学芸員雑記 戦争紙芝居上演
旧山辺学校校舎では、夏に太平洋戦争期に発行された紙芝居を上演しています。読み手は市民学芸員の有志です。
令和5年の上演
2023(令和5)年は8月5日(日)に実施しました。
上演した紙芝居は、1942(昭和17)年発行の「空白の遺書」。昭和12年11月に日中戦争で戦死した爆撃機操縦士と残された妻の想いを、妻の談話形式で描いた紙芝居です。
遺品の中に、妻への宛先だけが書かれ、裏には何も書かれていなかったハガキがあったことから、「空白の遺書」と名が付いています。
紙芝居のはじめには、
「未亡人が語る亡き夫への、優しい愛情と、
今後の決意とは、
はからずも同じ運命に立ち到った、
幾万の女性の 尊い 頼もしい気持ちを、
代弁したものとして、
第一線の将兵は もとより、
銃後国民に、力強き安堵を与えるものと
いわねばなりません。」
とあります。
夫は「(子どもたち)を大切に育てられたし」と頼む以外は何も言い残していません。妻は取り乱す自分の心に鞭打って、3歳の息子に「どうか早く大きくなって、お国のため、お父さんのように、空を飛んでおくれ」と願います。
実在する人の物語ですので、本心はわかりません。しかし現代日本の私たちは、戦死するかもしれない戦場へ、家族を送りだそうとは思いません。太平洋戦争当時は、大切な人を亡くした幾万の女性たちに対し、このような気持ちが尊いと教えたのでしょうか。「嫌だ!」と声を上げられなくするためのプロパガンダではないかと感じてしまいます。
上演する戦争紙芝居
紙芝居は、松本市在住の方が所有する中から、戦争を扱った10点をお借りして上演しています。2021年には「チョコレートと兵隊」、2022年には「玉砕軍神部隊」を読みました。どちらも、現在の私たちが読むと「あれ?」と思うような、いつの間にか悲しみや怒りをねじ曲げられた感覚に陥る作品です。
紙芝居を購入したのは、所有者のお父さんです。戦時中、実際に上演していたのかどうか、所有者はわからないそうです。しかし、当時は紙芝居は安価ではありませんでしたし、お父さんの弟(所有者の叔父)は戦死していますので、なにかしら後ろめたさや悲しみがあって紙芝居を購入していたのかもしれない、とのことでした。その気持ちがプロパガンダに利用されたのだとしたら、いたたまれません。
現代の紙芝居を読む
紙芝居上演の際には、戦後に発行された紙芝居も併せて上演しています。2021年には「三月十日のやくそく(2021年 童心社)」「おばあちゃんの人形(2013年 本の泉社)」、2022年には「あおよ、かえってこい(1985年 童心社)」、今年は「ちっちゃいこえ(2019年 童心社)」でした。
いずれも原爆や空襲を扱った作品で、それぞれの人の想いが描かれています。
戦争の悲劇は被爆に限りませんが、理解し伝えていかなければならないテーマのひとつだと考えています。
戦争に正しさはありません。しかし身近な人が死んだり、大切なものが壊されたりすると感情は大きく動かされ、平和なときには考えもしなかったことをしてしまうのかもしれません。戦時中の紙芝居を読んでプロパガンダを体験することで、自分の心は弱く、簡単に曲げられてしまう可能性があることを理解したいと思います。そして、戦争は駄目だという気持ちを、ずっと持ち続けていきたいです。
(学芸員:岡野)
学芸員雑記 第5室「農家の暮らし」と昔の道具
旧山辺学校校舎の中に、昔の農家を再現した展示室、第5室があります。松本市と周辺地域の小学生が、昔の生活を体験するのに活用しています。
コンセプト
旧山辺学校校舎は、明治18(1885)年12月に建設され、翌4月から昭和3(1928)年3月まで学校として使用されました。その後、村役場、公民館、保育園として活用されましたが、昭和57(1982)年から2年をかけ、校舎への復原工事が行われ、地域の歴史民俗資料館となりました。
このときの工事で新しく作られたのが、第5室の再現農家です。「山辺地域の代表的な住居の内外観及び生活様式を紹介することを目的として、民家の一室を再現するとともに、生活用品等を紹介」するというコンセプトで作られました。
第5室
この部屋は「明治20年頃の中農以下」と設定して作成されました。「中農」とは、中規模、中流の農家という意味です。
教室の一室を使い、中に鴨居や敷居等を設けて玄関と土間、囲炉裏のある1室が再現されています。
梁や柱は古材が使われました。
生活様式を感じるために配置された小物は、山辺地域の方々から寄贈された実物です。
部屋の中には物入れと食器戸棚がありますが、これも使われていたものを修理して設置しました。
年輩の方々には郷愁を感じる、子どもたちにはタイムスリップした異空間のような、楽しい部屋となっています。
昔の道具を調べてみよう
この部屋はインフラ、つまり電気、水道、ガスが通っていない時代のものです。当然、電波も飛んでいませんでした。この頃、人々はどうやって暮らしていたのでしょうか?
