発掘された松本2021⑤ 「松本城三の丸跡柳町第7次調査」

 前回(発掘された松本2021④ 「松本城三の丸跡土居尻第14次」)に続き、発掘された松本2021の調査結果を紹介していきます。今回は松本城三の丸跡柳町第7次調査です。

松本城三の丸跡柳町第7次調査

 調査地は、松本城三の丸北東に置かれた武家地の一つ「柳町」に含まれます。松本城北門南側に位置し、北側には総堀土塁がかかります。また、中世の柳町は“信府統記”に記された「市辻(いちのつじ)・泥町」の推定地にあげられています。

絵図で見る調査地の推定位置

絵図で見る調査地の推定位置(クリックで拡大します)

 調査地の南北にかけて、溝状の掘り込みを確認しました。埋土には炭や焼土が混ざり、中から大量の焼けた瓦が出土しました。明治~大正時代の火災層も確認できました。松本市史には大正7年に大火の記載があり、この火災層はこの大火によるものと考えられます。溝状の掘り込みは、火災で焼けた瓦や木材などの廃棄場の可能性があると思われます。
 また、江戸時代の面では大型の土坑も4つ確認しました。底に桶が埋設されたものや、段差のあるひょうたん形のものなど、いずれも近世の武家屋敷の敷地内に造られた池跡の可能性があります。

ひょうたん形の土坑

ひょうたん形の土坑

 中世の面からは、礎盤の石を据えた柱穴や多数の杭跡を検出し、16世紀代の内耳鍋も出土しました。現在の道の向きは江戸時代の絵図とほぼ変わりませんが、柱穴の並ぶ向きが道の向きより西側に振れていることが調査の結果わかり、中世の町並みは江戸時代のものと向きが異なっていたようです。
 信府統記には、①小笠原貞慶が本格的な城下町の形成に取り掛かった天正13~15(1585~1587)年より前、柳町があった場所は「泥町」と呼ばれていた、②泥町には町屋や「生安寺」という寺院が存在していた、③泥町の町屋や生安寺は市辻とともに本町に移された、と記載があります。今回確認された多数の柱穴や杭跡は泥町の痕跡かもしれません。また、6次調査時に「元祐通宝」や「荷札木簡」など出土しており、この地で物流や人の往来があったと考えられます。

柳町柱穴・杭跡群

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