信州大学人文学部連携企画「旧司祭館が伝えたもの-建物とフランス文化」Ⅱ
信州大学人文学部連携企画「旧司祭館が伝えたもの-建物とフランス文化」
第2期展示 セスラン神父『和仏大辞典』の特徴
松本にフランス文化を伝える舞台ともなった旧司祭館にまつわる人々や建物の魅力を紹介する連携企画展です。第2期展示では、セスラン神父の『和仏大辞典』の特徴を信州大学人文学部の学生が作成したパネルで紹介します。
会期
2期:令和5年7月29日(土)~9月24日(日)
会場
長野県宝松本市旧司祭館2階展示室
協力
信州大学人文学部
信州大学人文学部連携企画「旧司祭館が伝えたもの-建物とフランス文化」Ⅰ
信州大学人文学部連携企画「旧司祭館が伝えたもの-建物とフランス文化」
第1期展示 旧司祭館に暮らした司祭たち-セスラン神父の場合
松本にフランス文化を伝える舞台ともなった旧司祭館にまつわる人々や建物の魅力を紹介する企画展です。1回目は、旧司祭館で『和仏大辞典』を編纂していたセスラン神父について紹介します。信州大学人文学部の協力を得て、司祭館やセスラン神父について深掘りします。
会期
1期:令和5年5月20日(土)~7月2日(日)
会場
長野県宝松本市旧司祭館
協力
信州大学人文学部
開智学校開校150周年記念展を開催します
開智学校開校150周年記念展
「開智学校のあゆみ-学校と校舎の150年」
事業概要
開智学校が明治6年(1873)5月6日に開校してから今年で150年目を迎えました。開智学校がこれまで歩んだ道のりを、建物と学びの2つの側面から紹介しています。
会期
令和5年4月29日(土)~7月17日(月・祝)
※5月15日と6月19日は休館です
会場
旧開智学校校舎藤棚休憩所(第1会場)
松本市旧司祭館(第2会場)
インターネット展覧会2「松本の小学校とスペインインフルエンザ」
国宝旧開智学校校舎 ネット展覧会
「松本の小学校とスペインインフルエンザ」
このページは、国宝旧開智学校校舎が行った、松本の小学校におけるスペインインフルエンザの流行状況調査の成果を紹介するネット展覧会です。
史上最悪のパンデミックといわれている「スペインインフルエンザ」は、松本の小学校にどのような影響を与えたのか。松本市内の市立小学校に残る学校日誌を調査して、流行状況、学校の対応などを調べました。
今まで、松本の小学校におけるスペインインフルエンザ流行の様子はほとんどわかっていませんでしたが、各学校の学校日誌から多くのことが明らかになりました。その調査成果の概要を紹介します。
※下の項目をクリックするとそれぞれの紹介ページに移動します。
内容
1 スペインインフルエンザとは
史上最悪のパンデミックといわれるほど、全世界で猛威をふるったインフルエンザです。
A型(H1N1亜型)のインフルエンザで、鳥インフルエンザの突然変異によって人間に感染するようになったと考えられています。記録の上ではアメリカの軍隊における患者が初めてとされますが、発生地や発生時期については特定できていません。
それなのになぜ「スペインインフルエンザ」という名前がついたのでしょうか?それはこのインフルエンザが流行した当時起こっていた第一次世界大戦と関係があります。アメリカやイギリス、フランス、ドイツなど各国の軍隊や戦地の民衆の間で広まりましたが、戦時体制下で報道が規制されていたこともあり、これらの国ではインフルエンザの報道はほとんどされませんでした。スペインは中立国であり、報道規制が行われていなかったため、世界に向けて新たなインフルエンザの情報が発信されました。そのため、あたかもスペインで発生したかのように思われ、「スペインかぜ」や「スペインインフルエンザ」と呼ばれるようになってしまいました。
⑴ スペインインフルエンザの流行期間
スペインインフルエンザは、世界では大正7年(1918)から8年にかけて3回の感染拡大が起きたとされています。
日本における流行は、大正7年の秋から半年ほどと、大正9年1月から半年ほどに大きなピークがありました。大正時代に内閣府衛生局がまとめた統計では、大正9年夏から3回目の流行があったとしていますが、感染者・死者数ともさほどではありませんでした。
⑵ スペインインフルエンザの流行状況
全世界におけるスペインインフルエンザの感染者は5億人、死者数は5千万人とも1億人ともいわれています。戦時下のため統計情報にもかなりの混乱があったようですが、スペインインフルエンザによる死者数は、第一次世界大戦による戦死者数をはるかに超えています。
日本では、感染者が約2千4百万人、死者数は約39万人という大正時代の統計が残っています。歴史人口学者の速水融氏は、超過死亡の概念を使って死者数を再計算し、日本国内での死者は約45万人としています。
当時の日本の人口は5千5百万ほどであり、感染者は日本国民の4割近くに上ります。
2 松本の小学校ではどのくらい流行ったの?