例えば水。流し台のような物はありますが、蛇口がありません。変わりに大きな甕(かめ)と柄杓(ひしゃく)があります。人々は近くの井戸、川に行って水を汲み、それを甕に溜めておきました。必要なとき、甕から柄杓で水をすくって使いました。日常に水汲みという家事がありました。
例えば炊飯。電気が無いので炊飯器もありません。米を入れた釜を釜土に設置し、下で薪を燃やして炊きました。
釜土に安定して置けるように、でっぱりのある釜を使いましたが、これを羽釜(はがま)と呼びます。
このように、昔の人は生活環境に合わせて道具を工夫して使っていました。現代では使われなくなった物も、材質を変えながら現代に引き継がれている道具もあります。
それらを調べにいらっしゃいませんか?令和5年7月20日から8月31日まで、通常より道具を多く展示する「昔の道具調べ展」を実施します。道具に触れることができます。
クイズ!
水甕と羽釜には似たような木の蓋があります。この蓋、どちらが重いでしょうか?
答えは旧山辺学校校舎で持って確かめてみてください。
(学芸員:岡野)
学芸員雑記 「昔の遊び道具作り教室」
旧山辺学校校舎では毎年6月に「昔の遊び道具作り教室」を開催しています。
この教室は平成11(1999)年、地域のお年寄りと子どもたちのふれ合いの場として始まりました。昔の遊び道具を作ることを通して、素材の加工、道具の使い方、遊び方などを子どもたちに伝えてきました。
現在は地域を限定することなく、子どもだけでなく、興味のあるかた誰でも参加できるようにしています。
令和5(2023)年の教室
令和5年の教室は6月18日(日)に開催しました。講師は荒田直氏、青柳秀人氏で、長野県シニア大学で「ものづくり講座」の講師をされていた方々です。
教えていただくのは「割りばし飛行機」、その他牛乳パックで羽をつくった牛乳パックとんぼ、ストローに羽を付けたストロー飛行機です。どれも簡単に作れますが、バランスを考えながら作らないとうまく飛びません。参加された方々は、飛行機を紐で吊るして前後の重さのバランスをとるなどして、丁寧に作っていました。
割りばし飛行機
割りばしは、つながっている部分の約2センチメートルを残し、割れている1本を切り取ります。切り取った短いほうは、輪ゴムを付けて飛行機を飛ばすパチンコに使います。
紙から主翼、尾翼の型を切り抜き、それを長いほうの割りばしに糊で付けます。
丸い箇所はハサミが入れにくく、ギザギザになってしまいます。小2の男子児童は、苦労したけど楽しかったそうです。
先頭にクッションを付けます。飛行機の中央辺りを紐で吊るし、先頭から尾翼までの重さが釣り合っているか確認します。釣り合わなかったら、軽いほうに紙を糊付けして足します。
少しの違いでバランスが崩れるので難しい工程。でも、ここを丁寧にやっておかないと、遊ぶときに楽しくありません。
その他の遊び道具
牛流パックトンボは、牛乳パックで作る竹とんぼです。牛乳パックをスケートボード状に切り取ってプロペラにし、先端を半分に切ったストローに挿みこんでステープラーで留めます。両手の平でストローをすり合わせるようにして飛ばします。昔は竹が簡単に手に入りましたが、今ではかえって入手困難。昔の遊びを現代の素材で楽しみました。
ストロー飛行機は、ストローの両端に丸めた紙を糊付けするだけ。こんな簡単な構造で、びっくりするほどよく飛びます。ただし、こちらも貼り付ける位置をきちんとしないと飛びません。
最後に、参加者全員で隣接するグランドに出て、完成した飛行機を飛ばしました。きちんと作ってあっても微妙なバランスで飛びが悪かったりしました。飛ばしながら羽を調整したり、飛ばし方を工夫したりと、みなさん真剣に遊んでいました。
