか。「われ一人ゐて」からは、水浅葱色に広がる世界の中でその様子を客観的に感じている様が見て取れます。
 自身の心の動きを丹念に掬い取りながら、ありのままの日常生活を詠う。空穂の本領といった歌ではないでしょうか。空穂はこの歌を気に入っていたようで、「現代歌人朗読集成」では本人による朗読を聞くことができます。

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〔4月の短歌〕

四月七日午後の日広くまぶしかりゆれゆく如くゆれ来る如し

(しがつなのか ごごのひひろく まぶしかり ゆれゆくごとく ゆれくるごとし)
                               歌集『清明の節』所収

 この歌は第23歌集「清明の節」に収められています。晩年の空穂空穂の遺歌集です。そして、この歌はこの歌集の最後に「四月八日」と題して収められた二首のうちの一首です。空穂が亡くなったのは四月十二日なので、死の直前までその心象を歌にしようとしています。「ゆれゆく如くゆれ来るごとし」は、直接には日差しのことをさしていますが、同時に空穂自身の意識の揺れ動いている様を表現しています。命と死のせめぎ合いをも歌にしようとする空穂の生き方は、まさに空穂の歌が「境涯詠」と言われる所以ではないでしょうか。 
 四月は、空穂自身が永眠した月ですが、妻藤野や次女なつが亡くなった月でもあります。四月は、希望あふれるスタートの月、花や緑が増えていく生命力を感じる月ではありますが、空穂にとっては鎮魂の月ともいえるのではないでしょうか。

遺歌集「清明の節」

空穂の葬儀は、昭和42年4月16日早稲田大学大隈講堂で営まれました。そして、遺骨は雑司ヶ谷墓地に埋葬されました。また、遺言により、松本市和田区無極寺の父母の墓に分骨埋葬されました。
 翌昭和43年1月に「清明の節」が刊行され、3月には全集全29巻が完結となりました。

 

 最後に「四月八日」の他の一首を紹介します。絶詠となった歌です。

まつはただ意志あるのみの今日なれど眼つぶればまぶたの重し

(まつはただ いしあるのみの きょうなれど まなこつぶれば まぶたのおもし)

                      

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【3月の短歌】 

       花の枝に来ては見下ろす庭雀 

                   さがす物ありて汝れら忙しき
                             歌集「木草と共に」所収 
                                                 

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   冬の去らない庭に雀が忙しく餌を求めている
   様子詠んでいます。
   雀は身を守ることに敏感で、木の枝に来ては地上を
   見下ろしまわりを伺っています。

 この短歌を詠んだ空穂は80代半ば、足腰も不自由になり足もとがおぼつ                  かないため歩くことにも注意をするような生活を送っていました。四畳半の小書斎に籠り、ガラス戸の外に忙しく働いている雀の動作を細かく眺めるところに、老をしみじみ感じていることを味わいとることができる作品です。
 空穂の書斎の前の空地には、小庭があり石が置かれ木や草が植えられていて老の身の疲れやすい目を遊ばせるのに十分でした。     

04-145-002 空穂はなぜ「木草と共に」を刊行したのでしょう・・・
昭和39年、空穂はいわゆる米寿にあたっており、この年
諸友から祝賀の会を開いていただいています。そこで、自分でも自祝のを心持って何か記念になることをしたいと思い、老の心やりに詠んできた短歌を編んだのです。

 

(米寿の祝賀の会写真)

 

                                                                                  

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〔2月の短歌〕

二月の日天に夢見て夢の数落ししと見る白梅の花

(にがつのひ そらにゆめみて ゆめのかず おとししとみる しらうめのはな)

                                                                                                               歌集『まひる野』所収

 