⑴ 各学校の学校日誌から
現在の松本市域には、大正7年(1918)当時27の小学校と18の部校・分教場がありました。これらの学校は合併や統合を経て、現在の松本市立小学校(30校)につながっています。今回は、市内の小学校に残る、スペインインフルエンザが流行した当時の学校日誌の調査を行いました。各学校の先生方に確認してもらったところ、19の学校や分教場に関する学校日誌を調査することができました。
19の学校日誌の内、全ての学校でスペインインフルエンザの記述が確認できました。また、錦辺小学校(現四賀小学校)を除く18校の日誌で、学校内でスペインインフルエンザが流行している様子が記述されていました。松本のほぼすべての地域でスペインインフルエンザが猛威をふるっていたことがわかります。
複数の学校では、大正8年度と大正10年度にもインフルエンザの流行に関する記述が確認できました。従来、スペインインフルエンザの流行は大正9年までと言われていましたが、松本の学校では大正11年1月~2月においてもインフルエンザが流行したようです。スペインインフルエンザがすでに季節性のインフルエンザに移行したいたかどうかは不明ですが、一般的に流行が収束していたとしても油断はできないことを伝えています。
⑵ スペインインフルエンザの呼び方は?
当時の先生たちはスペインインフルエンザをどのように呼んでいたのでしょうか。
一番多いのは「流行性感冒」です。これはインフルエンザの当時の言い方です。感冒は風邪のことですが、流行性の風邪という言葉でインフルエンザを表していました。
他にも各校の日誌には、「西班牙インフルエンザ」、「スパニッシュインフルエンザ」「悪性インフルエンザ」「西班牙かぜ」「悪性感冒」「悪性風邪」といったように様々な呼び方が使われています。呼び方のゆらぎは未知なる感染症への恐怖を反映しているかのようです。
3 学校はどう対応したの?
⑴ 臨時休業
学校日誌をみると、松本の小学校では大正7年(1918)10月の後半からスペインインフルエンザの流行が始まっていたようです。スペインインフルエンザの最初の流行に対して、多くの学校は臨時休業で感染拡大の抑止を図りました。
休業期間はまちまちですが、当時の日誌が確認できた19の小学校・分教場のうち、13校で臨時休業(中山小学校のみ繰替休業)が確認できました。このほかにも記念誌などで休業が確認できた学校が2校あります。表1のとおり、概ね3日から10日間の休業でしたが、一部の学校では2回臨時休業を行ったところもあります。多くの学校で臨時休業前と休業後では、欠席者や患者数が減少しており、スペインインフルエンザの大流行に対して臨時休業は効果があったといえます。
(表1 松本市内小学校におけるスペインインフルエンザの流行状況)
臨時休業の手続きについては寿小学校の学校日誌に詳しく書かれています。その様子をまとめたのが表2です。
芳川小学校や安曇小学校でも臨時休業を決定すると村長に届け出を行っており、当時の小学校では臨時休業を決定する際、学校内で方針を出して役所に届出を行う例が多かったようです。開智学校は校長が市長と学校医と協議をして臨時休業を決めていますが、行政側が決定して学校に通達する事例は確認できませんでした。
大正7年度の大流行以降は、ほとんどの小学校で臨時休業にまで至る事態にはなりませんでしたが、鎌田小学校と安曇小学校の2校では大正8年度も臨時休業を行っています。2校とも2回の臨時休業を行っており、かなり感染が広がっていたと思われます。安曇小学校は、大正10年度にも1年生と2年生のみ臨時休業を行っており、また、奈川小学校も麻疹と感冒が流行したため冬季休業を繰り上げて休みにしています。こうした地域による流行の差についての原因は明らかではありませんが、安曇小学校が最もスペインインフルエンザへの対応に苦慮した学校といえるでしょう。
4 大正時代の感染対策は?