この教室は毎年実施予定ですので、ぜひご参加ください。この教室を通して、工夫して道具を作っていた昔の人の知恵を知り、私たちなりに出来る無駄のない持続可能な物作りへのヒントとして欲しいです。そして周りの人たちに伝えたり、一緒に遊んでもらえたりしたら嬉しいです。
(学芸員:岡野)
※終了しました※令和5年度 夏休みの自由研究にどうですか「昔の道具調べ」
電気、ガス、水道のなかった時代、人々は道具を工夫して作っていました。
どんな道具を使っていたのか、触れて確かめてみませんか?
そして現代の私たちのどんな道具に進化したのか、考えてみましょう。
- 会期: 令和5年7月20日(木)~8月31日(木)
午前9時~午後5時(入館は午後4時30分まで) - 会場: 旧山辺学校校舎 第5室、第10室
- 料金: 通常観覧料(大人200円、小・中学生無料)
- 問い合わせ:旧山辺学校校舎(TEL・FAX 0263-32-7602)
第5室「農家の暮らし」、第10室「山辺の文化財」の2室に昔の道具を展示しています。
市民学芸員協働企画 令和6年夏「戦争紙芝居」上演
太平洋戦争期、日本はプロパガンダによって戦争を美化していました。
紙芝居もプロパガンダに利用されたひとつです。
戦時中に発行された紙芝居を読んで、いかに感情を煽られ歪められていたのか体感してみませんか。
戦争の悲惨さを、今もう一度考えます。
- 日 時:令和5年8月3日(土)
1回目 午前10時50分から11時15分
2回目 午後12時45分から1時15分 - 会 場:教育文化センター 2階休憩コーナー
- 料 金:無料
- 演 者:市民学芸員
- 内 容:
(1) チョコレートと兵隊 (昭和17(1942)年発行)
戦地に赴いた父親から手紙と共にチョコレートの包み紙が送られてくる。包み紙には点数が書いてあり集め るとチョコレートがもらえる。子供のために包み紙を集める父親の親心と父の帰りを待ちつつチョコレートを喜ぶ子供の心が描かれる。それもつかの間、父親の戦死の知らせが届き、それでも気丈に頑張る残された母子の姿が美化される。
(2) てぶくろ (ウクライナ民話) (昭和40(1965)年発行)
丸木 俊・丸木 位里 の「原爆の図」よりアーサー・ビナードが作成した紙芝居です。
核の脅威を盾に戦争を繰り広げる現代、原爆の悲劇を思い出しましょう。
【チラシ】令和5年戦争紙芝居上演
学芸員雑記 須々岐水(すすきがわ)神社のお船祭り
須々岐水神社には毎年5月5日に例大祭があります。氏子9町会から、意匠を凝らした華麗なお船が曳き出され、初夏の里山辺(さとやまべ)を賑わせます。
ただし、7年目ごとに一度の御柱祭(おんばしらさい)がある年は、御柱祭が5月5日にありますので、一日早い5月4日に行います。令和5年の今年は卯年で御柱祭でしたので、お船祭りは5月4日でした。
お船祭りとは
須々岐水神社の例大祭で、氏子9町会の保有しているお船が神社に集合します。里山辺の地は、薄川(すすぎがわ)を神様が船に乗って降りてきて拓いたと伝えられ、お船はこの伝説によるものとも、祖先が舟でこの地にやってきたことによるとも言われています。
お船のサイズはそれぞれ違いますが、どれも木造二階建て、前後に幕を張って船の形に似せています。
お船は前日に船倉から出されて組み建てられ、宵祭(よいまつり)が行われます。
お船に乗れるのは町会のお囃子を担当する方々ですが、宵祭では子どもたちが乗せてもらえるそうです。
本祭の朝、各町会を出発して須々岐水神社へと集まります。お船は境内へ引き込まれ、お祓いを受けお囃子を奉納します。
