松本市内遺跡紹介⑱ 「松本城三の丸跡~過去の調査から見る三の丸~」

 松本城は、本丸・二の丸・三の丸の3つの郭と、それぞれの郭を囲む内堀・外堀・総堀の3重の堀で構成される平城です。天正18(1590)年に石川数正が松本へ入封し、子の康長と二代にわたり、天守や太鼓門の築城や城下町の整備を行いました。後に松本へ入封した松平直政によって、月見櫓・辰巳附櫓が増築され現在の姿となりました。
 三の丸は、家老をはじめとする役職についている家臣の屋敷が建ち並ぶエリアです。現在の大名町通りや市役所は三の丸内に位置しています。江戸時代には三の丸から内側は許可された人以外は自由に通行することができませんでしたが、明治3(1870)年になって、大手橋(現在の千歳橋)を通って三の丸(大名町)へ自由に入ることができるようになりました。

絵図で見る松本城の構成

絵図で見る松本城の構成(クリックで拡大します)

三の丸跡発掘の歴史

 松本城三の丸跡で初めての発掘調査が行われたのは、平成3(1991)年の土居尻での市営大手門駐車場建設に伴う調査でした。その頃すでに市街地では開発が進んでおり、近世の遺跡は残存していないのではと予想されていましたが、現地表から1.7mの間に4層に及ぶ近世の人為的な整地層が確認され、そこから多くの武家屋敷の遺構・遺物が発見されました。
 この調査により、松本城の近世遺跡の遺存状態が良好であることがわかり、その後の城下町全域を遺跡として指定していくきっかけにもなりました。以後、武家屋敷をはじめ、藩の役所である作事所、総堀土塁や大手門枡形などの調査が行われ、令和3(2021)年までに20回を越えます。調査の結果、それまでの絵図や文献にない事実の判明につながりました。
 また、近年は松本城南・西外堀復元及び内環状北線整備に伴う開発事業で発掘調査が急増し、新たな発見が相次いでいます。今後も発掘調査によって松本城や三の丸、武家屋敷に関する新しい発見が期待されます。

武家屋敷で見つかった遺構

 天保6(1835)年の絵図を見ると三の丸内に武家屋敷が88軒あります。屋敷がどのような様子かは史料ではほとんどわかりませんが、発掘調査を行うことで遺構や遺物から当時の生活の様子が見ることができます。

① 建物の痕跡

発掘調査によって建物の基礎や柱跡の様子を知ることができます。三の丸は低湿地帯を埋め立てて造成しているため、軟弱地盤でもしっかりと基礎を設置できるような工夫がされており、江戸時代初期から幕末までの基礎構造を比較すると、改良がされていることがわかります。
・16世紀末から17世紀前半では、掘立柱建物や礎石建物が発見されています。掘立柱建物は古代のものと同様で、地面に穴を掘って柱を立てます。柱が沈み込まないように穴の底面に石を敷き、柱がずれないよう穴の中に拳大のグリ石を多数入れる工夫が見られます。
・17世紀中頃以降には礎石建物が中心となり、地面に礎石を置くだけのものと礎石の下にグリ石を多量に入れて強固にしているものが見られます。
・18世紀後半以降は、布掘り礎石建物が見られます。これが基礎を設置する場所を溝状に掘り、砂やグリ石を入れ、その上に礎石を置き、根太を置いて建てる建物です。軟弱地盤を克服するため、布掘りの底面に捨て杭を打ち込む建物も見られます。
また、屋敷の境は溝や塀で区切られています。調査の結果、敷地境の溝には土留め用の杭が多数打たれ、杭の間に木板や枝板を互い違いに渡し、耐久力の高い構造にしています。水が流れた痕跡が見られたため、排水溝としての機能も兼ね備えていたと推測されます。

礎石建物(土居尻第1次調査)

礎石建物(土居尻第1次調査)

礎石に残る柱跡(土居尻第1次調査)

礎石に残る柱跡(土居尻第1次調査)

② ゴミを捨てた穴

江戸時代には、屋敷で出たゴミは各屋敷で処理をしていました。そのため、屋敷地の発掘調査では必ずといっていいほどゴミ穴が発見されます。ゴミ穴からは、陶磁器や漆器、箸、下駄などが出土しています。
特に箸の出土が多く、大半が白木の木製で、塗り箸はほとんど見られません。粗く削った粗雑な成形でほとんどが完形のまま捨てられていることから、儀礼や短期間での使用で捨てられたと考えられます。

③ 水道施設

三の丸の屋敷地には井戸や上水道施設が整備されていました。建物と同様に、江戸時代初期から幕末までの中で、井戸や水道施設はより効率的に使えるものに改良されてきたことがわかりました。江戸時代初期の井戸は、地下水脈まで掘り抜いているもので、水を配水するための施設はありません。この時期の井戸は、石組みと木組みの2種類がありますが、石組みはごくわずかで木組みがほとんどです。
17世紀前半から19世紀頃になると、円筒形の掘り方に桶型の井戸側を数段重ねたものが出現します。この井戸も地下水脈まで掘り抜いているもので、水道配管として竹管が付属するものも見られます。幕末期になると、自噴式の井戸が登場します。埋設した桶に穴をあけ、地下水脈まで竹管を設置し、水圧により竹管を通って自噴する仕組みになっています。桶の側面には水道管として竹管を付属させ、配水しています。
井戸等の水源から配水する水道施設には、竹の節を抜いた竹管と木製の木樋が見られます。

木樋(左)と自噴式井戸と竹管(右)

木樋(左)と自噴式井戸と竹管(右)

次号は、引き続き三の丸の調査から見る武家屋敷の生活の様子を紹介いたします。

 

コラムクイズ

享保10(1725)年に江戸城内の松の廊下で、「松本大変」と呼ばれる刃傷事件が起きます。この事件に関わった松本藩主は何家でしょう。

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