学芸員雑記 山辺学校と兎川寺(とせんじ)
旧山辺学校校舎は県道67号を挟んで兎川寺(とせんじ)の南側に建っています。
前身は兎川学校(とせんがっこう)
兎川寺は開基したのがいつなのか厳密にはわからないくらい古い歴史のあるお寺で、山辺学校の建つ場所もかつて兎川寺の境内でした。
明治4(1871)年、仏教を棄てようという廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の動きにより、兎川寺は一時、廃寺となりました。この本堂を使って明治6年につくられたのが兎川学校(とせんがっこう)で、山辺学校の前身です。
校舎建設前の仕様書にも「兎川学校」の文字が見えます。
山辺地域にはほかにも海岸寺を利用した桐原学校、瑞光寺を利用した南橋学校などが同じく明治6年につくられています。
明治17(1884)年、地元の人々の強い願いにより兎川寺は再興します。学校として利用されていた本堂は、当時の金額1,500円(現在の価値で3千万円以上)で兎川寺へと買い戻されました。
この1,500円を使って里山辺村、入山辺村の2村は新しい校舎を建てる計画をたてます。明治18年、桐原学校など近隣の学校を統合することを条件に、大きな校舎が建てられました。このとき、兎川学校は山辺学校と名前を変え、いま長野県宝として残る山辺学校の校舎が誕生しました。建築費は最終的に1,500円でも不足し、追加で寄附を募ったそうです。
石川数正(いしかわ かずまさ)夫妻供養塔
兎川寺の境内に「石川数正夫妻供養塔」があります。
いつ誰が建てたのか、確実な記録は残っていないそうですが、住職さんに伺ったところ、おそらく数正の子、康長(やすなが)によるものではないかとのことです。
遺物などは埋葬されていなため、「供養塔」とされています。
松本で石川父子といえば、松本城の天守を建てた方々。数正は初代松本城主です。徳川家康の懐刀とも言われた三河(愛知県)の人ですが、出奔して豊臣秀吉についてしまい、家康をおおいに悩ませた人でもあります。秀吉から信濃の国を任され、天正18(1590)年、松本にやってきました。2年後の朝鮮出兵の際に病死していますが、お墓など詳細は判明していません。
跡を継いだ康長ですが、数正の出奔によってこじれた徳川家との関係に配慮し、供養塔を堂々と建てることができなかったのではないか、と兎川寺の住職さん。
供養塔は兎川寺境内の片隅(校舎の東側辺り)にひっそり建てられました。兎川寺は古くから、この辺りを治めていた領主の祈願寺でしたので、その縁もあったのではないかということです。
昭和30年代、現在の場所(本堂の南西)へ移動されました。
(学芸員:岡野)