境内では他にも十二名の稚児(ちご)による舞や、幣束(へいそく)をつけた神馬(しんめ)が奉納されるなど神事があります。
長野県宝のお船たち
「里山辺お船祭のお船」9基は、歴史資料として昭和61(1986)年、長野県宝に指定されました。9基とも二階建て、車輪が2輪の山車(だし)です。それぞれ見事な彫刻や漆が施されいます。古くは江戸時代中期にはお船があったと伝承されています。お船の形状など詳細は「まつもとの文化財」をご参照ください。
お船の曳行(えいこう)
朝、お船は町会を出発し、一度、旧山辺学校校舎の西の道路(県道297号兎川寺鎌田線)に集合します。神社の方角を頭に、南から薄町、湯の原、新井、下金井(しもがない)、荒町、西荒町、上金井(かみがない)、藤井、兎川寺(とせんじ)の順に並びます。
旧山辺学校校舎前を行く藤井のお船
お船は車輪が2つのため、前後に激しく揺することができます。派手に曳行して来ると迫力満点。船が大海原を航海しているように見えます。ちなみに、酔い止めを飲んで乗る人も居るとか。
集合したのち、先頭から順に鳥居前に移動します。県道は大きくて平なので、お船は大暴れして進んでいきます。
鳥居前へ向かう下金井のお船
神社の鳥居の前でお祓いを受けたのち、境内へ引き込まれます。狭い鳥居の下を勢いよく進むと、見物客から大きな拍手が起こります。
鳥居を疾走する上金井のお船
境内での神事が終わると、お船は一台ずつお祓いを受け、帰路につきます。
お船は、お祭り以外の日は船倉に仕舞われており、見ることができません。豪華な彫り物をご覧になりたい方は、ぜひお船祭りに足を運んでみてください。
(学芸員:岡野)
学芸員雑記 山辺地域の御柱(おんばしら)祭
山辺地域には、卯(う)年と酉(とり)年(7年目ごと)に御柱を立てる神社があります。
4月29日は入山辺(いりやまべ)の大和合(おおわごう)神社、宮原神社、橋倉諏訪神社、5月3日に里山辺の千鹿頭(ちかとう)社、5月5日には里山辺の須々岐水(すすきがわ)神社で御柱祭があり、5社とも松本市重要無形民俗文化財に指定されています。
全国的には諏訪大社の御柱が有名ですが、諏訪は寅(とら)年と申(さる)年に行われ、松本の御柱の前年です。年は違いますが、山辺の5社も諏訪系の神社です。
須々岐水神社の御柱
旧山辺学校校舎の近くには須々岐水神社があります。須々岐水神社には御柱が4本ありますが、7年目ごとに新調するのは一ノ御柱(いちのおんばしら)と二ノ御柱(にのおんばしら)の2本です。
一ノ御柱は本殿から見て左側(拝殿の南)、二ノ御柱は右側(拝殿の北)に立てます。
氏子は現在10地区あり、一ノ御柱は須々岐水神社のある薄町(すすきまち)が親郷(おやこ)となって全5地区、二ノ御柱は上金井(かみがない)が親郷となって全5地区が担当します。
御柱が立つまで
令和五年卯年の一ノ御柱の場合、次のように進みました。
- 見立(みたて) 2022年8~11月
御柱となる木の選定。 - 手締(てじめ)、節(せつ) 2022年11月
御柱に内定した木の所有者に結納の品などを納める。
節を結納ともいう。 - ねじそ、てこ棒作り 2022年12月
御柱を引く道具を作る。 - 大鳥居注連縄(しめなわ)作り 2023年1月
薄町が7年目ごとに大鳥居の注連縄を作りかえる。 - 綱縒(よ)り 2023年2月
御柱を引く綱を作る。 - 采配(さいはい)とぼんでん作り 2023年2月
斧頭(ゆきがしら)や木遣(きや)り師が 持つ道具を作る。
- 根堀り 2023年3月
御柱の根元を太くするため地面下の根から伐採する。
根があらわになるまで土を掘る。 - 山出し・中出し 2023年3月
御柱の伐採、山から里の御柱置場(おきば)へ
木を引く。 - 御柱を立てる 2023年5月