 DSC03240+歌集『まひる野』より、「そよ風」と題してまとめられた42首の内の1つです。『まひる野』は空穂の第1歌集であり、空穂が短歌を始めた23歳頃から28歳までの歌がまとめられています。
 2月のまだ冷たい大気の中、空に伸びる枝から散っていく数多の花びら。その様子を白梅が抱いた夢のように捉え、清純であわれな様子を詠んでいます。当時空穂は東京都文京区にある湯島天神の近くに下宿しており、その境内の梅の花を見て詠まれた歌です。
 空穂は美しい落花を見て、それを夢と表しましたが、それは自身の心情と重なるところがあったのだと思われます。夢とは、空穂自身が抱いた数々の夢でもあるのです。若い空穂は多くの夢を抱き、それが破れてさびしい現実に帰ります。しかし、自身の胸中にある夢はたとえ現実のものとならなくても尊く、美しいと感じています。
 この歌について窪田章一郎氏は、『「天に夢みて夢の数」と「夢」という語を二つ用い、一首の中で重く働かせているのは、白梅の花と人間とを差別なく感じていることの現われで、青年の若い希望をこめるこの語によって人事と自然とが結ばれ、気分の豊かさを味わわせる歌である』(「窪田空穂の短歌」)と解説しています。

 

 

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〔1月の短歌〕

 昭和3年初頭の作品。空穂51歳の時の作品です。

 
生活は一に信なり信あらば道おのずから開けゆくべし

(せいかつは いちにしんなり しんあらば みちおのずから ひらけゆくべし

                                       歌集『青朽葉』所収

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 この歌は第11歌集「青朽葉」に収められています。「年加はれる子らを見て」と題する一連3首の中の1つです。20歳の長男章一郎、15歳の長女ふみに対して、さとすように伝えています。
 歌の意味は、「どのような時代になっても、生きていく上で大切なものは信である。その信があれば、生きる道は必ず開けていく」と正に歌の詞通りです。これは、空穂が自身の半生を振り返り、学んできたことをこれから世にでていく子どもたちに伝えようとしたものです。価値観が多様化し、多くの情報が溢れている現代においても、ぐっと心に響く歌であり、特に若い人たちには心に置いてほしい歌のひとつです。
 若い頃から空穂翁と呼ばれていた空穂の作品には、掲歌のように人生訓として味わえるような内容のものも多くあります。二首ほどあげてみたいと思います。


もろき器いたはるに似ていたはれと古人も教えけり君 (濁れる川)

人の為に人は生まれずその人をよしとあしきとわが為にいふな (鏡葉)

 
 空穂の実感から生まれたたくさんの人生訓は、現代の私たちの心にも響き、多くの事に気づかせてくれます。令和4年、新しい年がスタートしましたが、空穂の歌に学びながら、実り多き1年になればと願っています。

今月の短歌 ~窪田空穂の歌の魅力をご紹介します~

   あご髯の白髪まばらに伸び立ちて 

                ほしけ薄の穂のごと

                         第21歌集『木草と共に』

風邪をひいて剃刀をつかわず過ごした日の歌空穂(12月)

下句のたとえから察すると、かなり日数が経ていたことがわかります。                           それにしても「ほけし薄の稲」は度がすぎているのでは・・・              と息子の章一郎氏も語っています。                                                        残念ですが、どのようなお顔だったのかは今となっては想像するしかありません。章一郎氏もきっとユーモアを添えようと思ったのでしょうと言っています。
空穂の髯は濃くはなく「まばら」と歌にある通りだったそうです。           西洋剃刀を愛用して、石鹸を泡立てて顔に塗り、いつも一人で剃っていたようです。おそらく腕に自信があったのでしょう。
歌をユーモアに詠んでいるこの時は、体調がよくなったと思われます。

『木草と共に』
昭和35年から38年、空穂満83歳から86歳までの4年間の短歌847首がおさめられており、その中の1首です。
空穂も日々少しずつ体の衰えを感じているためか、老境へと向かっていきる空穂の心境が詠まれている作品が目にとまります。                                              

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〔11月の短歌〕

  枝はなれ地のものとなるくれなゐにDSC02942

       染み極まりて照れる楓葉

  (えだはなれ ちのものとなる くれないに

      しみきわまりて てれるかえでば)

              歌集『老槻の下』所収

 
 1958年、空穂81歳のころに詠まれた歌で、「立冬の空」と題された4首の内の1首です。
 立冬の日の地上の様子です。楓の紅葉が枝を離れ、地上に落ちても同じような美しさを見せている。晴天の日に照らされて、その紅は極みに達していると詠んでいます。落葉は生命の晩年を思わせ、その様子を見ている老齢になった空穂自身とどこか重なります。しかし哀愁を詠うのではなく、詩の調子は明るく活力があります。

