松本市内遺跡紹介㉓ 「岡田地区の遺跡~塩倉池遺跡・塚山古墳群~」
岡田地区は、縄文時代から中世(鎌倉・室町時代)にかけて多くの遺跡が分布しており、中でも縄文時代と平安時代の遺跡が多数見つかっています。
縄文時代では、早期から晩期までの遺構・遺物が発見され、長い年月にわたって集落が営まれていたことがうかがえます。また、平安時代には田溝池周辺に須恵器を生産した窯跡・北部古窯址群(ほくぶこようしぐん)が広がり、県下最大級の須恵器生産地帯でした。そして、土師器焼成坑(はじきしょうせいこう)や粘土貯蔵用土坑の存在から、地区内には土師器を生産していた集落もあったと考えられ、岡田地区の奈良・平安時代は北部古窯址群の須恵器生産とともに集落が変遷していったと推定されます。
塩倉池遺跡
塩倉池遺跡は岡田地区の下岡田にある塩倉池の周辺一帯に広がる遺跡です。
過去4回発掘調査が行われており、縄文時代中期から後期後半にあたる遺物を中心に、旧石器時代から平安時代までの長期間にわたる遺構・遺物が発見されています。
第1次調査は平成7(1995)年に行われ、発掘対象面積20㎡と狭い範囲ながら縄文時代の敷石住居址1軒と土坑1基、後期堀之内式と思われる埋甕と炉胎土器を含む土器、石製品が確認されました。
第2次調査は平成10年に市道の拡幅工事中に法面から遺構と遺物が発見され、法面観察中心の調査で調査範囲は8㎡にとどまりました。縄文時代中期と考えられる竪穴住居址1軒と土坑7基、縄文時代の土器と石器、古墳時代の竪穴住居址2軒、古墳時代の土器が発見されました。
第3次調査は平成13年に行われ、66㎡にわたって調査が行われましたが、縄文時代と思われる土坑2基と少量の縄文土器と須恵器片が出土したのみとなりました。
第4次調査は特別養護老人ホームの移転改築に伴い平成16年に行われました。調査範囲内には現存する塚山古墳がありましたが事業地に含まれるため古墳の記録保存を主たる目的として調査が行われました。
古墳以外の遺構としては、縄文時代中期とみられる竪穴住居址含む計5軒と土坑3基、ピットや溝址・溝状遺構が確認されました。竪穴住居址のうち3軒は埋甕炉を伴っており、2基の埋甕炉が切りあって出土した住居址も確認されました。この住居址は覆土中に多量の炭化物が含まれており、少なくとも一度は建て替えが行われ、埋没過程中に炭や焼土の廃棄に利用されたと考えられます。また、この集落は塩倉池遺跡で初めて確認された集落でもあります。
遺物は古墳周溝から出土したものが多く、住居址からは縄文土器、石器が出土しました。浅鉢や深鉢などが出土しているものの小片が多く接合できたものは5点のみでした。
塚山古墳群
古くから「塚山」と呼ばれているように古墳がある場所として知られていました。1号墳のみ残されていましたが、かつては南側にもう2基存在し、明治15(1882)年頃に発掘され刀が2本出土したとされています。
今回の調査により、かつて存在していたとされる2基の古墳の場所が特定され、1号墳も予想より大きいことが判明しました。1号墳は直径30mの松本市内でも有数の大型円墳であり平田里1号墳に次いで2番目に大きい円墳となります。
1号墳は、墳丘が唯一残されていた古墳で、築造以来徐々に周囲から削平されたようで、調査前は直径7m、高さ1m余りの小さな墳丘が残されているだけでした。記録に残るところでは大正年間に墳丘が破壊されたとされ、長野県史には「鉄剣1、鉄鏃10、勾玉2、管玉2」が出土したと記載されています。
遺物は墳丘と周溝から出土しました。墳丘からは縄文土器、土師器が出土していますが、これらは古墳築造時もしくは、後世の開墾などの際に混入したと考えられます。周溝からは多数の土師器と須恵器、石器、鉄器が出土しています。須恵器は土師器に比べ接合資料も多く良好な資料が得られましたが、中でも特に樽型ハソウは県内では2例目となる貴重な出土品です。石器は縄文時代と思われるものが多く混入しており、埋没過程で混入したのではないかと考えられます。
2号墳は1号墳の南に隣接し、墳丘、主体部は失われており、周溝のみが残っていました。場所から判断して明治15年に発掘された古墳の一つであると考えられます。周溝はほぼ円形で、南西部分に幅4mの開口部をもちます。周溝の外周は直径約15m、幅は約2mで、1号墳に比べて全体の幅が一定しています。2号墳の周溝からは土師器が数多く出土しました。壷が多く、そのほぼ全てが二重口縁を持ちます。これらの壷はミガキがほとんど認められず、ハケのみで調整しており、法量や器形が定量化しているため、被葬者のために特別に作られた可能性も考えられます。
3号墳は2号墳の南東に位置します。2号墳同様に墳丘、主体部は失われており、周溝のみが検出され、こちらも明治15年に発掘された古墳の一つであると考えられます。1号墳、2号墳よりやや東寄りに造られており、東側は農作業用の道路が通っているため調査ができなかったものの、周溝の外周は約14m、幅は約3mで巡るほぼ円形をし、南西部分に幅6mの開口部をもちます。3号墳は開口部の位置や周溝の規模、その形状など2号墳と非常に類似しています。3号墳から出土した遺物は少なく、僅かな量の土師器と須恵器、石器が出土したのみでした。石器は縄文時代のもの、須恵器は9世紀頃のものと考えられ、混入品と考えられます。
これらの古墳3基ともに、出土した遺物から見て古墳時代中期、5世紀代に築造された古墳と考えられます。