旧開智学校の沿革
校舎の沿革
旧開智学校は明治6年(1873)5月6日、筑摩県学を改め学制による小学校として、廃仏毀釈で廃寺となった全久院の建物を仮の校舎として開校しました。新校舎は明治9年4月に全久院跡地に竣工し、昭和38年(1963)3月まで90年近くも使用されました。昭和36年に重要文化財に指定されていた校舎は、令和元年(2019)に近代学校建築としては初めて国宝に指定されました。
文明開化の時代を象徴する擬洋風建築の校舎は、地元の大工棟梁立石清重が設計施工したもので、現存校舎のほかに30余室の教室棟が設けられており「広大華麗・地方無比」とうたわれた大規模校でした。工事は、当時のお金で1万1千余円の巨額なもので、およそ7割を地域の人々が負担し、残り3割は特殊寄附金及び廃寺をとりこわした古材受払金などで調達しました。
大工棟梁 立石清重
旧開智学校校舎を設計施工したのは、松本出身の大工棟梁立石清重という人物です。江戸時代から大工として活躍していた立石は、東京や横浜の洋風建築を見学して旧開智学校校舎の設計にあたりました。その後も、松本区裁判所や長野県師範学校松本支校、松本郵便電信局といった公共建築に加え、数々の民家も手がけていきました。ほかにも、長野県会議事堂の工事や新潟県の裁判所の設計など、その仕事の範囲は松本だけにとどまりませんでした。近代日本を代表する大工棟梁として高い評価を受けています。立石の残した旧開智学校校舎建設に関する図面・帳面類63点は国宝附資料となっています。
明治17年にはアメリカ・ニューオリンズでの万国工業博覧会、同25年には、アメリカ・シカゴでの万国博覧会に校舎の写真が出品されるなど、当時から日本を代表する学校校舎として評価を受けていました。
その後、校舎はなんども水害などの被害にあいましたが、児童や教員、地域の人々に大切に守られ続けました。
長い間、松本の学びを支え市民に愛されてきた校舎ですが、昭和34年の台風による水害をきっかけに校舎の保護のため、新校舎を建設して文化財指定を受けた校舎を移築復元することが決まりました。校舎は、竣工からずっと市街地の中央を流れる女鳥羽川のほとり(現中央1丁目)にありましたが、河川の拡幅工事のため昭和38年1月から翌年8月にかけて、現在地への移転修理工事が行われました。
昭和40年4月、旧校舎は文化財校舎の価値と松本の教育のあゆみを伝える教育博物館に生まれ変わりました。文化財校舎の公開と明治時代から脈々と受け継がれてきた歴代の教育資料3万点(現在は約11万点)を展示する博物館として、現在まで活動を続けています。
開智学校の学び
〇校名の由来
「開智」の校名は、明治5年8月学制発布の前日に公布された「被仰出書」の文中にある「~人々自ヲ・・・・其身ヲ修メ智ヲ開キ才芸ヲ~云々」の「智ヲ開キ」から命名されたといわれています。
〇児童と先生
明治6年の開智学校開校時には1,051人の児童がいたと記されています。その後も増え続け、旧開智学校校舎で学ぶ児童が2,000人を超える時期もありました。現在、国宝に指定されている擬洋風校舎の収容人数は1,300人くらいでしたので(移築の際に取り壊した東西棟・教室棟を含んだ数字)、明治後期になると教室棟が増築されました。
開智学校の先生は開校当初は30人ほどの正教員(訓導)に20人近くの代用教員(準訓導)がいたといわれています。先生の人数も学校の規模の増大と共に増えていき、明治後期には70人ほどの先生がいたといいます。
〇開智学校の校長先生
開校当初の開智学校には「校長」先生はいませんでした。学校に校長職が初めて置かれたのは明治16年です。それまでは主席訓導などと呼ばれる先生が代表を務めていました。歴代の校長先生の中で、寄藤好実と三村寿八郎の2人は特に在任期間が長く、多くの功績を残しました。寄藤校長は約13年の任期の中で、校内図書館の創設や校訓・校歌の制定などに取り組みました。先生自身の研さんが大事と考え、先生各自の研究活動を奨励しました。三村校長は約22年もの間、開智学校の校長を務めました。一市一校制の推進をはじめとして、校庭運動会や林間保育など、児童の健全な成長に力を入れました。その功績の大きさから、現在の松本市立開智小学校にも三村校長の胸像が飾られています。
〇授業の内容
開校当初の開智学校では、明治5年8月に布達された教則に準拠しつつ、読本課・算術課・習字課を設け、英学課も置いていました。英学課は、筑摩県(当時松本が属した県、現在の長野県中南信と岐阜県高山市の一部)内では開智学校だけでした。 その後は、国語・算数・歴史・理科・体操・唱歌などを中心に、時代時代の教育制度に即した授業を行っていました。
〇開智学校に附設された教育機関
開智学校には、各時代を通じてさまざまの教育機関が併設され、幼稚園や高等教育・特別支援教育、社会教育等の礎を築きました。
一例をあげると、
- 師範講習所(明治6年) →後に、信州大学教育学部
- 変則中学校(明治9年) →後に、県立松本深志高校
- 付属幼稚園(明治20年) →後に、市立松本幼稚園
- 開智書籍館(明治24年) →後に、市立松本図書館
- 明治三十七、八年戦役紀念館(明治39年) →後に、松本市立博物館
ほかにも、美術館や特別支援学級などがあります。これらの施設はその後学校から独立し、現在も市や県の教育施設として運営されているものが多くあります。
開智学校は開校以来ずっと、初等教育にとどまらず地域の様々な学びを担い、松本地方の教育センター的役割を果たしました。学都を標榜する松本市ですが、松本の学びの礎を築いてきた学校といえます。
姉妹館提携-擬洋風学校建築との交流
旧開智学校校舎は、愛媛県西予市にある重要文化財開明学校と静岡県松崎町にある重要文化財岩科学校と、姉妹館提携を結んでいます。ともに、古い歴史と伝統を持った校舎であり、教育資料を保存公開する教育博物館という共通点に立ち、文化財保護や教育文化の進展に寄与し、互いの友好親善と交流を推進することを目的としています。
開明学校とは昭和62年(1987)に、岩科学校とは平成17年(2005)にそれぞれ提携を結び、交流事業や記念事業を開催しています。
国指定 旧開明学校校舎
明治15年竣工。木造2階建、白漆喰壁、洋風アーチ型窓などの特徴を持つ擬洋風建築です。長く宇和町小学校として使用され、昭和51年(1976)から教育博物館として公開されています。平成9年(1997)に国の重要文化財に指定されました。
重要文化財岩科学校
明治13年(1880)竣工。なまこ壁を活かした和風要素とバルコニーなどの洋風要素が混ざった擬洋風建築です。左官の名工入江長八の鏝絵が施された鶴の間が見どころ。昭和50年(1975)に国の重要文化財に指定されました。