作業時期はそれぞれの神社ごとに違っており、御柱を前の年に切り出して置場に置いている神社もあります。
御柱の高さ、道具の作り方や担当者など、作法は細かく決まっています。
三之御柱(さんのおんばしら)と四之御柱(よんのおんばしら)
一ノ御柱・二ノ御柱は新しく切り出してきますが、三ノ御柱と四ノ御柱は前回の一ノ御柱・二ノ御柱のうら(先端のほう)が使われ、それぞれ一ノ御柱・二ノ御柱の東側(本殿の南と北)に立てなおされます。前回の三之御柱・四之御柱は根槌(ねづち)に使われます。根槌とは、御柱を立てる際に地面を打って固めるための大きな木槌です。
御柱立(おんばしらたて) (令和5年5月10日追記)
須々岐水神社の御柱立は5月5日に行われました。置場から神社境内まで曳いて行き、木を建てます。表参道(一ノ御柱曳行ルート)、裏参道(二ノ御柱曳行ルート)とも沢山の見物客でにぎわいました。
一ノ御柱は午前7時半に始まりました。御柱が置き場を出発する前に神事と儀式、木遣り師や御柱総代(そうだい)による木遣り唄の奉納があり、その後、神社へと木を曳いていく里引きが始まりました。
午前中に神社の大鳥居前まで運びます。途中で3回、木遣り唄の奉納がありました。
午後は御柱建て位置まで境内を曳いたのち、曳き綱を外す儀式、曳いた木の化粧直しの儀式などした後、木を建てます。以前は「神楽桟(かぐらさん)」と呼ばれる人力のウインチで木を立てましたが、現在はクレーンを使います。
一ノ御柱、二ノ御柱とも、午後4時過ぎに立ち上がりました。
松本市では他にも、神田の千鹿頭(ちかとう)神社、島立(しまだち)の沙田(いさごだ)神社も同じ卯年と酉年に御柱を立てます。やはり松本市の重要無形民俗文化財に指定されています。
(学芸員:岡野)
上條館長の山城案内 会田城(虚空蔵山城)
会田城(虚空蔵山城) 松本市会田
さて、今日は虚空蔵山城です。虚空蔵山は全国各地にあります。北から見ると台形の山でどこが虚空蔵なのかわかりません。長野道の松本方面から見ると鋭角のとがった山です。南から見ると形の良い山で「会田富士」とも呼ばれています。ここは四賀を支配していた会田氏の山城です。会田氏は小県の海野一族の一系、岩下氏がこの地に入って名乗った姓です。そのせいか四賀には岩下さんが結構います。会田氏は武田方についたので、武田氏滅亡後、小笠原貞慶に攻められ、滅亡してしまいます。貞慶は自分に逆らった相手を徹底的に攻めます。虚空蔵山城が落とされ、矢久(やきゅう)地区に覆盆子(いちご)城〈一期(いちご)の城ということで名付けられた山城〉を築いていたものの敗れ、小県へ逃れる際、五輪の尾根で自害したといわれています。この後、会田城は小笠原流の山城に改良されたとも考えられ、山辺の山城とも関連性は多少あるようにも思います。
虚空蔵山城は峯の城だけではなく、多くの砦がまとまった城と考えるほうがいいように思うので、ここでは会田城(虚空蔵山城)として記述していきます。中ノ陣城、秋吉砦、現(うつつ)城、峯の城、少し広げて唐鳥屋城も含めて、会田城と呼んだほうがいいと思います。
虚空蔵山に上るのにはいくつかルートがあります。大手道は岩屋神社参道だと思います。このルートはまず、四賀球場北側から林道虚空蔵線を進みます。
オゲ水と鳥居のある場所から登っていきます。
直登コースは厳しいので、尾根コースをつづら折れで登っていくのですが、かなり急です。4~50分かかります。
この山はかつて褶曲してうまれた地形らしく、松本側は急峻で、筑北側からはゆるやかです。ですから、松本側から登るのは大変なのです。
また、林道のここから少し西寄りには中ノ陣城登り口があります。中ノ陣城、秋吉城にはすんなりいけますが、上の尾根に出るまでが完全岩山登山になります。直登に近いのでお勧めしません。
