松本市内遺跡紹介⑫ 「里山辺地区の古墳~丸山古墳~」

 里山辺地区は、松本市街の東に位置し、美ヶ原から流れる薄川(すすきがわ)の流域に沿って発展した地域です。狩猟・漁撈(ぎょろう)・植物採集といった面で恵まれ、古くから人々の往来をしめす遺跡が、谷間に連続しています。
 また、奈良・正倉院の古布には「筑摩郡山家郷」と記されるなど、市内でも早くから開発され、数多くの遺跡が残っています。

丸山古墳

 丸山古墳は、美ヶ原温泉から藤井沢を上流へ向かった場所に位置します。砂防ダム建設にあたり将来的に土砂の中に埋没してしまう恐れがあったため、平成3(1991)年度に松本市教育委員会が記録保存のための調査を行いました。砂防ダムが建設された現在は藤井沢ダム公園に移築された丸山古墳を見ることができます。
 本墳は、6世紀中頃~後半の小規模古墳であるとともに墳丘構造から積石塚古墳であることが判明した円墳で、石室は横穴式で全長6.15mです。出土遺物は、土師器(杯・高坏)や須恵器(坏・高坏・ハソウ・横瓶・甕など)、武器(鉄刀・鉄鏃)、装身具(耳環・勾玉・管玉など)が確認されました。

平成3年度の調査時の丸山古墳

平成3年度の調査時の丸山古墳

移築された丸山古墳

移築された丸山古墳
天井石を利用し作られた「丸山大神」の石碑も見ることができます

 平成3年度に行われた調査は2回目で、1回目は大正9(1920)年に二木諫藏氏によって発掘が行われています。大正11年に、宮坂光次氏によって古墳の実見の様子や二木氏から発掘についての聴取内容が「人類学雑誌」にて発表され、松本市里山辺にある小規模古墳として研究者に知られようになりました。また、同年に二木氏によって丸山古墳の出土遺物の大半が東京帝室博物館(現・東京国立博物館)へ寄贈されています。

松本平に見る積石塚古墳の性格

 松本平の積石塚古墳は、女鳥羽川右岸と薄川右岸に古墳群があり、両古墳群ともに河川の縁辺部に5、6基が分布し、連続して築造された古墳の可能性が高いと考えられています。しかし、丸山古墳は藤井沢が形成する小規模扇状地の扇頂部に位置し、従来の松本平の積石塚古墳とは立地が大きく異なっています。また、長野県内の積石塚古墳の性格については、渡来系氏族の築造によるもので被葬者の生産基盤については馬匹生産が考えられますが、丸山古墳からは馬具とみられる出土遺物は確認できていません。
 また、本墳周辺地はかつて松本城の石垣用に石材が切り出されたこともあり、石室・墳丘用の礫が獲得しやすい土地でもあり、環境自生説と捉えることもできますが解明には至っていません。

里山辺地区の古墳たち

 里山辺地区では多くの古墳が発見されています。中でも有名なのは長野県史跡の「針塚古墳」です。「針塚古墳」の詳細は考古博物館ニュース⑦「古墳を見学しよう」をご覧してください。
 針塚古墳がある薄川扇状地扇央には、東西2.4kmにわたって10基の円墳が点在しており、うち5基が積石塚古墳です。破壊されてしまったものもある中で、「大塚古墳」「古宮古墳」「猫塚古墳」「荒町古墳」などの存在が確認されています。薄川以南の地域では「巾上古墳」や「御符古墳」が確認されています。
 薄川扇状地右扇側の山麓部にも小河川ごとに後期古墳が分布しています。追倉沢(おっくらさわ)川の下流左岸に「上金井古墳」、上流右岸に「人穴1号・2号古墳」があり、藤井沢では「山田入古墳」や「藤井1号・2号古墳」、山の上沢川には「御母家古墳」があります。いずれも山腹斜面に立地し、横穴式石室をもつ小規模な後期古墳です。
 里山辺地区は、5世紀後半から古墳の築造が展開していますが、破壊されたものや未調査のものもあることから今後の集落遺跡や古墳の解明が期待される地区でもあります。

古宮古墳

古宮古墳