⑴ 注意書
スペインインフルエンザの流行が始まると、小学校にも早くから予防や感染発生後の対応についての注意書きが配られていたようです。確認できた中で最も早く配布されたものは、大正7年(1918)11月1日に松本市役所から開智小学校に出された「流行性感冒予防に関する注意」です。開智小学校の学校日誌には、その後も、大正8年1月の「流行性感冒予防心得」(内務省衛生局作成)や大正9年の「学校に於ける流行性感冒予防方法」(松本市役所)が添付されており、インフルエンザ流行に対する警戒が続いていたことがわかります。大野川小学校の日誌にも「流行感冒注意書」(大正9年1月23日)という記述があり、他の学校でも同様に注意書きが配布されていたと思われます。
下にあげた3つの注意書(クリックすると大きくなります)と、現在の感染防止対策と比べてみましょう。特に内務省衛生局が作った「流行性感冒予防心得」は驚くほど、私たちが現在行っている対策と似ています。
⑵ マスク
日本人の間にマスクの習慣が定着したのはスペインインフルエンザがきっかけといわれています。明治初期に日本にもたらされたマスクは、当初、工場などの粉塵対策用として認識されていましたが、感染者の飛沫対策としてスペインインフルエンザ流行時には全国でマスクの使用が推奨されました。松本の小学校においても、大正8年度の日誌からマスクの使用に関する記述が確認できるようになります。
寿小学校では大正9年の1月29日にマスク使用に関する注意を行っており、2月7日にはマスクを着用して対面式を行ったという記述があります。今井小学校でも同年1月29日にインフルエンザ流行の兆しがあるためマスクの着用を児童に指示しています。開智小学校でも、大正9年1月に流行の傾向があらわれると「鼻口マスク」をつける児童が多いと日誌に記されています。インフルエンザ対策としてマスクの使用が定着していた様子がわかります。
⑶ ワクチン注射
大正8年度からは、松本市の小学校でもインフルエンザに対するワクチン注射が始まります。学校日誌からワクチン注射を実施したことがわかった学校は、開智小学校(田町部校と柳町部校も)・源池小学校・筑摩小学校・本郷小学校(三稲分教場)・安曇小学校の7校です。
開智小学校の日誌では「1人12銭」と注射が有料だったことがわかります。12銭は現在の500円くらいと思われます(当時と現在の教員給料の比較から)。安曇小学校(稲核分教場)の日誌からは、学校の教員と児童だけではなく地域住民にもワクチン注射を実施しており、広い範囲でワクチン注射が行われていたことが推測できます。
ただし、この時のワクチン注射は効果がなかったといわれています。そもそも当時はインフルエンザの原因となるウイルスを発見できておらず、細菌などが原因と考えられていました。そういう状況で開発されたワクチンですので、インフルエンザウイルスに対する効果がなかったと考えられています。実際、ワクチン注射の記述が多い安曇小学校では、大正9年2月6日と11日にワクチン注射を実施した後に流行が拡大し、2月18日から1週間以上の臨時休業に至っています。ワクチンの効果がなかったことを示しています。
5 今回の調査から明らかになったこと
①松本のほぼ全域の小学校でスペインインフルエンザが流行したこと
②日誌が確認できた学校のうち、半分以上の学校で臨時休業を実施したが、インフルエンザ対策として臨時休業は有効だったこと、また、実施を決定する主導権は学校側にあったこと(少なくとも役所と学校、学校医との協議の上で決定)
③大正7年度の大流行の際は、感染予防対策は注意書の配布程度だったが、翌8年度には各学校で対策が整備されており、マスクの使用・ワクチン注射が広く行われた
④従来言われていた大正9年度までではなく、大正10年度にもインフルエンザの流行があったこと
今回の調査では上記のようなことが明らかになりました。
100年前の学校が未知なる感染症とどのように向き合っていたかを知ることは、これからの私たちにも有益な示唆を与えてくれると思います。この調査報告が感染症と学校との関係を考える一助になることを願っています。
今回、これだけのことを明らかにすることができたのは、各小学校で大切に学校日誌などの資料を保管していたことによります。学校資料は学校や地域、社会の歴史をよく表してくれる貴重な資料です。日々の保存と今回の調査に快くご協力していただいた各学校の先生方に心よりお礼申し上げます。