上條館長の山城案内 霜降城
霜降城 しもふりじょう(松本市入山辺桐原)
今回は霜降城(しもふりじょう)です。ここは桐原氏の支城として築かれ、その後、小笠原の城郭群として整備されたのではないかと考えます。宮坂本の記載の中にもある「下振、上振、及び弘法山(宮原城)の物見跡」は桐原城(きりはらじょう)と、山家城(やまべじょう)をつなぐ重要な役割があったと思われます。最初はただの砦、狼煙台(のろしだい)程度の役割かなと思いましたが、登ってみると案外縄張りとしてはしっかりしているようにも感じました。
さて、道順ですが、
県道松本和田線を美ヶ原方面に向かいます。旧山辺学校校舎を過ぎるとJAがある交差点がありますので、ここを左折します。
しばらく行くと左に1軒家が建っていますので、そのT字路を右折します。
すぐに左折、右折を繰り返し、東へと登っていきます。
墓地前を右折し
桐原城海岸寺沢(かいがんじざわ)入り口に車を止めます。
現在、砂防ダムの工事が行われています。コンクリートの道を登っていきます。
敷地内には入れませんが、ゲート入り口の右側に鳥獣除けフェンスがありますので、そちらから入ります。
まっすぐ行くと工事現場ですので、工事終了までは遠慮してフェンス沿いに右側に進み、土手をよじ登っていくと砂防ダムの上の広い道に出ます。
その道を50mほど進むと道標がありますので、ここを登っていきます。道はしっかり整備されています。
地元の方が力を入れてくださると始めは考えていましたが、上までいって気が付きました。実は霜降城の上に中部電力の鉄塔が立っています。この作業路として整備された道だと考えると合点がいきます。
同じ道幅の道がずっと続いていますし、掘りの深いところもあります。人力では大変な仕事です。両側に石垣があちこちありますが、これも道を作るときの石を積んでいったと考えた方がいいようにも思います。当時の石垣ならばすごいのですが、作業道であるという確証もありません。
ただ、登りながらみていると溝がいたるところにあり、遺構かとも思いますし、雨水の流れた跡とも考えられ、これは難しいところです。
この場所でこの辺から城跡だろうと考えて、この溝を直登していきましたが、失敗でした。この写真の右側に進んでいけば、主郭(しゅかく)まで行けます。宮坂先生の直登図が私をいざなったので、もしかすると昔は道があったかもしれません。はいつくばって登っていきました。ここからが急斜面の入り口です。
そうこうするうちにようやく、本道?に戻ってきました。この道案内を見たときはほっとしました。
しばらく行くと深い堀切(ほりきり)と思われる場所があります。
ここが主郭の後ろでした。
主郭は27m×17mの平地です。南側には二郭(にのくるわ)が見えます。
背後もいろいろな畝(うね)状の筋が見えますが、登っていくと鉄塔と工事用のはっきりとした道が隣の山に向かっていますので、遺構なのか、あとからのものか、もしかすると、もともとあった遺構を壊してつくったものかとも疑われます。
それでもこの主郭は規模は小さいもののしっかりとした砦であったようにも思えました。
今は木が茂って見えませんが、ここからは対岸がよく見えたと思われます。桐原城から手を振れば見える距離ですし、東の山にもう一つ砦があれば、十分に山家城にもつながると思えます。地図上でいえば、中村の地区の北の山あたりが上振城(かみふりじょう)跡だと推測します。ただ、武石(たけし)古道との関係や古地図を見るともっと、北側に位置しており、番所との連絡を考えると北側の尾根にあったのかもしれません。文献には明確にでていないようなので難しいところです。
帰りはつづら折りのはっきりとした道をるんるんと下りてくると写真の場所(分岐点A)に着きました。
下りてきて、砂防ダム付近で雪をかぶる乗鞍岳(のりくらだけ)、大滝山(おおたきやま)が見えました。目の前には林大城(はやしおおじょう)です。山辺からの北アルプス最高です。
霧降城は迂回したルートを通れば、道に迷うことはありません。比高(ひこう)は高く、少し登りは息が切れます。枯れ葉が多くて大変なところはありますが、チャレンジしてみてください。