また、風越(かざこし)峠方面からも行けます。刈谷原トンネルを抜けて143号線を10分ほど道なりに進み、県道会田西条停車場線を上って行ってください。
四賀有機センターの看板を左折してしばらく行くと登山口に着きます。途中、有害獣防止柵があります。柵を開けて車で進みます。
地元の小中学生とはこちらから登りました。途中、ロープや鎖で登る場所もありますが、比較的登りやすいかなと思います。40分ほどでいけます。
花川原峠からも地図では道が見えてましたので、今回下ろうと思っていたのですが、標識もなく、まだ雪や氷もあったので断念しました。
そして、今回紹介するのが、岩井堂沢からの登城です。前回は下りだったのですが、道はよかったので今回挑戦と思いました。ただ、やや長い坂が続きますので、少々疲れます。休み休みで小1時間でしょうか。道は整っています。
さて、道順ですが、岩屋神社から登る道とちょっと違う道を案内します。四賀球場からの道とも実は合流するのですが、こちらのほうが近道なのでご紹介します。
国道143号線を四賀方面に進んでください。刈谷原トンネルを超えて次の信号を左折します。
しばらく道なりですが、右手に四賀小、四賀支所、会田中が見えてきます。橋を越えた十字路をまっすぐ進んでください。
次のT字路を左折して進むと岩井堂の表示が出てきます。少し行った芭蕉碑の角を曲がると四賀球場に行けます。
駐車場らしき場所を進むと細い林道に入りますが、もう少し進むと右手に「うつつの清水」「水溜め石」が残っています。
少し進むと虚空蔵山登り口の標識が。この周辺に車は止めておきます。
少し登ると止め山の白いテープがあります。ここ四賀はマツタケの産地。松くい虫による被害も大きく、大変です。20分ほど進むと四阿屋社の石積みがあります。
この後もかなり息が切れます。中ノ陣城への手書き看板もどこが道なのかはよくわかりません。
ここから少しずつ平曲輪らしき形が見えてきます。ここらあたりから城内と言えそうです。
そして、岩場が現れます。大きな岩の横に道がついているので、登ってみるとすごい岩がありました。あの上に登ろうかなと思いましたが、やめておきました。
それから、細い尾根道の岩場を歩きます。バランスを崩すと大変なので気を付けて進んでください。
すると、岩屋神社との三叉路が。ここは道がはっきりしています。
堀切と小さな曲輪を超えると主郭につきます。以前は木が生い茂っていましたが、だいぶすっきりしました。春霞で残念な展望でしたが、北アルプスが見事です。筑北の村や長野道もよくみえました。
その後、東に向かうと堀切がいくつか続きます。3つ目の堀切から花川原峠の道があるとのことですが、これかなって程度です。雪も残るので止めておきました。
また、戻り、岩屋神社まで行きました。岩場の中に神社があるのはやはり、ここが信仰の山とされた証拠でしょう。磨崖仏と虚空蔵菩薩が祀られています。
岩井堂は善光寺街道沿いに建つ名所で旅人も多く訪れたはずです。観音山周辺石造物群として、松本市重要文化財に指定されています。お堂の脇の摩崖仏は大きく貴重なものです。お堂のなかの千手観音坐像も重要文化財です。
四賀キャニオンの愛称もある砂岩層も見事です。かつてはこの辺りで石炭が産出し、馬車や索道を使い、各地に輸送していたという歴史もあるようです。
岩井堂方面からの道は帰りに枯葉に何度か足を取られましたが、道はしっかりしているのでいいトレッキングになるかなと思います。今日も平日にもかかわらず、10組とすれ違いました。少し装備をしっかりして楽しんでください。
学芸員雑記 ミュージアム・トーク!