 

DSC02944   新衛星生まれ出でてはめぐりやまぬ

         地球の上に人皆せはし

(しんえいせい うまれいでては めぐりやまぬ

     ちきゅうのうえに ひとみなせわし)

              歌集『老槻の下』所収

                                                    

 同じく「立冬の空」からもう1首ご紹介します。「立冬の空」と題された4首の中で、空穂は空の様子、立冬を迎える自身の思い、上記で紹介した地上の様子をそれぞれ詠いますが、4首目では空を飛び越え、その上を巡る人工衛星に思いを馳せます。
 1957年にソビエト連邦によって初めて人工衛星が打ち上げられてから一年、この「新衛星」は続いて打ち上げられたアメリカによるものと思われ、空穂の好奇心、感性の若さがうかがえます。
 対となるように下句では地上の人間が詠われています。忙しなく存在する人間とその人間によって生み出された人工衛星が軌道上を巡り続けている、穏やかな秋空の下にいる自分自身と同時間上に起こっていることとは実感し難いが、紛れもない事実であるということを想う、独特の感慨があります。

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〔10月の短歌〕

男体の山むらさきに秋ぞらにうねりのぼりて空のさやけき
(なんたいの やまむらさきに あきぞらに うねりのぼりて そらのさやけき)

                                       歌集『鳥声集』所収

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空穂 34歳頃の写真

 この歌は第5歌集「鳥声集」に納められています。大正4年の秋、39歳の空穂は女子美術学校の講師として、修学旅行に加わり日光へ行きました。その時に、戦場ヶ原で詠んだ一首です。山全体が紫色に映え、秋空に向かってそびえ立つ男体山の姿を印象深く詠んだ歌です。「うねりのぼりて」に力量感があります。
 空穂は、明治44年から大正4年までの5年間、家計を支えていくために、この女子美術学校で講師として、国語と英語を教えていました。大正5年からは、読売新聞社に入社し、身の上相談欄を担当しました。

 

 

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「男体の」の掛け軸

 現在記念館では収蔵資料公開展を開催しています。公開展では、空穂の軸を13点公開しており、その中に掲出の短歌の軸もあります。(左写真)他にも、中学校の教科書に掲載されたことのある「鳳仙花ちりこぼるれば小さき蟹鋏ささげておどろき走る」などの有名な短歌の軸も展示しています。その他にも、空穂と関係のある窪田五雲の日本画や島秋人の遺愛品なども展示しています。10月31日まで開催していますので、ぜひ足をお運びください。お待ちしています。

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収蔵資料公開展の様子

今月の短歌 ~窪田空穂の歌の魅力をご紹介します~

 

    たけ高き紫苑のつぼみ色づきぬ

                赤とんぼの来てやとまらむ

                             大正10年 「青水沫」DSC02754 - コピー

歌集 青水沫 の「病後」と詞書の中にある歌の一つです。                   紫苑(しをん)の細かい蕾が紫に色づいているのに気づきやがて赤とんぼが来る          であろうと、ふと思った心の歌です。 病気が癒え、さわやかな秋の到来しているのを感じた喜びで、子供のように素直に味わう心の弾みを表現している歌です。

※詞書の病後とは、この時代スペイン風邪が流行、空穂も第8歌集「朴の葉」にて「流行感冒に羅る」という歌を載せているので、もしかしたら病後の病とはスペイン風邪のことかもしれません。

                                                                        

窪田空穂は松本市和田の農家に生まれ、幼い頃から野の草花に親しみ、晩年期はより多くの植物の歌を詠んでいまます。ふつうの人は植物を草花とか草木と呼びますが、空穂は「木草(きぐさ)」と独特な表現をします。平成25年には「ふるさとの草花画展」を窪田空穂記念館で開催し          IMG_4833                空穂が植物を詠んだ短歌をパネルにしたものと柴野武夫氏が描いた植物写生画をコラボした展示を多くの方に見ていただきました。        

DSC02760                        展示後・・多くの方からの反響があり「窪田空穂記木草」という一冊の本になっています。