松本市内遺跡紹介㉑ 「松本城下町の遺跡-本町第8次調査から-」

 松本城下町は、松本城三の丸の外側、北は安原町、南は薄川手前の博労町までの広い範囲となります。善光寺街道の宿場町であり、街道を挟んで両側に家が並びました。松本町人町を見ると、親町と枝町の関係性があり、親町三町(本町・中町・東町)と枝町十町(博労町・伊勢町・小池町・安原町など)と呼ばれました。商人が中心となった町と職人が中心になった町など、それぞれの町には職業によって個性が生まれ、本町には問屋、中町には呉服商や酒屋、東町には旅籠が多いなど特徴がみてわかります。
 善光寺街道や千国街道、野麦街道といった複数の街道が通る交通の要所であり、多くの人や物で賑わう場所でした。その反面、火災や水害といった災害の歴史が多く残る場所でもあります。

本町第8次調査

 調査地は、松本城天守の南約600mの信濃毎日新聞社松本本社にあたります。町人町の主要な町(親町)である本町に位置し、様々な品物を扱う問屋などの大規模な商店が集中し、藩内外の流通拠点になっていた場所と考えられます。江戸時代前半の絵図によると、調査地の南側には、「御使者宿(おししゃやど)」という大名や幕府要人・諸藩からの使者客人を接待し、宿泊させる藩の施設があったことがわかります。礎石立ち建物跡や美濃焼向付・皿、伊賀焼風の水指、天目茶碗といった高級茶器、アワビやホタテ、サザエの貝殻、焼塩壺などの一般の町人地では見られない遺構・遺物が見つかり、絵図の裏付けになると考えられます。
 御使者宿推定の遺構・遺物の他にも、各屋敷地を仕切る塀などの基礎(石列や胴木など)、ごみ穴、水道施設(竹管や木樋)、酒造用と考えられる石組みのカマドといった遺構が見つかりました。遺物としては、寛永通宝が出土しています。この寛永通宝は、バリが付着していることから一般に流通していたものではなく、未完成及び失敗品とみられます。寛永通宝とともに坩堝(るつぼ)や取鍋(とりべ)、金属精錬時に発生する金属滓が見つかっています。鋳造に関する遺構自体は発見されていませんが、これらの出土品から寛永通宝の銭座工房が近くにあった可能性が高くなりました。

第8次調査地

第8次調査地

出土した貝殻

出土した貝殻

寛永通宝松本銭

 寛永通宝は、寛永13(1636)年に江戸と近江で鋳造が開始された貨幣です。松本藩は、寛永13年12月27日に町役人・今井勘右衛門へ鋳造の許状を出し、翌14年から松本でも銭座が設けられたとされ、鋳造が始まります。松本で鋳造されたということで寛永通宝松本銭と呼ばれます。
 寛永通宝の銭座は全国に8か所(仙台・萩・岡山・水戸・越後高田・松本・豊後竹田・三河吉田)に置かれていましたが、小藩の松本でも鋳造が許された背景には、このときの藩主・松平直政が将軍徳川家光と従兄弟関係にあったことが挙げられます。
 今井勘右衛門に宛てた「寛永通宝鋳造の許状」は、平成3(1991)年に今井氏から「寛永通宝松本銭の枝銭」とともに寄贈を受け、松本市立博物館で保管されています。平成7年に松本市重要文化財に指定されました。
 松本市民芸術館の裏には銭座記念碑が佇んでいます。

バリの付着した寛永通宝

バリの付着した寛永通宝

枝銭(松本市重要文化財

枝銭(松本市重要文化財)

 

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