職員による校舎・館内展示案内を行うことがあります。2月下旬、松本市在住の方々が来館され、明治時代の学校生活や山辺の民俗について学ばれました。そのときの様子など併せて紹介します。
校舎を楽しむ
外から、校舎の特徴について説明します。和洋折衷(わようせっちゅう)の校舎ですが、具体的にどこが洋風でどこが和風なのか?実物を見ながら確認します。
気付きにくい箇所も案内します。例えば、軒瓦(のきがわら)の垂れの部分に「黌(まなびや)」の字。「黌」の文字は鬼瓦にもあり、あたかも校章かのように使われています。全ての軒瓦にある光景は、ぜひ見上げて観て欲しいところ。
校舎の中では中央の廊下や和風の天井など、特徴的な箇所を観ていきます。
資料を楽しむ
展示してある資料にどういった価値があるのか、見所はどこなのかを説明します。
校舎を設計した大工の棟梁、佐々木喜重(ささき きじゅう)は設計当初から和洋折衷を意識していました。建築仕様のどこからそれがうかがえるのか、第1室のケースをのぞきながら確認しています。
第2室では開校式の来賓受付簿を観ました。松本の初代市長「小里頼長(おり よりなが)」、松本出身の社会運動家「木下尚江(きのした なおえ)」、松本城天守の修理保存に活躍した松本中学校の校長「小林有也(こばやし うなり)」など、錚々たる顔ぶれであったことなど紹介しました。
体験してみよう
明治の授業はどんなものでしょうか、少しだけ体験します。
明治の子どもたちがノートの代わりに使った石盤(せきばん)に、石筆(せきひつ)を使って字を書きます。固い石筆に当たると、力を入れないといけません。でも、チョークより細かい字が書けるかも?
予め勉強する内容が印刷されている大きな「掛図(かけず)」を読んでみます。
「授業の始ハ午前七時 授業の終ハ午後三時なり」
このほか、明治34年の試験問題にも挑戦しました。
体験された方は「厳しい環境下で学ぶ子供たちの姿が思い浮かんだ」そうです。
旧山辺学校校舎を団体でご利用で、事前にご要望いただいた場合、職員が展示解説を行います(時間によってご要望に添えない場合があります)。興味のある方はお問合せください。
(学芸員:岡野)
学芸員雑記 入山辺(いりやまべ)のコトヨウカ行事
松本市には、毎年2月8日頃、藁で大きなツクリモノを作り、厄を払い、無病息災(むびょうそくさい)祈願、豊穣(ほうじょう)祈願する地区があり、8つの地区の行事が松本市重要無形民俗文化財に指定されています。このうちの6地区が山辺地域にあります。
入山辺のコトヨウカ
山辺6地区のうちの里山辺(さとやまべ)の1地区は、世帯数の減少などにより現在は行事を休止しています。また入山辺の1地区が、コロナの流行に配慮し令和5(2023)年は行事を休止しました。
令和5年に行事を行ったのは、入山辺の4地区でした。
舟付(ふなつけ)の八日念仏(ようかねんぶつ)と百足(むかで)ひき
舟付地区では2月8日近くの日曜日に行事を行っています。令和5年は2月5日でした。
朝、各家の玄関先でヌカエブシ(籾殻(もみがら)やトウガラシなど)を燃やして疫病神(やくびょうがみ)を防ぎます。
また餅をついて、地区の道祖神に供えたり塗りつけたりします。
地区の年番(ねんばん)の方々が公民館に集まり、藁で大きな百足を作ります。出来上がったらゾウリを付け、地区の中の石仏(蚕玉様)の前に丸めて供えます。
午後に、地区の方々が集まり、大きな数珠を回しながら念仏を唱えます。令和5年はコロナ流行に配慮して年番の方々だけが集まりました。
その後、供えておいた百足を地区の東の端まで持っていき、百足の尾で各家の玄関先のヌカエブシの灰を払って回ります。子どもたちが担当します。
全ての家を回り終えたら、地区の端まで持って行き、焼き払います。これにより疫病神を追い払います。
令和5年は雲ひとつない晴天で、西に北アルプスが綺麗に見えました。
厩所(まやどこ)の貧乏神送り
厩所地区では2月8日に行います。
朝、道祖神に餅を塗りつけます。
午後、地区の方々が公民館に集まり、藁で馬と、ジジ・ババと呼ばれる人形、馬にかぶせるムシロ、手綱(たづな)を作ります。ジジとババは馬の上に乗せ、ゾウリとワラジを付けます。
出来上がったらこれを囲んで大きな数珠を回しながら念仏を唱えます。その後、「貧乏神追い出せ」と声をあげながら、道祖神の前を通って河原まで持って行きます。
河原でもう一度、ワラウマを囲んで念仏を唱えたあと、焼き払います。これにより貧乏神を追い払います。
上手町(わでまち)の貧乏神送りと風邪の神送り
上手町地区では2月8日に行います。
夕方5時、地区の方々が公民館に集まり、藁で馬と、ジジ・ババと呼ばれる人形を作ります。ジジとババにはへのへのもへじで顔を書いた紙を貼り、南無阿弥陀仏と書いた杖を持たせ、馬の上に乗せます。
出来上がったらゾウリとワラジをワラウマに付け、ジジとババの間にロウソクを置いて火を点けます。お神酒でワラウマを清めたあと、塩と米をのせた皿をおき、ワラウマを囲んで念仏を唱えて厄を払います。
その後、「貧乏神まっくり出せ、風邪の神まっくり出せ、さっさとまっくり出せ」と声をあげながら道祖神の前を通り、地区の中をワラウマを引き回します。途中、ワラウマに火を点けます。
火の点いたワラウマを引き回しながら地区の端まで持って行き、そこで灰になるまで焼きます。これにより貧乏神と風邪の神を追い払います。
中村の風邪の神送り
中村地区では2月8日に行います。
夕方6時、地区の方々が公民館に集まり、藁で大きな百足(むかで)と、藁をよってサイコロと百万棒を付けたタイシメを作ります。タイシメは、出来上がったら公民館の玄関の上に祀り、前の年に祀ったタイシメは、百足に付けます。
百足が出来上がったらゾウリとワラジ、タイシメを付けます。
地区の子どもが百足にまたがると、隣の地区にある六地蔵(周囲は畑)まで引いて行きます。このとき「ナンマイダンボ」と声をあげます。
六地蔵まで来ると、近くの土手の上に百足をとぐろを巻くように丸め、置いておきます。翌日以降、焼き払って風邪の神を追い払います。
それぞれの年のコトヨウカ行事
新型コロナ流行により、ここ数年の行事は縮小されています。例えば、どの地区でも粕汁(かすじる)を飲んだり直会(なおらい)をする風習ですが、休止されています。念仏も、年番の方々だけで行う地区がありました。
このように、年によって行事の様子が違うのも、地域や時代を反映していく無形文化財ならではの良いところではないでしょうか。
旧山辺学校校舎にある藁のツクリモノ
校舎内(第9室)には、舟付、厩所、上手町、追倉(おっくら)地区の藁のツクリモノを展示しています。行事では燃やされてしまうワラウマや百足ですが、地区の方々にお願いして展示用に制作していただいた物です。その大きさや造形のこまかさを見ることができます。
(学芸員:岡野)